「
中流を 目指せど遠き 非正規の 雇われ者に 今日も雨降る」、「安定の 中流消えて 富者貧者 どちらにもある 心の貧富」、「若き頃 無茶を平気で した自慢 今は皺くちゃ 洟垂れ爺に」、「倍々に 欲は増進 成功者 性交意欲 いずれバイバイ」

ベラミというナイトクラブが京阪三条駅前にあった。筆者が最初に見たのは昭和30年代前半、小学生4,5年生だったと思う。母の姉が伏見に住んでいて、夏休みや冬休みのたびに母に連れられて妹ふたりと1週間ほど遊びに行った。母は仕事があるのですぐに大阪に帰るが、やがて筆者と妹たちを連れ戻すためにやって来ると、たまには、つまり数回に一度は母の実家すなわち京都市北区にあった兄の家に伏見から連れて行かれた。その際は京阪電車で三条駅に行き、そこから市電に乗り替えた。駅前の三条通り沿いの高山彦九郎の銅像が何なのかと母に尋ねると、御所に向かってお辞儀していると教えられた。当時は御所に用事がなく、そこに初めて行ったのは家内と交際してからだ。その銅像の向かい側の三条通り南側、「だん王」の門より東3,40メートのところに、窓も装飾もない大きな箱型の建物の壁面中央に、いかにも昭和を感じさせるレタリングで「ベラミ」の白い三文字が浮かび上がっていた。どういう店かは母に尋ねなくてもわかった。大人のナイトクラブで、子ども心ながらにやくざが出入りして、筆者は生涯無縁と思った。それでベラミで発砲事件があったことは驚きではなかった。WIKIPEDIAによればそれは1978年7月のことだ。当時筆者は京都に住んでいて、「まだベラミが営業していたのか」という気がした。当時はロック時代となってベラミの全盛期は過ぎていたはずで、発砲事件頃から急速にベラミはさびれて行ったと思う。やがて京阪三条は市電がなくなってバス・プールが出来、そのうち京阪が地下に潜ってそこに店舗が並び、やがてそれもなくなって大きな駐車場になった。殺風景になったまま現在に至り、その北向かいのベラミがどこにあったのかのかもわからないくらいになったが、ベラミが解体された後、蕎麦屋の建物に変わり、それも廃業した後は空き地になり、そして20年ほど前に地味な色のマンションが建った。ベラミの外観を覚えている人は筆者のような高齢者になっている。ベラミが「ベル=アミ」というフランス語のリエゾンであることくらいは10代半ばで何となく知った。モーパッサンの長編小説に同じ題名があることも知りながら読む機会はなかった。所有していた文学全集のモーパッサンの巻に収録されていなかったからでもあるが、モーパッサンが影響を受けたチェーホフの本を去年読んだことのつながりもあって、新潮世界文学のモーパッサンの巻を、巻末の解説と年譜を除いて先日読破した。『女の一生』や『脂肪の塊』といった代表作よりも『ベラミ』が一番面白かった。読み始めると止まらず、一日費やして一気に読み終えた。

「ベル=アミ」のBELはBEAU(美しい)の男性単数形で、AMIは友であるから、「ベラミ」は「美しい男友だち」を意味する。モーパッサンは自分のヨットにもこの名前をつけた。ナイトクラブのベラミの所有者は女性で、彼女は『ベラミ』を読んでその主人公の美しい男に憧れたのかもしれない。バブル期以降か、若い女性に金を使わせるホスト・クラブが雨後の筍のように登場し、女性がホストに大金を使った挙句、身を売るまでになることがよくネットに書かれるようになった。そういう女性の心理は、若い男がホステス目当てに夜の店に通うことと同じかどうか、いつの時代も男女ともに異性の魅力に翻弄されることはあたりまえにある。男は女よりも権力と財力を持ちたがると思うが、その思いがある程度達せられれば若い女を囲うことがこれもあたりまえにある。金持ちならばまだしも、さして自由になる金がないのに、商売女に魅せられて悲劇を迎えることはやはり古今東西よくある話で、性に突き動かされる人間の哀しみは物語の古典的な主題になっている。モーパッサンの小説はその例に漏れず、性関係を結ぶ男女の物語が19世紀後半のフランスで人気があったことが想像出来る。それは現在の日本も同じかどうか、筆者は日本の現存の小説家の小説をほとんど読まないので事情は知らない。