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●『APOSTROPHE(’) 50th ANNIVERSARY』その1
Wは Uのだぶりの 垂れ乳と 思えど言うな 今はセクハラ」、「半世紀 過ぎて一夜の 興奮か つまるところは 悔いの少なさ」、「顧みて 道楽者の 吾と知り 今夜聴くのは バロックの音」、「点にすら なれぬ地球の 点以下の 人の想いの はかなきは夢」
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アマゾンで8月5日に予約し、9月23日に届いた『アポストロフィ、50周年記念盤』について今日から数回に分けて投稿する。先日の『ザッパロウィン24』で語ったが、商品が届いてからほとんどまともに聴かなかった。その暇がないというのではなく、予想した以上には面白いと感じなかったからで、ディスク6枚組にして価格を吊り上げる必要はなかった。6枚のうち最初の5枚はCDで、最初の1枚が今年リマスターされた74年発売の『アポストロフィ』とそのアウトテイクス、他の4枚は74年のライヴ録音が収録される。6枚目はブルーレイのオーディオ・ディスクで、音楽を背景にLPが回転している映像が続く。『オーヴァーナイト・センセイション』とそれに続く『アポストロフィ』はザッパの最もよく売れた代表作だ。収録時間がどちらも30数分で、最初にCDとして出た時はカップリングされた。その後LPと同じく、それぞれ1枚もののCDとして発売されて現在に至るが、一方ではゴールド仕様の特別盤CDが発売されたこともある。それほどこの2作は別格という捉え方だが、ザッパ本人がそう思っていたかどうかはわからない。たまたま大ヒットしただけであって、ゴールド・ディスクを獲得するほどに売れることを予測しなかった。よく言われるように大ヒットは狙って達成出来るものではない。そこには予想外の運が働く。音楽的に優れているかどうかはほとんど関係ないと言ってもよい。その大ヒットをネットでは「バズる」と言われるが、投稿動画の再生回数によって投稿者に利益が発生する仕組みがあるため、虚偽を投稿し、デマを拡散してでもバズりたい連中がいて、さもしさと有名度、すなわち金儲け度が比例してほとんどゴミ溜めと化している。筆者は「バズる」ことに関心がなく、また読者の反応を知りたくもないが、ならばこうした長文は書くのも読むのも時間の無駄でしかあり得ず、そのゴミ溜め状態を認知したうえでのあえての行為で、何もせずに寝転んでいたほうが健康にはよさそうな気もするが、考えてそれを吐き出したい欲求が湧き続けるからにはそのための場所は必要だ。筆者にとってのこのブログは精神的健康を保つために機能しているのだろう。ゴミ溜めで思い出したが、コンポストを買いたいと昔から思っている。高齢の夫婦だけの生活なので、ドラム缶ほどの大きなものでなくてよい。それを隣家の裏庭に置き、毎日生ゴミを投入する。3か月経てば底のほうのゴミが良質の土と化すが、臭いが気になるかもしれず、また得られる土の使い道に困りそうで、それで生ゴミは京都市指定の黄色い有料の袋に入れてゴミ回収に出している。
 生ゴミではないプラスティックはそれ専用の袋に入れて別の日の回収に出すが、地球規模で見ればプラスティックは土壌や水に拡散し、今や人間の体内にも取り込まれている。どうやらプラスティックを発明した人物は、プラスティックの利点のみ見つめて土に還らなくてもよいと思っていた楽観主義者で、『世界はゴミ溜め』の考えが正しいと高をくくっている間にすっかりプラスティックに復讐されてしまう存在であるらしい生物を思うが、ザッパも若い頃からそのような人間の愚かさや地球環境のことに少なからず関心があった。とはいえ環境保護活動家にはならず、作曲家を目指し、歌詞を通じて自作に世界の一端を描き続けた。話はさらに変える。細胞分裂の映像を誰でも見たことがあるだろう。ひとつの細胞が2個に分かれ、それがさらにふたつに分離して倍々の数で増加する。細胞に分かれようとする意識ないしそう呼んでいいものがあるとして、その細胞分裂の根幹を成す機能とは別に個々の細胞により大きな構造体のどの部分になって行こうかとする意識もまた具わっているか、あるいはある段階で芽生えることによって特定の植物や動物となって行くが、その特定の生命にほとんど無数の種類があることとは別に、同じ種族の中でもある能力の特に優れたものとそうではないものとが混じる。