人気ブログランキング | 話題のタグを見る

●当分の間、去年の空白日に投稿します。最新の投稿は右欄メニュー最上部「最新投稿を表示する」かここをクリックしてください。

●『APOSTROPHE(’) 50th ANNIVERSARY』その5
事とは 金持ち帰る ことなれど 年金使い 奉仕の仕事」、「五十年 過ぎて変わらぬ 吾の熱 されど年々 地球は暑し」、「交霊を より信ずるか 高齢者 長き命に 役割あるか」、「反省を しても変わらぬ 半世紀 広げしことを 片づける日々」
●『APOSTROPHE(’) 50th ANNIVERSARY』その5_d0053294_11325455.jpg
『アポストロフィ』B面最後の「臭足」は、A面最後の「宇宙のゴミ」と同じくスローなブルース曲だ。長年聴いて来たにもかかわらず、歌詞は別として音楽の違いが即座には思い出せないが、前者は前奏があり、後者はごく短いドラミングの直後にザッパの歌が始まる。これも本作のブックレットのサイモンさんの文章から知ったが、後者のベーシック・トラックは去年発売された3枚組CD『ファンキー・ナッシングネス』に収められたライトニン・スリムの「アイム・ア・ローリン・ストーン」のカヴァー曲から転用された。同アルバムについて以前書いた時、そのリフが「臭足」とそっくりであることに気づきながらも同曲について触れなかった。12分に及ぶ演奏で、ザッパが歌うところ、黒人のブルース・ミュージシャンへの強い関心がうかがえるが、同様の趣向は同曲でヴァイオリンを奏でるドン・シュガーケイン・ハリスがヴァイオリンとヴォーカルを担当する『いたち野郎』での「ダイレクトリー・フロム・マイ・ハート・トゥ・ユー」に、曲の仕上がりとしては軍配が上がり、黒人のブルース曲のカヴァーではザッパの歌声は黒人歌手にはかなわないことがわかる。それはともかく、ジョニー・ギター・ワトソンその他、ザッパが愛聴したブルース・ミュージシャンの古典曲に学びつつザッパが特色を発揮しようと、まずはカヴァー演奏をし、そこから音楽はそのままで歌詞を誰も思いつかないものとすることで、「宇宙のゴミ」や「臭足」が出来た。「臭足」のベーシック・トラックが70年録音の「アイム・ア・ローリン・ストーン」から実際に転用したかどうか、またどの部分を使ったかはわからず、それほどにザッパの曲作りはマルチ録音したテープの一部を使いつつ速度や音質を自在に変えたもので、何度も書くように、本人ですらその音のコラージュの過程はよくわからなくなったのではないか。黒人のブルース曲の独特のうねりは黒人が置かれていた社会的立場や生活に由来するものだ。それをザッパのような白人が模倣すれば、精神的な同調は出来ても、声質の差もあっても黒人っぽさを減じるのは仕方なきところがある。それを承知してブルースを演奏するとなると、ジャック・ブルースを招いての「アポストロフィ」のような独自に編み出したリフを執拗に繰り返す即興演奏主体の器楽曲か、もしくはザッパしか書かないようないわばアホらしい笑いを誘う「宇宙ゴミ」や「臭足」になるしかない。それは自分の生活から得た着想が元になっていて、作詞においてラヴ・ソングをひとつの基礎にしながら性本能に注目するか、ボブ・ディランの影響もあって、社会的な矛盾に視野を広げた。
 『興奮の一夜』で初めて披露した1オクターヴ下げた声の低音処理のヴォーカルを「臭足」にも適用したことは、キャプテン・ビーフハートが黒人の歌声に憧れたことの電子機材によるザッパなりのオマージュと言ってよく、元タートルズのフロ・アンド・エディを迎える第2期のマザーズ以前の69年辺りに黒人音楽への顕著な傾倒は始まっていて、そのひとつの目立った成果が73,4年の『興奮の一夜』と『アポストロフィ』にあった。さて、「臭足」はアルバムの締めくくり曲としていくつかの印象深い言葉が歌われる。「想像する病気(IMAGINARY DESEASES)」や「概念継続(CONCEPUTUAL CONTINUITY)」など、またアルバム・タイトルの「アポストロフィ」が「CRUX OF THE BISCUIT」であるとも明らかにされるが、聴き手は相変わらず煙に巻かれたような気分が収まらず、面白さがどこにあるのかと考え込む。歌詞は「宇宙ゴミ」のように単純ではなく、発汗の臭気を介して三つのパートに分かれ、最後はプードル犬とその飼い主との空想上の会話となる。現実には犬は人間の言葉を話すことが出来ず、飼い主に対しての意思表示は態度で示すしかないが、餌を与えられる弱者であるからには飼い主の機嫌を取る本能が働き、虐待と思うことでも背に腹は代えられないとばかりに反抗は出来ない。