少子化が年々進み、結婚しない若者が増えているので、純愛ものはいいとして、男女が性を介在する物語は今はあまり現実的ではないと思われているかもしれず、性を扱う小説であれば、ホスト狂いの女性の悲惨な顛末を描くといったものが人気を博すかもしれない。SNSを使えば簡単に性行為に及ぶことが出来るようだが、一方で異性には無縁のまま、交際経験もないまま年を重ねる人も少なくないようで、人気小説のネタになるような話はそう転がっていないとも言えそうだ。しかし150年ほど前のパリでの恋愛とセックスを主要なモチーフにした『ベラミ』は、現在でもそのまま通用する話が盛られ、人生をいかに楽しく、うまくやってのけるかの手立てを知るにはよい。それは小説ゆえに非現実的であると読後に批判する人も多いはずだが、小説が終わった後、主人公のベラミがどうなって行くかを想像する楽しみは残されている。それはまた別の物語としてモーパッサンは割り切ったが、続編を書くとすれば、ベラミの人生をどう進めるべきかは想像していたはずで、そのことは『ベラミ』に何となくほのめかされてもいる。つまり、いつまでも綱渡り的な冒険的人生はうまい具合に事が運ぶとは限らないという現実で、それはモーパッサンの生涯がそうであったからでもある。人気作家となったのに活動はわずか10年で、精神病院で死ぬことをモーパッサンは想像したろうか。彼がなぜ精神を病んだかの理由は小説に答えがある気もするが、筆者が読んだ限りでは彼の小説に破綻と言える箇所は見当たらない。
逆に完璧であるがゆえにその構築作業を続けることに堪えられず、次第に精神を病んだと言えるかもしれない。ともかく執筆活動の10年は想像を絶する精神の酷使であったはずで、モーパッサンは創造したベラミに憧れながらベラミになれなかった。モーパッサンの短編は駄作も多いとされる。また短編『夫の復讐』のプロットがそっくりそのまま『ベラミ』に使われ、短編は長編を組み立てる素材であったと言えそうなところがある。男女の性愛、すなわちモーパッサンの小説の場合のそれは浮気に限定してよいが、それをテーマにするのであれば、だいたいどの物語も似て来る。またモーパッサンが結婚しなかったのは女性を信じていなかったからかもしれない。貞淑な妻と傍目に見えていても男に言い寄られると必ず落ちるという風に見ていたと言ってよく、その口説き落とされる点は師匠フローベールの『ボヴァリー夫人』を踏襲し、またトルストイの『アンナ・カレーニナ』も当然知っていたろう。そういう19世紀後半の文学の名作を女性が読んでどう思うのか。「妻であるのに貞操観念がないとはけしからん!」と憤慨するか、あるいは夫に退屈していて、「夫にないものを持っている男性に言い寄られるとどれほど嬉しいか!」と夢見ているのか、おそらくどのような女性でもその双方の思いを持っていて、実際に言い寄られれば心は揺れ動くだろう。それは男も同じで、小説家はそう信ずるからこそ、女性を主人公にいわば不倫小説を書く。それが時に名作となるのは、いつの時代も女性の心理は変わらないからだ。それでモーパッサンは男女の愛を描く小説は常に需要があることをよく知っていて、浮気、不倫をもっぱら主題にし、読者の願望を満たし続けた。そして売れっ子の作家となったが、そうなれば小説に描かれるような、浮気であってもロマンティックな恋愛をする暇はほとんどなくなり、もっぱら女性は性欲を満たすためだけの存在になった。そこに罪悪感が全くなかったと言えばそれはあり得ないだろう。モーパッサンの子を産んだ無名の女性がいたようで、またモーパッサンはその子の面倒を見なかったから、かなりひどい人物であったと言えそうだが、平気一辺倒ではなく、やがて自殺願望を募らせ、精神を次第に崩して行ったのではないか。そう見るとモーパッサンは案外精神的に弱かったように思える。まともな部分が残っていたと言い変えてよい。その点、素人の女性と千人以上交わったと陰で自慢しているお笑い芸人は、自分が知らないところで何人もの女性が自分の子を産んでいたところで何にも思わないほどに鈍感で、美意識が徹底して欠如し、芸と呼べるほどのものを持ち合わせず、またそれを磨き続ける矜持もあるはずがない。さらには性の相手に対して驚くほどに吝嗇であることが世間にばれた。モーパッサンは師匠に恥じない小説を書こうという目的があって、その美の造形に殉職したと言ってよい。