その事実が最初にふたつに分裂する原細胞に遺伝子に組み込まれているのかどうかの関心はさておき、人間を見ればわかるようにみな似ていながら少しずつ違う。そしてごく短い青春の一時期にごくごく狭い範囲で人生最大と思い込みたい異性に出会って時に結婚し、子孫をもうける。それを運命と思いたいのはロマンティズムのせいだが、傍から見れば適当に手の届く範囲でお互い見つめ合っただけのことで、男女ともに別の人物でもよかった可能性が大きい。しかしそんなことを思っていればいつまで経っても理想の相手は眼前に現われないから、性の衝動に突き動かされて本人は自覚しないが、いわば適当に身近から最良と思える相手を見つける。さほどに個人は地球規模から見れば極小の点にもならないほどの存在で、そのことを知るのは生命体では人間のみだろう。となれば人間は地球ないしもっと広大な宇宙と相似形にあると想像することは傲慢の謗りを受けるかもしれないが、ひとつの事実としての見方が出来るのではないか。ただしそこで大きな問題が生ずる。人は興味も能力の差もさまざまで、人の数だけ地球や宇宙が存在することになる。そこで民主主義の考えを持ち出すとさらにややこしいが、その問題は絶対君主制でも同じことで、誰もが為政者に合わせて生きて行くしかない。しかしながら表向きは従属の意を示しながら、心の中では、あるいは他者からとやかく言われることのない領域においてはどのような作品行為をしようが自由で、そうした創造に喜びや慰めを見出すのが人間的なことだ。
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 とはいえそういうことに全く関心のない人は一定の割合で存在する。それはさておき、人の数だけ宇宙の見え方があることが正しいとすれば、大多数の人の思いを優先する民主主義は最も平凡で無難な思想の集合体になりそうだが、それは全くの幻想で、その平均的人々が集まった挙句にとんでもない口先だけの統率者を選ぶ可能性は常にある。過半数を占める思想から生まれる統率者が無難な思想と行動であり続けるのであればいいが、その集合体は他の集合体と共存しているからには摩擦は常に生じ、その摩擦はあまり関係のない集合体にも大きな影響を及ぼす場合がある。それに無難な統率者であればまだいいが、凡庸かそれ以下のろくでなしが人気を博すことはある。絶対多数の人の意見が最も良質とは限らず、平凡はどこまで行っても平凡でいくらでも代わりが効くとなれば、人々は平凡ではない存在に憧れるし、実際この世は表向きはそのように動いているように見えるが、輝いて見える人物が虚像の仮面を被っていただけということは往々にしてあり、人々はその幻滅を際限なく経験しながら相変わらず本物のダイヤモンドに気づかない。それがすぐ近くにあっても大多数の人には見えず、人間の能力の限界は永遠に続く。とはいえそういう考え自体が不自然だという意見はおそらく多数を占める。それゆえにプラスティックが自然に還るゴミと混じって今では人間や動物の体内に取り込まれている。筆者ひとりがコンポストを買い、そこに毎日生ゴミを投入し、底から少しずつ良質の土を取り出したところで、その土で野菜や花を育てるだけの余裕にある地面はない。あっても畑仕事をする興味も体力もない。それでコンポストを買うことは今後もないが、良質の土になり得る可能性のある生ゴミを市役所のパッカー車で運ばせることに何となく無駄と矛盾を感じる。話を戻す。ザッパがラヴ・ソングを書くことを好まないならば、歌詞のネタをどこから探して来るか。それは日常生活で感じたこと以外にあり得ず、新聞やTV、あるいは読書を通じて気になったことで、詩人や思想家と言えば大げさになるが、社会の一断面を諧謔味のある縮図として表現した。そこに社会批判が込められていると考えるのは聴き手の勝手で、ザッパは短い歌詞を通じて現実の一端を描いたに過ぎず、それは音楽家としてのせめてもの良心であって、社会の矛盾を告発するためにプラカードを持って行動することはなかった。人それぞれの役割を自覚していたからで、音楽を通じて何が出来るかを常に探っていた。その姿は宇宙における塵(コズミック・デブリ)かそれ以下の取るに足らない存在だが、表現行為は全宇宙を相似的に提示し得る。しかしそれはどんな凡庸な作家であってもそうであって、また凡庸ほどにバスる現実がある。そうした存在はみなごく一時的なものだが、そのために毎日のように新たにかつ無数に湧いて来る。
