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●『APOSTROPHE(’) 50th ANNIVERSARY』その2
人も 腹減ることを 自覚して 心の狂い 気づくことなし」、「分別(ふんべつ)の ある人はする 分別(ぶんべつ)も なぜかプラゴミ 人の体に」、「次はこれ 順に仕上げて 次が増え 気の休まりを 死と捉えれば」、「辛辣の 棘を隠して 薔薇描く 画家の思いは 美とは何かと」
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昨日書いたように京都市の生ゴミ専用の袋は黄色でしかも中は見えない。ガラス瓶やプラスティック・ゴミ専用の資源ゴミ袋は透明だ。その理由を推察するに、ゴミ回収車の内部に放り込む人がガラスやプラスティック以外のものが入っていないか確認するためで、また扱う際に怪我をしないように注意を払えるからだろう。この透明袋をいいことに、ゴミ回収車が来る前にホームレス然とした老人が自転車で駆けつけてアルミ缶を抜き取る場面に遭遇したことがある。それを窃盗として糾弾する警告文を見ると、どの道、資源ゴミは資源になるし、またホームレスの現実を思えば目を逸らせていい行為と思う。厳しい眼を政治家にもっと向ければいいものを、ホームレス相手に弱い者いじめをしているように映る。それはさておき、生ゴミの袋にガラスやプラスティックを混ぜてもそのまま焼却場で燃やされるから、ゴミ袋を黄色不透明と無色透明とに分けても効果は絶対ではない。それに分別の手間や資源的価値を考えれば、生ゴミとプラは一緒に燃やしたほうがいいという意見はあるし、京都市だけ徹底したところで、日本の他の地域や世界は同様ではなく、マイクロプラスティックが動物や人間の体内に入り込むこととなった。その影響は今のところ出ていないようだが達観は出来ない。酷使される掃除機がいつかは人間に復讐するのではないかとザッパは考えた。便利と思って使い続けているといずれひどい目に遭うことは、産業革命以降の世界を見ると、地球温暖化など誰でも感じているのではないか。話を戻して、生ゴミ用の黄色の袋が不透明であるのは臭気を発するゴミを目にしたくないためという意識が働いてのことだろう。黄色は交通標識にもよく使われて注意喚起の基本色との共通認識がある。生ゴミは肥料になるので本来資源ゴミだが、化学肥料で植物を育てるようになって人間の死体を焼却するのと同じ運命をたどった。糞尿は下水処理施設がない場合、また溜め込んで農業の肥料にするのでない限りは、ある程度そこらに用を足したままとなる。道路上の犬の糞も数日すれば消えてなくなるから、歩く時に注意すれば動物の糞はさほど気にならない。アルバム『アポストロフィ』の最初の曲「黄色の雪を食べるな」の歌詞の最初は「エスキモーになっている夢を見た」であるから、歌詞全体は空想とみなしてよいが、ザッパはエスキモーの生活のドキュメンタリーをTVか何かで見たか、またその時に雪が黄色になっている箇所があることを知った、また母が子にその雪は食べてはならないと教えていることを面白いと思ったのだろう。
 「黄色の雪は食べるな」はエスキモーの母がナヌークという名の子にショーに行かずに金を貯めろと言っても耳を貸さないことが歌詞の中心になっている。母からすれば娯楽にうつつを抜かすことをたしなめるのは当然で、ナヌークの母はまともな感覚の持ち主だ。92年9月にフランクフルトでザッパに会った際、筆者は息子の生誕100日目に撮った写真をザッパに示しながら、「息子に聴かせています」と言ったところ、ザッパから「聴かせないほうがいい」と言われた。ロック音楽好きになって趣味で時間と金を消費する道楽者になってはいけないという思いからだ。創造の才能が思い込み、作家活動を続ける者は多いが、傍から見れば大多数は「人生を誤る」のであって、若い間にそのことに気づく「まともな」場合はいいが、常識的な人が享受する多くの幸福を犠牲にしてまですべきことではない。とはいえ、ほとんど人は聴く耳を持たず、自信過剰のまま夢と現を混同して過ごす。一方で真に創造的な作家は名声があってもそれに酔う暇がないままに創作に日々悪戦苦闘する。それはともかく、「黄色の雪は食べるな」にはショーを生業とするザッパの自己の弁え、謙遜が透いて見える。ロック音楽の流行は明日がどうなるかわからない。