そのためにアクセル・ムンテが『サン・ミケーレ物語』に書くように、若い女を片っ端から市井で見つけて来て性の捌け口にしたこともある意味では多めに見られる。『サン・ミケーレ物語』のモーパッサンについて書かれた章の最後にこう書かれる。『…モーパッサンが、有名な精神病院パシイのメエゾン・ブランシュの庭にいるのを、わたしは見た。かれは忠実なフランソワの腕にすがって歩いていた。かれは、ミレーの種蒔きの絵のようなポーズをして、花壇に小石を投げていた。「ほらね、春になって雨が降ると、あれはみんな小さなモーパッサンになって生えてくるんだよ。」…』フランソワはモーパッサンの没後にモーパッサンの思い出を本に書いた。それを読みたいが、日本語に翻訳されていないだろう。それはともかく、「小さなモーパッサン」が生えて来る云々は、精神を病んでいなければ、あるいは病んでいても、花すなわち自作の小説の比喩と考えられなくはない。多作であり続けた彼は死の直前になってもさまざまなアイデアを持ち、書かねばならないという強迫観念に囚われていたのではないか。自分の子を街中で引っかけた若い女性たちに産んでもらうことは出来たのに、家庭を持とうとせず、作品を子どもと考えていたのではないか。それは矢継ぎ早に生み出される短編小説がまずあって、それらを組み合わせる、そして全体を見事に整えるという苦闘の果てに長編がたまに仕上がった。ムンテは別の箇所に次のようにも書く。『…かれのアパートには、パリ社交界の最上流の貴婦人たちが、かれの忠実な下僕フランソワに案内されてはいってくるということを、人びとにほのめかして話すのだ。これがかれの誇大妄想狂の最初の兆候であった。…』この引用文は悲しみを誘う。モーパッサンの名声があれば最上流社会の貴婦人とも懇意になれるかとなれば、ムンテはそれはあり得ないと思っていたのだろう。モーパッサンはどのような女性でも口説き落とせないことはないと思っていた節がある。『ベラミ』を含めて他の彼の小説ではそのように描かれる。しかし現実はそうではないだろう。最上流の貴婦人が才能のある男と近づきたいと思うことは普通によくあるとして、そこには相手が醸し出す雰囲気を見てのことという常識がまず働く。ムンテはモーパッサンが「気味の悪い凝視」をすることを書いているが、肖像写真からもわかるそういう個性であれば、最上流でなくても女性は近づきたいとは思わない。そのことをモーパッサンも案外自覚していたのではないか。そこで『ベラミ』ではほぼ無学ではあるが、美男子で女を口説くことにかけては天才という主人公のベラミを登場させた。そこにはモーパッサンの憧れと嫌悪が混じっている。憧れはもちろん上流階級の澄ました夫人でもモノにする口説き術だ。嫌悪はそれ以外に目立った才能はないのに、ただどのような女でも惚れる美貌を持っていることだ。
モーパッサンは前者を街中の女性相手に駆使し、その様子は『ベラミ』にも書かれる。しかしベラミのように田舎出身の文無しの兵士の境遇から累乗に資産を増やし続け、社会的な成功すなわち名声と金、若くて美しい妻を得る経験をしなかった。有名な小説家にはなったが、休みなく書き続けるか、休んでいる時でも常に小説のネタを練る生活であって、どんな時でも創作を忘れ得なかった。それは3、40代であるから持続出来たことで、それ以上の年齢になると、またマンネリに気づき始めれば、何をどう書くかという問題はよりいっそう重くのしかかったであろう。自分のアパートに最上流の貴婦人がやって来るという妄想も、目の当たりにするかのように想像しなれば迫真的な文章が書けなかったためだろう。後者のベラミに対しておそらく抱いた嫌悪の情は、嫉妬が混じっている。それは生まれ持った美貌による女性運のよさで、男が女にもてるには美貌と口説く才能さえあればよいという設定は、女性を男よりかなり劣る存在とみなしていることであって、また本来男が女に対して抱く感情ないし本能の鏡像だ。