ここにはザッパが雇ったバンド・メンバーとザッパとの関係が暗示されていると捉えるのは穿ち過ぎだろうが、犬を飼っていたザッパは言葉の通じない主従の関係に思いを馳せることはあったろう。次のアルバムとなる『ワン・サイズ・フィッツ・オール』でも犬について歌う曲「イヴリンは変更犬」が登場する。そこでは部屋にある豪華なピアノのそばでの環境下で初めての経験をしながら、怯えから慣れへと順応して行きはするが、結局はただ吠えることしか出来ず、言葉を持たない犬の表現力の限界を示す。この犬と人間の関係は人間同士でもあり得る。語彙が乏しければ、言葉や文字ではそれなりのことしか他者には伝えられない。また表現者の隠喩的表現が正確に読者に伝わるとは限らず、作者のていねいな説明抜きで提示される詩文は、謎として残るところをそのまま楽しむしかない場合が往々にしてある。「臭足」の最後の飼い主とプードルのやり取りは飼い主の想像かと言えば、飼い主と犬の双方を見下ろす立場にあるザッパの想像で、そのことがまた話の理解をややこしくしている。それはともかく、人間の汗にまみれた臭い足が犬に及ぼす一種の、あるいはおそらく確実な虐待が中心の主題で、「黄色の雪は食べるな」で犬の小便が混じった雪を目玉に擦り込まれた密猟男とは反対の図が描かれ、アルバムの最後に至って最初の曲に概念継続すると言ってよい。その概念が糞尿や臭汗というのは下品そのものだが、動物に普遍のものであって、きれい事を歌わないザッパらしい。
●『APOSTROPHE(’) 50th ANNIVERSARY』その5_d0053294_11332411.jpg
 「臭足」の最初の歌詞は夜型のザッパ自身のことを歌ったように思わせる。しかし歌は「朝になれば部屋の壁で窒息気分を味わい、友人はひとりもおらず、誰もが自分を嫌っているような厭世観に囚われる。そんな時、気分を正す場所がある。靴下と靴を履いてその街角を曲がればよい。そこではそよ風が夜通し吹いて人々は「想像の病気」に囚われている。」と続き、孤独な人でも散歩すれば街の至るところで悩みを抱えた人がいることを知ると諭す。この世間を見通す眼差しは数年後の曲「街の小さな灯り」を思い出させる一方、作家には創造の場と時があるという救いへの意識が見え透く。それは特権と言うほどのものではなく、創作に携わっている限り、そのほかのことを考える暇がないという多忙の多幸感だ。話を戻して、街を歩き通せば病気になる。足が蒸れるからだ。医学では専門用語があるが、簡単に言えば「臭足」だ。「臭い足」と訳すとよりわかりやすいが、医学用語的かつ省略記号のアポストロフィ(’)を適用すれば「臭足」がいいだろう。曲では次のヴァースはこうだ。真夏に1週間もブーツを履き続けた男がそれを脱いでベッドに入った時、ガールフレンドが叫ぶ。「臭い足ね! 鼻がひん曲がるわ! 寝られないわよ! 洗えないの? そう思わない?」この場合は「臭足」と訳すのはよくないが、仲のよいカップルであればふたりだけに通じる言葉を使うことはよくある。筆者も他人が聞いてもわからない言葉を毎日変えながら家内に使う。たとえば「小便」は「おしょんべん」と何でも「お」をつけるとか、「むちゃくちゃや!」を「カムチャッカ半島!」といったように全く関係のない音が似た言葉を発する。そういう筆者からすれば「STINK FOOT」はあまりに単刀直入で面白くないが、「臭い」はこの曲では中心となる言葉だ。さて、ガールフレンドに注意された男はスリッパを子犬に持って来させる。その犬の動きをザッパは音楽で表現するが、飼い主の臭気のあるスリッパを犬が喜ぶのか嫌がるのか、犬を飼ったことのない筆者にはわからない。しかしこの曲では犬が悶絶して倒れたのは確かで、飼い主の香りを好むとはいえ、その匂いの度が過ぎると犬でも嫌がるだろう。飼い主にとっては遊びのひとつでも、犬には迫害になる場合がある。嗅覚が人間よりもはるかに優れている犬にとって、人間でも我慢が出来ない臭気を強制的に嗅がせられることは責め苦ではないか。しかし人間はそういう拷問的行為を性交では求める場合がある。この曲の歌詞は泥鮫を入れられるグルーピーや黄色い雪を目玉にねじ込まれる密猟者との共通性があり、「アンクル・リーマス」における耐え続ければ報われるというリーマス爺さんの言葉も想起させる。さて、最後のヴァースでは犬と飼い主の想像的対話となる。まず犬が哲学的とも言える言葉を発する。飼い主よりも冷静温和で賢いという設定だ。