どのような職業でも賭けとはいえ、ショー・ビジネスはその最たるもので、まともな人間が携わる職業ではないというのが古今東西の常識だろう。それを自覚し、常に忘れないようにしておくことと、絶えず新たな作品を生み出そうとする強迫観念に支えられた前向きの意欲をザッパは抱え続けたが、ひとりで表現する画家や文筆家と違って集団で演奏するザッパのような場合、メンバーと契約し、必ず仕事に見合った賃金を支払う親方としての自覚を徹底せねばならず、ショーの続行は命がけとなった。つまりストレスが大きかった。自分ひとりが自由に生きることはホームレスにでも出来る。家族を持ち、メンバーを雇い、創作行為を金に換える行為は、才能がすべての世界とは表向きは言えるが、実際は大資本の思惑がものを言い、表現者は消耗品扱いだ。「まるっぽ商売」の思想はそれはそれで厳密で純粋なことだが、「人を欺く」要素が入り込みやすく、ナヌークの母は人生経験からショーの本質にそれがあると思っている。今は「あざとさ」に欺かれていることを承知のうえで「推し」と称して年配者でもアイドルを見つけて応援するショー全盛時代だが、それが国家の傾斜角度に応じて来ているという醒めた目は必要だろう。ザッパはそういうことも考えながら、「黄色の雪は食べるな」のナヌークとその母のやり取りの場面を歌詞にしたと思う。そこにはアイドルやそれを扱う会社のあざとさに騙されることなしに、まともに音楽行為に心身を捧げ続ける音楽家を見出す人がわずかでも絶対に存在することへの信頼はあった。
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 ただし「まるっぽ商売」はまるっぽ否定されるべきでものではなく、ショーを見て損した、レコードを買って損したと思わせない高度な満足感を意識する表現者はいる。それはごく一部に存在する耳の肥えた人々がいることへの畏怖感、信頼感があってのことで、それは世界の普遍的常識だ。自分の才能に自惚れる一方でどこかに比肩する者が確実にいるという競争心や同業者としての愛情の反映でもあって、「わかる人にはわかる」という楽観主義だ。長年のザッパ・ファンは傍目には秘教者集団めくが、それはあざといアイドルに留まらない、純化された、言い変えれば確かな才能と技術に支えられた創造者への聖なる崇敬が核心にあり、他の音楽家からは得られないものがあるからだ。とはいえそれもアイドル崇拝と同様に狂信的との謗りを受けるおそれはあり、適当に聴いて適当に楽しむことが正しいという見方もある。しかしザッパの音楽はそうした表向きの、言い変えれば皮相な楽しみ、つまり一アイドルの音楽として享受し切る消耗品に収まらない深層を見せている。創作行為に身を投じている者には特にそう思えるだろう。さて、エスキモーの夢を見たとして、その夢の映像を他者に音楽と言葉で伝えるには、またレコードに収めるには、いくつもの手間のかかることを片付けて行かねばならない。詩を書く一方、演奏し、演奏させ、それらを録音し、そのテープを切り貼りし、さらに別の録音を重ねるなどした工作物がたとえば「黄色の雪を食べるな」であり、『アポストロフィ』になったのであって、凝りに凝りたいザッパであったから、自分でも細部がどのように組み立てたかはいちいち覚えていなかったろう。そのことが前作の『オーヴァーナイト・センセイション』とは違ってLPでは歌詞は印刷されず、どの曲がいつどのメンバーが携わって演奏されたかの明記もない状態で、ザッパの顔のみ大きく印刷したジャケットに収められた。これは初めてザッパが自身の顔を真正面から捉えた写真を修整なしで提示したアルバムの事例で、持てる才能の全開を遂げた自信があってのことだろう。そう考えると情報が少ない分、歌詞その他から詮索する興味が湧くことは自然で、「ザッパ学」の観点から他のアルバムとどのように概念継続しているかを知ることで面白さは増す。またそれは「黄色の雪を食べるな」の最初の歌詞の一行が示す夢見が現実とどのように交差するかの吟味を通じて、たとえばこの文章を読む人の人生観と交わることでもあって、記録された言葉や音などが人生に与える意味や不思議さを感じる一方、生きること、生きていることと肉体の滅びがどういうことであるかの哲学的思索を強いる。つまりザッパの思想と仕事は作品に生きていて、今後も消耗され尽くされないものを内蔵している。また話を戻すと、母親が諭しても言うことを聞かないナヌークは道楽息子のようだが、ショー好きな子は珍しくないだろう。