●『APOSTROPHE(’) 50th ANNIVERSARY』その1_d0053294_19005351.jpg 永続的なバズりは凡庸では不可能な表現技術の支えが必要なことをザッパは知っていた。あるいは肝に銘じ、凡庸な努力ではつかみ取れない高みの存在を知っていた。とはいえ、ここに才能が伸びる自覚が正しいものかどうかの問題がある。非凡さの自覚は最初は誰でも単なる自惚れ、錯覚に過ぎないが、表現を続けるうちに自信が増す場合はよくある。その自信は他者から認められることだが、そのことは収入に比例することが多く、ザッパの場合、レコードの売り上げやコンサートの動員数によってそれを知ることが出来た。多くのファンを獲得することはSNSでのバズりに似ているが、それが半世紀経っても商品価値を保っているかどうか。非凡さとは手本として定評のあるものと同レベルのものを創り得る才能が前提にあって生まれるとする考えは、自由を旨とする教育を経て今は迷信とされ、とにかく意表を突く作品であればそれをアートとみなす。自分で作る才能がなくてもよく、アイデアが目立てばそれでよい。ザッパの音楽は出鱈目に見えるところがあっても根本は高度な技術を支えにしていて、その技術は練習を重なる以外には獲得出来ない。その点で努力を嫌う人にはあまり縁のない音楽と言ってよいが、その努力を積み重ねた挙句の作品は宇宙の塵のようなささやかな個人の思いの表明に過ぎず、またザッパの場合、人間の愚かさを描いていわゆる神々しさとは無縁だ。にもかかわらず神々しさとしか呼べない何かがあるためにファンは長年ザッパの音楽を聴き続ける。そこに嘘がないからだが、それは努力を重ねながらそれを笑って流す思いがあったためだ。また筆者のことを書くと、長文はそれなりにパソコンの前に座り込まねば書けない。即興とはいえ、普段考えていることが自分でも予想のつかないところで文章となって流れ出て来る。しかし自分でそれが楽しいだけであって、他者の共感は強いて求めてはいない。それは孤独に見えてそうではない。こうして書き続けているのは楽しいからで、他者も同様に長文を書くべきとは全く思っていない。ザッパの場合、アルバム作りは一定の利益を上げる必要があって、努力は真剣であった。筆者のこの長文は利益にならずに暇つぶしに過ぎないが、ザッパの創作態度の事実に接近するためには卑近な事柄を交えながらある程度の長文を費やさねばならないと思っている。大雑把なことしか言い得ないことは承知だが、それを言えば個人の表現はみな宇宙の塵以上でなく、またそうでありつつ宇宙と相似形にあって、つまりは宇宙も個人も大雑把な存在だ。さて、無邪気に書いているとさすがに前置きはこれくらいにしようと思い至るが、結論とは何か。つまるところ、それは表現し終えた時がそうであって、生きている間はすべて何かの前置きだ。ある前置きがその後に別の前置きにつながる。そのように創作する人は考える。またその前置きは他者のそれにつながりもする。
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 ザッパの「概念継続」は多作ゆえに生じたもので、「概念継続」で全部のアルバムないし全部の曲がつながっている。しかしそれはあたりまえのことだ。誰でも「意識の流れ」はあるし、自己に忠実に創作を続ける態度があるほどに意識は断絶せずに持続する。そして明確な個性が作品に刻印される。氷山はそれが浮かぶ水面から上の部分と下の大部分とに分かれながら、水から上の部分は見えない下部に支えられて見えない部分と一体化している。ザッパにおけるその見えない部分を詮索することには意味がなく、作品からアホらしいが見事な組み立てを味わうべきだ。そしてザッパの場合、生前に発表されたアルバム以外に膨大な音源があることがわかり、それらが少しずつ発売される、つまり氷山の水面以下の部分が明らかになるにつれていよいよ水面から上部の存在も強固さになって来ているが、歌詞についての新たな情報はたとえば本作のブックレットの解説者のひとりであるサイモン・プレンティスさんの文章によって初めて理解が深まる場合があって、「ザッパ学」は多岐にわたりつつ、終わりはない。本作は輸入盤を注文したが、解説書つきの日本盤が届いた。それを斜め読みしながら、またCDは1,2回聴いたまま価格の割に内容が薄いと思っていた。つい先日から聴き直すと、ディスク2,3,4のライヴがとてもよい。74年3月と11月のライヴとでいかにザッパ/マザーズの演奏が極限まで手慣れたものになって行ったかがよくわかる。本作の価値はそのことの再確認にあったと言ってよい。73,4年のザッパの演奏はこれまで大量に発売されて来ている。