ベラミは文才がほとんどない人物として描かれ、女をモノにするのに衒学性は不要で、動物的な気迫のみで充分という、ホストさながらの人物像だ。金をどう得るかの嗅覚は並外れていて、そのことに女を利用する。もちろん性交してのことで、その関係になりさえすれば、後は女が莫大な金をもたらす。また次第にそういう金蔓女しか相手にしなくなる。しかしベラミは売春婦を初め、社会の底辺の人物と交際することに抵抗がない男として描かれ、これはモーパッサン自身の投影だろう。ベラミの野望とその出世街道は、いつの時代のどのような男でも抱くものと言ってよい。筆者はスタンダールの『赤と黒』の主人公のジュリアン・ソレルを思い出しながら読んだが、ジュリアンは上流社会の夫人と恋仲になり、やがてギロチン台に上るが、ベラミはジュリアンと同じように貧しい青年であるのに、女を乗り換えてパリ有数の金持ちにのし上がって行く。そのハッピー・エンドはあっぱれで、それで京都のナイトクラブ『ベラミ』のオーナーはベラミに惚れたのだろう。そういう男がいれば文句なしに援助したいという気持ちだ。しかしその気持ちは今の若い女性がホストに熱を上げることと同じだろう。いつの時代も女性に抜群に人気のある若い男がいる。女はそういう男を見つけることが人生最大の夢であり意義だが、現実は美男でなくても言い寄られると操を許すであろう。そのことは『ベラミ』でも挿話となっていて、ベラミがいるにもかかわらず、冴えない、しかい社会的地位と金はあるという男と浮気する女性が登場する。ベラミは彼女と事実婚をしていたのだが、騙されっ放しではなく、その女の浮気を公にして浮気相手の男を失墜させ、しかも慰謝料をもぎり取る。
どこまでも抜け目のないベラミだが、一方のその元妻はまた新たな若い男とねんごろになり、相変わらずパリの有名人に留まる。したたかなベラミがいれば、それに釣り合う女性がいるのは当然だ。『ベラミ』を映画化するならば、ベラミはアラン・ドロンが適役だろう。彼ならベラミの美貌にかない、またさほど知性豊かとは思えない点も共通性がある。ところで、知性豊かな男は同じような女性を求めるとは言い切れない。その反対もそうで、知的な職業を持つ女性がちんぴら風情を好む場合はよくある。男女ともに自分にないものを求める。そう考えると『ベラミ』は現実的な場面がふんだんにある。すぐに言い寄って来る男を女は普通は警戒するが、美男子であれば嬉しくもあるだろう。最初は拒否の姿を見せてもしつこく迫られれば、夫や恋人がいても浮気心は大きくなる。自分に魅力があると思うからだ。男の言い寄りは女としての自信をつけてくれる。そういう色仕掛けを恥ずかしく思わない図々しい男は、思いが遂げられなければすぐに次に当たるという心の軽さがあって、それを敏感に感じ取る女性は機会を逃すまいと「浮気をしてもいいか」と思う。たまには言い寄って来た相手に表向き笑顔を見せても、夫や恋人に打ち明けて一緒に嘲笑する場合がなくはないが、そういう女は最初から男にはわかるもので、警戒から口説かない。また男は誰でも口説きたくなる女がたくさんいるかとなれば、大きな差はある。その点ベラミは異常なほどにタフで、平均かそれより少し上の美しい女性なら誰でもよいという手広さがある。モーパッサンもそうであったのだろう。その彼が最上流の貴婦人と親しくなりたい欲求を抱えたのは、やはり女はみな同じということを信じていたからではないか。売春婦や街中の女性はいくらでも気軽に出会えるが、そうではない深窓の令嬢は実際に会ってみなければ性に緩いのか貞操がしっかりしているのかどうかはわからず、また実際は会う機会がない。『ベラミ』を読む限り、そうした上流の女性も内面は同じと見ていたことがわかる。それはスタンダールの時代と違って爵位が金で買えるようになっていたからだ。金のない古い名家が成金と姻戚となることは明治の日本でもよくあったが、『ベラミ』で描かれることもそれと同じで、モーパッサンは本物の上流社会の貴婦人は存在しないと高をくくっていたのではないか。現実はモーパッサンが考えるほど甘くはなく、正真正銘の貴婦人はいるはずで、知性はないが美貌だけの青年に言い寄られても靡かないどころか嫌悪することはあるだろう。それでもなお口説き続ければ落ちない女はないと考えていた節がベラミの人物像にある。ベラミは本能的に女には子どもにも優しく、物怖じせずに社交性に富み、超一流のホストのようで、本小説は世間の主流である俗物の生態を痛快に描き、それがいつどの時代の社交界の縮図でもあることを知らせる。