 「昔誰かに訊かれたのです。『お前の継続している考えは何だ?』それで言ってやりました。『ビスケットの核心がアポストロフィであることを知るのは簡単なはずです。』」 「THE CRUX OF THE BISCUIT」が何を意味するかだが、犬が言うからにはドッグ・フードのそれだろう。しかしその形はさまざまで、その「CRUX」がどういう形をしているか、また犬が言うようにアポストロフィであるとして、そこにどういう意味があるのか。サイモンさんの文章でもその点は断言がない。「CRUX」は「中心部」として、「急所」や「難題」、また本来の十字架の意味から「拷問」の意味もあって、バター犬と同様、女性が自分の急所にビスケットを置いてそれを飼い犬に食べさせる行為を想像させる。では「ビスケットの拷問がアポストロフィ」とはどういう意味か。単語を短く表現する時にこの記号は使われるから、犬はそのつもりか。つまり女陰に置かれたビスケットを食べさせられる行為はもっと短くしてほしいということか。靴を履き続けた男の足が臭いとして、腋や股にも同様に汗をかき、臭気を発散する。そのことをおそらく人間以上に知っている犬にすれば、ビスケットはそのままで食べたいだろう。男が臭気漂うスリッパの臭いを犬に嗅がせる一方で、その犬は女の主からも似た虐待を受けているという図だが、喋ることが出来ず、また空腹が我慢出来ないからには、女を喜ばせながら餌をもらわねばならない。この奴隷と主人の立場は平和に見えるどのような家庭でも大なり小なり日々行なわれている。また人間対人間の性暴力は事件として告発されても、飼い犬とその主となれば、主が飽きれば平気で遺棄することはままあり、そのことは100年前にモーパッサンが小説に書いた。しかしどれだけ虐待されても犬はそのことを告発出来ない。話を戻して、犬が昔からずっと思っていた、すなわち概念の継続が、「ビスケット犬」にされるのは嫌ということを男は聞き、それを信じない。犬が人間の言葉を発することはあり得ないからだ。そして男はアポストロフィだらけの言葉でその犬の言葉を否定する。それは案外「バター犬」や「ビスケット犬」とされる犬の立場を知ったうえでの男の態度であろう。しかし男は彼女にその性癖をやめさせることが出来るだろうか。曲の最後で否定する男に向かってプードルは、背後で鳴っているザッパ/マザーズのブギの演奏が正確であることを言い、そしてひたすら餌をむしゃくしゃと食べ続ける。これは犬であっても人間と同じように感じられ、言葉を使わないまでも人間に意思を伝えられるというザッパの思いだろう。言葉が通じない外国人同士の比喩にもなり得るし、もっと言えば奴隷であっても残酷な仕打ちをされるべきではないとの考えだ。その筆者による行間の読み取りはザッパの継続した思想の根底を成すもので、相手の拒否を無視した強制はしないということだ。
●『APOSTROPHE(’) 50th ANNIVERSARY』その5_d0053294_11333953.jpg
 3回の投稿で済むかと予想していたのが今日で5回目になる。毎回6段落、計30段落、すなわち原稿用紙100枚に満たない短縮の90枚でいいかと考える。ザッパ没後の近年のアルバムはジョー・トラヴァースともうひとりザッパのメンバーや関係者の解説がつき、日本盤独自の説明は添えられないが、日本盤の解説つきという定番の様式をザッパ・ファミリーが真似した側面はある気がする。解説なしでは理解が難しいのがザッパのアルバムや曲で、今回は筆者自身が改めて『アポストロフィ』の内部構造を主に歌詞中心に探ってみた。迷路のように見えることも立ち止まって考えると案外先の道筋は開かれていると思える。それが錯覚や誤解であるとしても、考える楽しみは得られる。ザッパは自らを作曲家と呼んだ。それは作品を構成する意味であって、建築家や彫刻家に似ている。その形をどこから見ても盤石なものとするには熟考は欠かせないから、即興で書いている筆者の文章とはまるで違うが、頭の中のもやもやをひとつずつ文字として吐き続けることは気分が爽快で、他者はどうであれ、自分ひとりは楽しんでいる自覚がある。そうでなければこのような「宇宙のゴミ」を綴る気になれない。しかし即興のことを考えると、ザッパのギターの演奏や机の上での楽譜書きにしても同じ即興のはずで、後者は消してはまた書くという試行錯誤は含むとしても、思いついたことを次々に書く点で筆者のこの文章とある意味では同じと言ってよい。つまり作品は即興で頭に浮かぶことを書くことの連続で仕上がる。そう考えるので筆者は素描としてこうして矢継ぎ早に言葉を紡ぎ、パソコン画面に固定している。二度と読み返すことはないだろうが、何かの役に立つかもという思いは少しはある。本作に話を戻すと、73、4年のザッパのライヴの仕事は2枚組LP『ロキシー・アンド・エルスウェア』として世に出た。没後にその「エルスウェア」での録音が発売されて来た。