 他者の芸を楽しむことは健全であって、芸の何かを理解しない者が詐欺も平気な「まるっぽの商売人」になる。金持ちになりたいのは誰しもとして、そこに努力と仕事の量に見合う金のやり取りがあればいいが、騙す努力と才能に秀でた者が、疑うことを知らぬ純朴な、言い変えればアホな人を餌食にする図が蔓延し、変化がないままはまだましで、国家衰退はあり得ることで、話が堂々巡りになる。話を戻して、母は言うことを聞かないナヌークに対して泣きながらも最後に「ハスキーの行くところをよく見て黄色の雪は食べては駄目よ」と叫ぶ。そして背を向けて出て行くナヌークの行動が2曲目で描かれ、そこにザッパの義侠心が垣間見える。エスキモーが外で小便する場合はままあるはずで、黄色の雪が犬のものとは限らないが、そうである場合の可能性は大きい。人間の小便を飲む人はいるが、犬のそれを健康によいと思い、あるいは変な性癖から飲もうとする人はまずいない。同じ雑食性でも犬も人間の糞尿を食べることは嫌がるだろう。しかしそれをわかっていて飼い馴らす者はいる。バター犬がそうで、若い女性が陰部にバターを塗って毎夜飼い犬に舐めさせることがあるという。ザッパは犬好きで何匹か飼っていたようだが、ザッパの曲では靴や歯、犬が概念継続の要素としてしばしば登場する。極寒のツンドラ地帯でエスキモーはハスキー犬をイグルーの中では飼わずに外に放置したままと思うが、そうなるとハスキーは自分の縄張りを守るため、特定の場所を排泄用とし、そうした場所が犬の数だけ存在する。エスキモーは喉の渇きを潤すために雪を頬張ることがあるのかどうかだが、ナヌークの母が黄色の雪は食べるなと注意したのは現実的ではない。よほど小さな子でもない限り、またショーを楽しむナヌークであれば、犬が小便をした雪を避けることくらいはわかっているからだ。それともナヌークに犬の小便雪を食べる性癖があることをたしなめてのことか。ともかく外に出たナヌークはあざらしの赤ちゃんを鉛の詰まった雪靴の先で蹴飛ばして殺す毛皮商人を目撃し、その悪魔のような行動に対してそこらにある犬の尿で固まった雪をその男に飛びかかって目玉に擦りつける。尿だけではなく、雲古の尖った塊も突っ込み、両眼を見えなくさせる。これは正義の行為としてやり過ぎかもしれないが、小さな無抵抗のアザラシを蹴飛ばして殺す行為に対する罰として聴き手は喜ぶ。金儲けのために何をやってもいいのかという怒りを持つナヌークはまともだ。しかしこの赤ちゃんアザラシを商売とするような輩は日米問わず芸能界にはいるはずで、性暴力を振るわれて気にしない、あるいは歓ぶ場合は問題は起こらないが、アイドル商法で売る会社はだいたいが悪徳女衒の巣窟ではないか。そして若い性の人身御供に鈍感になった、金だけはある有名人が片っ端から女性を食い物にして醜悪な顔をますます世間に晒す。
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 夢は鮮明な画面の連続であっても脈絡が出鱈目で、覚醒している時には思いつかない話の筋となる。そういう起承転結のない夢を克明に文字に起こしても芸術と呼べる面白い作品にはならない。そのことを承知でザッパは夢と前置きしながら、夢の中の映像のように人物の行動を描くが、その裏には日常考えている確信がある。それは結局夢の由来であるから、夢物語であると断って提示する内容は現実そのものと言ってよい。さて、ナヌークに両眼を傷めつけられた毛皮商人は目を治すには聖アルフォンゾの教区に行くに限ると思い、ツンドラを何マイルも歩いて行く。そこで3曲目「聖アルフォンゾのパンケーキの朝食」に移る。聖アルフォンゾのパンケーキを供する教区のとある家で狩猟男はマーガリンを盗み、またビンゴカードに放尿する。マーガリンを目に塗れば痛みが和らぐのかどうか、男はそう信じていたとの設定だ。また男はその家で女王のような立派な衣装の女性が現われることを目にする。女はソーセージを使って自慰をし、海兵隊員の老いた男に向かっていじめてほしいと懇願するが、威厳のある女性でも性的に倒錯している場合があることを皮肉るザッパの眼がある。これは短い歌詞ながらモーパッサンの短編のようなリアリスムで、ザッパの歌詞が卑しいとされるゆえんはこういう歌詞にある。港を転々とする海兵隊員であれば売春婦を買うことはよくあることだが、その場所を次々に移動する「商売」の点でロック・グループは共通する。