筆者はTVに映るホスト・クラブのホストはみな知性のない馬鹿面に見える。そういうホストに入れ上げる女性はホストと同類で、そこに小説的なロマンは存在し得ない。そこでモーパッサンは社交界を舞台に『ベラミ』を書いたが、読者はベラミの実際の顔がどのようなものかと想像するし、そこに読書の楽しみがある。これが映画になれば、男優の顔や全体の雰囲気が固定化され、そのベラミ像に賛同しない人が出て来る。とはいえベラミの行動からは、いかに美男子でも中身の乏しいホストのような安っぽさが見え透く。そういう男であることを知っていても言い寄られると女は嬉しいものという現実をモーパッサンは描きたかったとして、そこにはやはり根強い女性不信がある。そのことを当時のパリの最上流の貴婦人は感得したはずで、仮に彼女らがモーパッサンと実際に面談する機会があったとしてもそこは余裕でさりげなく交わして深入りすることは絶対になかったであろう。ムンテも同様に感じたのではないだろうか。簡単に言えばモーパッサンの女性蔑視が気に食わず、そのことが『サン・ミケーレ物語』のモーパッサンが登場する章に滲み出ている。とはいえ、誇大妄想の進行は小説を書き続けことが最大の原因になったはずで、その作家としての才能は認めていた。天才が自己破壊することはある意味では正しく、精神の破壊と引き換えに名作をものにする。『ベラミ』に戻ると、「世間は金」と割り切ったベラミは、ある程度の生活が約束されると、次に金をもたらす女に近づく。そしてのし上がって行くにしたがって金持ちには上がいくらでもあることを実感し、いかにすれば最上流の金満家の仲間入りが可能かを模索する。金持ちになればさらに金がほしくなるという現実の典型だ。欲には切りがないのだが、当然それも女がらみで、出会ったことのない上流階級の夫人に接近して行く。そして棄てられた女の悲しみを描くが、ベラミにすれば一時でも若い美男子に抱かれたからにはいい思い出になっているだろうと、あくまでも棄てた女に恩着せがましい。それほどの罪悪感のなさでない限り、短期間に名声も金も名家の女も手に入らない。そのことに当時の社交界の現実ぶりがどれほどあるかとなれば、新聞やユダヤ人の金持ち、政治家、そして株のインサイダー取引など、いかにして短期で莫大な金を手にするかの裏手口が描かれ、その点は現在の日本でもままあるはずで、政財界の腐敗ぶりを描いている点で風刺小説としても逸品と言える。ベラミに正義感はなく、野望を遂げるためには危ない橋をいくつもわたる覚悟があるが、それはわずかな手違いで思いどおりにならない、あるいは元も子も失う場合があるのが現実だろう。常識人や気の弱い人はそう考えたがる。それで本小説には描かれないベラミのその後に思いを馳せるが、読み手によって老いたベラミ像は全然異なるだろう。
モーパッサンにすればベラミがどう老いてもそれは現実的と考えていたろうが、本作を出版した35歳当時は20代半ばのベラミより10歳ほど老いていて、老境の怖さを想像し始めていて、そのことが本作の半ばに書かれる。ベラミと同じ新聞社で働く高齢の詩人がチョイ役で登場するが、ベラミは新聞社の社長が主催する晩餐会にその詩人と同席した後の帰り道、詩人から老境の気持ちを聞かされる。それはモーパッサンがムンテに悟られていた死への恐怖やそれゆえの自殺願望を想起させる。詩人はベラミにこう言う。『…人生は山道ですよ。登っているあいだは、頂上が見えているから、幸福に感じます。だが、登りつめてしまうと、急に下り坂が眼のまえにあらわれ、しかもそのはては死です。登るときはゆっくりですが、下りになるとはやいです。きみの年では楽しいことばかりで、いろいろの希望を、けっして実現しない希望だが、胸にいだきますが、わしの年になると、もうなにも期待するころがなく、ただ死あるのみです。