本作は『アポストロフィ』の50周年記念盤とはいえ、収録曲の大半は同作とは直接関係しない当時のライヴ演奏で、「エルスウェア」での録音の発表を補完している。そのため、スタジオで精緻に組み上げた『アポストロフィ』の構成要素を分析して見せるというより、そのことはザッパ個人の内部にあるという闇は相変わらずであって、マザーズの一発勝負であるライヴを中心に選曲するしかなかった。それでは本来の意味での50周年記念盤にはならないが、ザッパがスタジオでの個人の孤独な編集作業とは別に、ツアーで曲を録音し、それをまたレコードの材料にするという方法を実践していたことから、『アポストロフィ』とその発売日を挟む前後のライヴ録音の提示は意義がある。それにゴールド・ディスクを得た記念すべきLPであったので、前作の『興奮の一夜』と同様の箱入り仕様となったが、「その1」で示したように箱のサイズがわずかに違う。
 本作では写真スタジオで撮ったメンバー写真がディスク2と3に使われ、そこでは9人全員が黒のTシャツを着て、ロキシーでの演奏前後に撮られたことがわかる。この9人からドラマーのラルフ・ハンフリーとギターのジェフ・シモンズ、そしてトロンボーンのブルース・ファウラーの3人が抜けた6人で夏以降ツアーをする。本作では9人編成とその後の6人編成のライヴの未発表かつ最良としてよいふたつの演奏がディスク2,3とディスク4,5に収められる。メンバー数が多いほど音は豪華になるが、3人減ってもほとんど同じレパートリーを演奏し続けたので熟練度が増し、74年の晩期になるほどに演奏速度は増して狂気の極致と言ってよいものとなった。その成果の代表は、生前のザッパが『誰もステージで演奏することは出来ない』という自負の言葉をタイトルにしたアルバム全6集のうち、74年9月でヘルシンキでのライヴを収録した『同、第2集』だが、そのほかにザッパが保存していた録音を発掘し、種々の欠如を最新技術で補って前述のように2か所でのライヴが今回公にされた。演奏時のミスや録音時の不手際など、毎回のライヴが満足の行く成果を得られるとは限らないが、レコードとして発売するには「完璧」を意図する必要がある。その意味では本作のライヴ録音は完全とは言い切れないが、初めて発表されるヴァージョンがいくつかある。それは正式にアルバムで発表される以前の過渡的な形で、いかにザッパが曲を満足の行く形に手を加えて行ったかがわかる作例になっている。その代表は「アンディ」と題されて『ワン・サイズ・フィッツ・オール』で発表される「何かいいことあるかい?」だ。9人編成でのこの曲は「デュプリーのパラダイス」に次いで長い11分もあって、ザッパのギター・ソロが特に緊張を孕んで冷静なものとなっている。3月21日、コロラドでの演奏だが、録音テープ交換時の欠損部は3日前のユタ州での録音から補ったと解説にある。またそのユタ州での同日の演奏から「インカ・ロード」のみがディスク4の最初に14分の長さで収められ、続くディスク4の残りとディスク5前半はボーナス・コンサートと称して11月24日のオハイオ州でのライヴが収まり、その最後は『アポストロフィ』A面の「宇宙のゴミ」を除いた4曲となっている。そのほかスウェーデンのイエテボリでのライヴからザッパのギター・ソロ曲がさらなるボーナス曲としてディスク5に含まれ、数年先んじたザッパの典型的な即興ギター曲の雰囲気がある。演奏場所が変われば録音の音質も変わる。ステージごとに新たに工夫したザッパであるので、同じ曲であっても雰囲気は異なる。そういう微妙な味わいを楽しみたい人はザッパ没後のアルバムを買う。それらが成す星座はどこまで星の数を増やすか。マイクロ・プラスティック混じりの宇宙のゴミを自覚しながら、それらの星屑を見上げる。

by uuuzen | 2024-11-28 23:59 | ●ザッパ新譜紹介など
●『APOSTROPHE(’)... >> << ●温泉の満印スタンプ・カード、...

 最新投稿を表示する
 本ブログを検索する
 旧きについ言ったー
 時々ドキドキよき予告

S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
言ったでしょう?母親の面..
by インカの道 at 16:43
最新のトラックバック
ファン
ブログトップ
 
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  ? Copyright 2025 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.
  👽💬💌?🏼🌞💞🌜ーーーーー💩😍😡🤣🤪😱🤮 💔??🌋🏳🆘😈 👻🕷👴?💉🛌💐 🕵🔪🔫🔥📿🙏?