「
人並みに 奢り怒られ ケチるなと 金持ちほどに 驕りの掟」、「欠点に 気づかぬ画家の 自信ほど 醜きはなし 顔も表わし」、「お洒落して みんな同じに 見える中 ひときわ目立つ 人の不思議さ」、「説明で ひとり置かれる 無名人 写真に写る 透け感さびし」

本作のブックレットに載るサイモンさんの文章を呼んで初めて知ったことがある。筆者が気づかなかっただけでザッパ・ファンの間では情報が伝わっていたのだろう。ネット時代になって欧米での「ザッパ学」はYouTubeも手伝って拡大し、それらの情報を咀嚼するにはザッパの音楽を聴く以上の時間を費やす必要がある。英語に堪能であればよいが、そうでない場合、ザッパの音楽を楽しむにはハードルが高い。それがザッパの人気が東洋で広まらない大きな理由になっているだろう。また英語の理解力があってもネット上のザッパ関連情報から何が良質でそうでないかの区別は初心者が判断するのは無理だ。それは楽器の演奏が出来るかどうかという問題に収斂しない。楽器の演奏能力の程度はさまざまだ。たとえばサイモンさんが『アポストロフィ』B面の最後の曲「臭足」のザッパのギター・ソロがミクソリディアンの音階で奏でられると書くことに対して、どのようなギタリストでもその音階を即座に奏で、また即興で5分や10分演奏し続ける才能があるかと言えば、まあ無理な話で、教会旋法の何たるかを知らないミュージシャンは少なくないだろう。そのため楽器演奏能力がザッパの曲を理解する最低限の条件とは言えない。しかしこう書きながら筆者は吉田秀和がモーツァルトの楽譜を見ながらピアノで演奏することがあると語っていたことを思い出す。それに吉田がザッパ敬愛のヴァレーズに面会し、その音楽に特徴的な音程を書物に書いた時、クラシック音楽の評論家の凄みを感じた。とはいえ彼の美術評論はさっぱり面白くなく、餅は餅屋を思ったが、高度な演奏技術を売りとしたザッパの音楽について何か書くのであれば、ザッパと同じほどの演奏能力がなければ何も言えないかとなればそうではない。ザッパの名前が広まり、アルバムが売れたのは、楽器の演奏は出来なくてもザッパ/マザーズの演奏能力の卓抜さがわかり、またそれを聴くのが楽しいからだ。サイモンさんも楽器演奏の才能があるのではなく、先のミクソリディアン云々は友人から知り得た情報のはずで、つまりは「ザッパ学」の蓄積のお蔭だ。その膨大な情報を知らねばザッパの音楽が楽しめないことは全くなく、ザッパについて「書かれた」ものを読んで楽しむことはその書き手の才能や技術ゆえにほかならない。「読んで時間を損した」、あるいは最初から「読む気を起させない」ものは論外として、どういう文章であれば「読む価値」があるかと言えば、やはりそれは読まねばわからない。音楽もそうで、聴かねばよさがわからない。

そのためには「聴いてみようか」という思いを起こさせる文章をたとえば筆者は書かねばならないが、そのことを意識したことはない。この文章は誰からも頼まれずに書いているが、書くからにはそれなりの覚悟めいたことはある。サイモンさんの文章に戻ると、題名の『アポストロフィ』はセロニアス・モンクのアルバム『EPISTROPHY』とのつながりを示唆している。また同じ74年のザッパの曲「ビバップ・タンゴ」にはモンクの曲からの引用が二度あるとのことで、ザッパないしキーボード奏者のジョージ・デュークが先輩格のジャズ・ミュージシャンの古典曲に造詣が深かったとしてそれは当然だろう。筆者はモンクの名前は昔から気になっているが、そのアルバムを所有せず、「ビバップ・タンゴ」に引用されるモンクの曲がどのメロディであるかは知らない。しかしそのこともネットで情報があるはずで、調べる気になればすぐにわかるだろう。本作でサイモンさんはアルバム『アポストロフィ』の全曲について説明していて、「黄色の雪は食べるな」ではライオネル・ハンプトンの「MIDNIGHT SUN」の冒頭主題が使われていると書く。このことも筆者は初めて知り、早速YouTubeで確認すると即座にわかったが、ザッパがそのことをインタヴューか何かで明かしたのか、ファンが「ザッパ学」として気づいて報告したのか、おそらく後者で、そのように多くのザッパ・ファンが共同する形でザッパが仕組んだことが解明されて来ている。