それでもなお本作で8か月の開きのあるふたつのライヴから選曲されたのはこの時期の演奏に人気があるからで、マザーズ結成10周年の実力の自覚がザッパにあった。本作のブックレットはいつもと同じように最初はジョー・トラヴァースが書いているが、彼が称えるようにサイモンさんの文章は読み応えがある。翻訳に頼らず昨日一気に読み終えた。本作の価値はこのサイモンさんの文章に半分ほどは負うだろう。しかしかなり読みづらく、正確な翻訳は困難と思うが、ザッパはポピュラー音楽のライナー・ノーツはまともに文章が書けない者が書く文章をまともに文章が読めない者が読むと言った。そのザッパの考えに膝を打つ者はこだわりの文章を書くのは当然で、それは読みやすいものにはならない。因みにジョーの文章はすらすら読めるのに対し、サイモンさんの文章は数倍の時間を費やし、難解な箇所がある。英語の語彙力の不足というより、ザッパの歌詞の解読は「概念継続」が手伝ってそう簡単ではない。それで今日はザッパとは関係のないようなことを長々と書いたが、ザッパ世界の根幹を細いピンの穴から覗くことでどうにか感じてもらいためで、それはまたサイモンさんの解説を出汁にした架空のサイモンさんとの対話のつもりもあってのことだ。
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 本作の解説でジョーはザッパの音楽との最初の出会いや最初に買ったアルバムについて回顧しながら、本作が新しい世代に買われて来ていることに結論を持って行く。サイモンさんは筆者より数歳若いが、本作を発売と同時に聴いた世代では筆者はサイモンさんより年配で、その意味ではこうして書いておく義務がある気はする。早いもので本作のLPを手にして半世紀経ち、こうして50周年記念盤について綴ることは、サイモンさんの導きで1992年にザッパに会いにドイツまで出かけたことを思えば、人生は想像以上に意外なことの連続であると実感するが、そもそもサイモンさんがわが家を訪れたのは82年に書いて投稿した「大ザッパ大雑把論」を読んでのことだ。その全文が掲載された日本盤のLP発売前に、その試作盤を手にサイモンさんは初めてザッパ家を訪れる口実が出来たのだが、当時日本のCBSソニーでどういう経緯で筆者の原稿用紙32枚の先の文章の掲載が決められ、またサイモンさんがそこに絡む形でザッパ家を訪れてインタヴュー出来たのかは知らない。ただしサイモンさんはザッパのアルバムの最初の解説者と言ってよい八木康夫さんと以前から面識があって、そのつながりでレコード会社と面識が出来たのだろう。ついでながら八木さんは今年4月に亡くなったことをネットで知った。東京に住んでいればそうではなかったかもしれないが、筆者は言葉を交わしたことがない。彼は生きている間にザッパのすべての録音を聴くことが出来るかと書いた。筆者世代のザッパ・ファンなら誰しもそう思うが、ザッパが遺した音源を商品化しているのはザッパの次男で、筆者は生きている間にザッパが録音した音源をすべて聴くことは無理だろう。来日公演のあった76年の50周年記念アルバムが発売されるまでは後2年で、ザッパに関してはそれを楽しみに待っている。それで半世紀も前の『アポストロフィ』は充分聴いて不明なことはないかと言えば、サイモンさんによる本作の解説によって初めて知ることがあって、そこから新たな視野が広がる。それは「ザッパ学」の深化の恩恵で、ザッパの音楽の楽しみは新たに生まれ続けていると言える。話を最初につなげると、6枚のディスクのうち最初の半分と6枚目はLPと同じ内容であり、何度も同じものを買わされる思いはある。新しくリマスターされているとはいえ、大きなステレオ装置で聴かない人にとっては微細な差でしかない。またライヴ音源はステージ丸ごとではなく、ザッパが遺したテープにしたがい、しかも2枚のディスクに分けて収録されているまとまりのなさが気になる。また『アポストロフィ』が出来上がるまでの過程を分析するには役に立たず、相変わらず謎めいたところはあるが、それがあるので飽きないとも言え、また詮索好きのザッパ・ファンによる「ザッパ学」は大雑把なままに拡大し続ける。
●『APOSTROPHE(’) 50th ANNIVERSARY』その1_d0053294_19044189.jpg


by uuuzen | 2024-11-24 23:59 | ●ザッパ新譜紹介など
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