グルーピーがつきまとうほどの有名なグループであれば性にまつわる馬鹿話には事欠かず、その代表的な異様なこととしてザッパはヴァニラ・ファッジが経験した「マッド・シャーク」(泥鮫)の物語を書いた。これは窓から釣りが出来る宿に宿泊したヴァニラ・ファッジのメンバーが釣った泥鮫を女性に突っ込み、その様子を撮影したフィルムをマザーズのメンバーが見せられたことを聞いて書いた歌詞だが、女性がのた打ち回った様子をナヌークが黄色い雪を毛皮商人の目玉にねじ込んだ直後、その商人がじたばたした様子になぞらえることで概念継続性を示す。どちらの行為も拷問だが、泥鮫を入れられた女性は歓びが混じっていたであろう。毛皮の密猟男はただただ両目が痛かっただけかと言えば、それは本人に訊かねばわからない。痛みが極致に達すれば快感が混じるかもしれず、またそのことは仕事中毒であったザッパの思いであったかもしれない。根を詰めた仕事に好んで従事することはそういうことが嫌でたまらない人からすれば拷問にほかならない。しかし本人は好きでやっているのであって快感がある。ザッパがしばしばサドマゾについて歌詞に描くことは、それが人間の本質を読み説く真理のひとつと考えていたからだ。偶然と言うべきか、日本語では「聖なるもの」が「性なるもの」と同じ発音で、ザッパは聖なる職業や人物を誰にもある性の趣向性から描く。
 ザッパが嫌ったもののひとつにカトリックがある。それは人格者とも言えない人物が権力者になる場合があるからで、どの宗教も「まるっぽ商売」と言ってよい。日本で言う「坊主丸儲け」もそう思う人が昔から多かったからで、聖職者は平凡な人を見下ろしながら崇められ、しかも経済的に困ることはないどころか、時には生殖者になるという最も恵まれた「商売」に従事し、政治家がその隣りに並んで性事家ぶりを陰で発揮する。しかし純朴ないし鈍感な人々の信頼の拠り所として宗教施設はなくなるはずがない。そのようにしてカトリックは強固な基盤を世界中に築いて来た。4曲目「オブリヴィオン神父」は教区の信者たちに配る朝食用のパンケーキを作ることを歌うが、昨夜自分の男根が勃起し、それをしごくことに精を出したために朝になってパンケーキを焼く作業にぼんやりとする。自慰行為はアリルランドの小さな男性の妖精レプラコーンが自分のスモックを突いたためと思い込んでいるが、そのようにして罪の意識を逃れるつごよさは純朴ゆえとは言える。若い女性ないし男性と交わらずに自分で欲望を始末しながら、朝になっても勃起することを神に感謝する。それは元気である証拠で、そうであるから自慢のパンケーキ作りに精を出し、信者に配ることも出来る。勃起した男根のためにつまずいた拍子に靴下を破るが、そうした滑稽な場面の描写は「COCK」と「SOCK」の押韻のためで、同じく「SMOCK」や「CLOCK」、「BLOCK」も使われる。概して毛皮商人の災難と同様に笑いを中心としながら、神父の優しい尊厳は失われていないと読み取るべきである一方、性の処理に翻弄される人間の本質を描いている。この曲のパンケーキ作りは後年のアルバム『ジョーのガレージ』に登場する主人公が最後に収まるマフィン作りに反映している。つまり概念継続だが、「オブリヴィオン神父」では最後に神父に挨拶する信者が「雪靴をお持ちいたします」と言い、神父が北極に近い地域で寒い早朝に雪靴を履いてパンケーキを配り歩く姿を想像させる。ナヌークの母親の家にももたらされると解釈すれば、カトリックを信仰するエスキモー社会のキリストを介してのつながりが想像出来、そこからナヌークの密猟者への正義感溢れる攻撃が納得出来、しかもショーに無駄金を使うなという母のたしなめの言葉もよりわかるが、聖俗を問わず滑稽で愚かな面を持っているとのザッパの見方が背後にあることは明瞭だ。ザッパはカトリックで育ったが、その欺瞞の側面を揶揄したのであって、キリスト教全般に対して正面切っての批判はしなかった。ただしそれが政治と手を結んで自由を阻む場合は別だ。『アポストロフィ』のLPのA面は一連の辻褄の合う物語になっているかと言えば、各曲の場面は夢のように断片的で、歌詞のみならず、音楽的にも5曲目の「コズミック・デブリ」はもろブルースで、適当な付け足し感がある。
●『APOSTROPHE(’) 50th ANNIVERSARY』その2_d0053294_01425851.jpg


by uuuzen | 2024-11-25 23:59 | ●ザッパ新譜紹介など
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