そのことで「ザッパ学」が拡張し、ザッパの「概念継続」はザッパが意図した以上の広がりを見せることになり、ザッパの神格化がますます強固になって行く。話を「アポストロフィ」に戻すと、サイモンさんはこのアルバムないし曲の題名は、過去数年のアウトテイクやライヴ音源からそれぞれ短くまとめた一本の録音テープにあるとする。そのことは『アポストロフィ』を発売当時に手にしたファンが感じたことで、前作の『興奮の一夜』とは違って歌詞の印刷は省かれ、また演奏メンバーは69年の『ホット・ラッツ』時の者が混じるのに、彼らがどの曲を演奏したかの表示がないことも、省略記号としての「アポストロフィ」にふさわしかった。演奏メンバーの数が『興奮の一夜』よりもはるかに多いことは、それぞれの時期のマザーズの録音テープを使用したことを思わせ、また多重録音で仕上げた『アポストロフィ』のどの部分がいつ誰の演奏かを表示するのはあまりに煩雑になるうえ、ザッパ本人が記憶しないことが最大の理由でジャケット裏面にメンバーの名前だけの表示になった。このことはザッパは各メンバーとの契約時に契約金を支払い、録音した音源はどのようにレコードに使ってもよいという一行を含めたことを想像させる。つまり自分の金で他者の表現したものを買い、それら素材をどのように調理してもザッパの勝手であった。
たとえば明らかにジャン・リュック・ポンティであることがわかるヴァイオリンのごくわずかな演奏がある。それはテープの編集技術あってのいわば安上がりの作曲であって、そういうテープの細かな切り貼りはモンクやハンプトンの時代のジャズ・メンは考えなかったし、技術的にもまだ不可能であったろう。ザッパのアルバム作りはスタジオとライヴの音源を組み合わせることに特徴があり、一曲においてもそうであった。あるギター・ソロをテープの回転速度を変えて別の曲のソロとして構築することを『ジョーのガレージ』ではクセノクロニーと称して行なった。その手法はザッパのヴァ―ヴ・レーベル時代から始まり、『アポストロフィ』でも行なわれた。複数の録音を切り貼りすることと、LPという裏表にせいぜい20分までの録音を封じ込める制限を守るからには、長めの演奏が得意なザッパは徹底して音を多重化しつつ演奏を短縮する必要があった。前者はメンバーのクレジット数の多さになるが、各演奏者はアルバムを聴くと「この部分は自分の演奏だ」とわかる、すなわち「’s」としての所有はただちに理解するはずで、またそのことはジャケット裏面に名前が記され、契約時に支払ってもらっているから文句を言えるはずはない。一方では彼らの演奏はすべてアルバムに収めるために限界まで短く編集され、そのことは省略記号としての「’」となっている。省略はエキスの提示で、無駄を削ぎ落した完璧に近づく。『アポストロフィ』は全体で32分ほどの演奏で、その元ネタになった録音は全部が残されておらず、またザッパが保存しなかったのは、アルバムとしての完成作のみが残ればよく、他はその経過として価値を認めなかったからだろう。『50周年記念盤』は大半が『アポストロフィ』とは無関係のライヴ録音で、ザッパがテープを短く編集する前の長いヴァージョンは10年前に『THE CRUX OF THE BISCUIT』におおよそ収録され、今回はビスケットすなわち二度焼きの度合いが濃いが、『THE CRUX…』には収録されなかったヴァージョンを含む。いずれにしてもザッパがエキスとして発表したヴァージョンと、切り取りのない元のロング・ヴァージョンの双方を聴くことでザッパがどの箇所を重視したがわかる。どちらのヴァージョンがよいかとなれば、ザッパはLPに収めるためにやむを得ずに短くカットしたことはままあったはずで、長いヴァージョンが一概に退屈とは言えない。エキスは宝石のように完璧かもしれないが、ロング・ヴァージョンを知ればどこか物足りなさがあるのも事実だ。サイモンさんが書くようにLPは盤の中心部分に寄るほどに音質が劣化し、それでザッパは『アポストロフィ』を30数分に収めた。CDではロング・ヴァージョンが音質の劣化なく収録可能で、そこにザッパ・ファミリーが豪華盤を発売する口実もある。

「アポストロフィ」は6分弱の演奏時間で、『アポストロフィ』の全9曲では「臭足」に次いで長い。冒頭に繰り返される短い主題は『ホット・ラッツ』の「ウィリー・ザ・ピンプ」を連想させる。クリームの著名なベーシストのジャック・ブルースを招いて演奏させたところ、主題に呼応するブルースの即興能力の提示に興味があり、またさすがの技術と納得したはずだ。そのブルースの才能の際立ちによって『ホット・ラッツ』よりも一段高みに達した曲の仕上がりを認めたであろう。それゆえにアルバム・タイトルになったと考えたい。またクリームでブルースとコンビを組んだエリック・クラプトンの位置に自分が立ったならばどういう演奏を示し得るかの興味があったろう。ならばブルースと永続的に演奏すれば第2期のクリームになったが、そういうギタリストのみとしての立場にザッパは興味がなかったのではないか。あるいはザッパの誘いに対してブルースは一度限りの録音ならばと承諾したかもしれない。それはともかく、クリームが解散した68年から5年後となればロックの時代は大きく変化していて、第2期のクリームをザッパが組織していても短命に終わったのではないか。この曲は『ホット・ラッツ』のギター・ソロ曲と同じく、長大なソロをいかにLPにエキスのみを収めるかの短縮編集技術を駆使し、その意味では本作『50周年記念盤』のディスク1にどの箇所を活かして編集したかがわかる、本来は倍近かった演奏が収録されることは、『THE CRUX…』にはなかったボーナスとなっている。しかしブックレットに書かれるようにこの11分に及ぶヴァージョンでもいくつかの編集があるとされ、スタジオでベースのジャック・ブルースやドラムスのジム・ゴードンらを集めて演奏した実際のヴァージョンがどうであったかはわからない。また一回だけの演奏とは限らないはずだが、テープは残っていない。最初の主題の演奏の後、ジャック・ブルースのソロが始まる。本作のロング・ヴァージョンではそれは10数秒長いだけで、『アポストロフィ』ではザッパのソロの半分以上が切り取られた。それはせっかくのジャック・ブルースとの共演で相手を立てる意味合いがあるが、ザッパのソロは実際冗漫な部分が目立つ。短い主題の繰り返す曲であるから、6分ほどでまとめたのは聴き手にとっては起承転結がはっきりとわかって聴きやすい。ロング・ヴァージョンではきっちりと終わっているが、そこにはフェイドアウト処理を最初から想定した感があって、同じ主題を延々と繰り返す曲の個性を印象づけるにはフェイドアウトのほうがよい。前作『興奮の一夜』からザッパはリード・ヴォーカルに自信がつき、その延長上に『アポストロフィ』がある。またA面は組曲形式を意識した物語性があって、その点は後年の『ジョーのガレージ』に拡大化される。

ザッパは物語を書くことにもっと時間を費やせば早い段階で本格的なオペラに踏み込んだはずだが、「グレッガリー・ペッカリーの冒険」は『アポストロフィ』の編集技術がさらに複雑になった極致の成果で、もはやロックの範疇に含められないところ、ザッパの作品のひとつの頂点となった。それはどこまで遠く行き着くことが出来るかという自己に課した苦行のような創作に思え、真に金目当てのみであれば作り得なかったアルバム『金こそ目当て』の何倍もの商売を無視した態度が見える。しかし満足の行く作品でなければ公表したくないという作家としてはあたりまえの矜持ゆえで、本作で発表された「アポストロフィ」のロング・ヴァージョンがいくつかの編集の痕跡があることも、演奏ミスはもちろんのこと、演奏者にしかわからないようなごく些細なまずい箇所を残したくなかった思いが見える。それは自分ならばもっとうまくやれるという自信があってのことだ。その自信がどのように形成されるかとなれば、表現者それぞれで異なる問題で絶対的方策はない。ただしザッパの作品からわかることは先人の作品を知ることと技術を磨く努力を続けることだ。このふたつを侮る者は間違って一時の名声は得ることはあってもそれは永続しない。今は時代が違うと反論する若者は多いはずだが、半世紀後に本作が世に出るような飛び抜けた才能は稀だ。さて、B面3曲目「アンクル・リーマス」はジョエル・チャンドラー・ハリスの著作の題名になっている黒人のリーマス爺さんそのものを曲名にしながら、貧富の差の激しいアメリカでの現代の黒人の若者の悩みと行動の一端を描く。筆者は長年気になりながらもこのハリスの著作を読んでいない。その日本語の訳本はいくつも出ているが、有名な児童文学であることから平和な描写に終始していると想像するからだ。この曲は唯一のジョージ・デュークとザッパの共作で、デュークが歌って自作アルバムに収録したヴァージョンは、倍ほどの長さのあるスロー・テンポとなっている。『アポストロフィ』でのヴァージョンではザッパが歌うが、バックに当時ティナ・ターナーのバック・ヴォーカルを担当していた女性歌手が3名ほど参加し、デュークのピアノの演奏も相まって黒人っぽい仕上がりになっている。黒人がロサンゼルス市中で騒動を起こしたことに対してザッパは「トラブル・エヴリ・デイ」を作曲して歌った。それから8年後に発表された「アンクル・リーマス」はそれらの暴動で暴れた黒人のひとりか、暴動に理解を示す若者を思えばよい。チャンドラー・ハリスが生きた時代からすれば黒人の待遇は改善されたが、それでも人種差別はなくならず、アメリカン・ドリームを実現出来るのはごく一握りの者だ。そのひとりにジョージ・デュークは属したが、この曲を共作しようと提案したのはどちらであるか、また作曲と作詞をどう分担したかはわからない。
詩の滑稽な姿の描写はザッパが書いたと思うが、短調の曲であるのでその滑稽さにも悲哀がまとわりつく。歌詞からはチャンドラー・ハリスがリーマス爺さんの考えとして「努力は報われる」と書いたことがわかる。この歌詞の下りは直訳では「グラインダーに鼻を近づけたまま」とある。これは比喩で、実際に工場で回転する研磨機に向かって仕事することを含みながら、仕事を黙々と続けることを意味する。筆者は学生時代に同じ回転研磨機に向かって鋳物のバブルのバリを削り取るアルバイト仕事をしたことがあるが、そういう仕事を一生続けることは絶対に嫌だと考えながらであった。それには学校での勉強に精出し、少しでも収入のよい仕事に就くに限る。しかしそれが好きな仕事であればいいが、そうは行かないことは珍しくない。それで設計会社の収入のよい仕事を辞めて京都に出て友禅師に就いて薄給の仕事に2年従事した。その間やその後も猛烈に学び、ごくわずかな賃金から作品制作の費用を捻出し、努力を惜しまなかった。30歳までに満足の行く自作を作るという覚悟があって目論見どおりになったが、それは好きな仕事であり、また妙に自信だけはあったからだ。その自信は誰よりも努力することから生まれた。それはさておき、グラインダーに鼻を擦りつけるように仕事に頑張れば本当に報われるのかと若者から疑問を抱いて不思議でない。しかし他に収入の道がなければどうするか。やくざの仲間になるか、その勇気がなければ工場の退屈な仕事に携わりながら、せめて人目につくお洒落をして街を歩くことで自己主張するしかない。そんな派手な姿で歩くと揶揄され、ホースで水を撒かれて冬場であれば凍った路面に滑って鼻を打ってしまうと歌うが、ザッパと違って黒人であれば鼻は低いのが相場で、鼻を打つことはないと言えば差別になる。路面に鼻を打つというのは先のグランダーに鼻を近づけたままの姿と対になっていて、この曲では「鼻」がひとつのキーワードだ。それは最後の曲「臭足」で謳われる悪臭に概念継続していると思えばよい。努力が報われるのが本当かどうかは個人の思いによる。何を以って報われたと感じるかだ。筆者は設計会社勤務のままであれば生涯収入は何倍にもなった。だがそれには代えられない満足がある。一流会社を定年まで勤めた後、若い頃に憧れていたエレキ・ギターを買い、ようやく存分に演奏出来るようになったはいいが、茫然として演奏する気力が湧かない高齢者をTVで見たことがある。彼は経済的にも家庭生活にも恵まれて人生は報われたはずが、若い頃の夢を犠牲にした。努力が報われるかどうかとなれば、おそらく金持ちになることも含めて、自分の能力を信じ、誰よりも時間を費やして研究と分析を続けることが絶対的な前提としてある。才能の芽が開花し始めるのはそれからだ。それがわかる人、また実際にそうしている人はザッパの音楽の神髄を理解するだろう。