…きみには今はまだわしの言葉がわかりませんよ。しかし、あとになると、今こうして話していることを、きっと思いだすでしょう。…そうです、それは急にわかることなんです。…おお、きみにもやがてわかるでしょう! たった十五分、思いをこらして考えるなら、死が見えるでしょう! きみはなにを期待していますか。だが、接吻を楽しむのも束の間で、すぐにできなくなるでしょう。それから、ほかに! 金ですか? なんのために? 女たちに払うんですか。たいした幸福だ! それとも、大いに食い、でぶでぶ太り、毎晩、痛風にかまれてうなりとおすためですかね。それから、まだありますか。名誉ですかね。だが、愛という形で受けいれられないかぎり、名誉がなにになるでしょう。…』 次のように言う下りもある。『…死んだものはけっして帰ってきません、けっして……わしに似た鼻や眼や頬や口をもち、またわしのような魂をもったものは、何百万何千万と生まれてくるでしょう。だが、わしはけっしてもどってくることができないし、また、わしの者と見分けのつくものも、なにひとつ、その無数の人間のうちに生きかえってはこないのです。…宗教は、幼稚な道徳と、利己的な、とてつもなくくだらない約束とで、どれもみな愚劣です。…』これらの詩人の言葉は、ベラミがそうであるようにたいていの20代の若者には深刻に受け止められない。それでベラミは山の頂点に駆け上るがごとく、女との接吻や金、名誉を貪欲に求めるが、それら全部が手に入った後、ベラミが老詩人の言葉を思い出すかどうか。ベラミは詩人と同じ人間ではなく、虚しさをさして感じないままに、相変わらず女の尻を追いかけているかもしれない。しかも安い金で買える売春婦は眼中になく、上流階級の貴婦人でなければならないが、そうなれば本作でベラミがそうであるように、時に決闘を申し込まれる事態も起きる。
前述したように、策略が裏にある綱渡り的な女性への口説きが常に成功するとは限らない。どこかで口説いた女性の男から恨みを買って危害を受けるかもしれない。そういう話は『女の一生』に出て来る。同小説を先に読み終えている者は、ベラミがどうなって行くかとはらはらしながら読むが、まんまと望みをかなえて行く様子は道徳感の強い人には腹立たしいが、ベラミには憎めないところがあって、貞操観念のきわめて強い女性でも、『まあ、勝手にやってちょうだい!』と大目に思うのが本心ではないか。本小説であからさまに背徳的であるのは、性の相性がすこぶるよい夫人との不倫関係が、ベラミが金持ちのうぶな娘と駆け落ちした後、娘の父に許されて盛大な結婚式を挙げた後も密かに続くことが、本人たちの目配せによって示されることだ。金持ちの娘と結婚したのは、娘の父のユダヤ人が持つ莫大な資産を受け継ぐことが目当てで、性生活についてはほかの女とも相変わらず関係を持ち続ける。もちろんそのことは相手も期待していて、男女対等のそうした不倫関係は珍しいことではない。しかしベラミは娘と駆け落ちして身を潜めていた間、娘とは性交はしない。駆け落ちの賭けが失敗に終わった時、非難を極力逃れるためで、実現させるべき夢の前では我慢を貫く。それは狡猾ではあるが、眼前にある無防備な性に溺れない自省心を持っていて、この点はベラミの成功のひとつの大きな理由を説明している。「ベラミ」とは性交渉を持った女性の娘が名付けたものだ。ベラミは引っ込み思案でまだ世間を知らない小娘相手に優しく遊んでやるが、やがてその娘はベラミを好きになり、「ベラミ」と呼びかけるようになる。その愛称が周囲の人に伝わって、誰からもそう呼ばれるに至る。「ベラミ」の愛称をつけた娘の出番は少ないが、それだけに却って印象強く、彼女が登場しなくなって行くことは、ベラミを密かに慕っていたのに、ベラミが別の女に次々に執心して行く様を感じたか、耳にしたからであろう。誰でも自分の人生のごく一時期にわずかに登場しただけであるのに、長年忘れ得ない人物はいる。本小説ではベラミと名付けた娘はその点でとても重要であるのに、物語の本筋には絡んで来ない。そこに娘から見たベラミに対する批判がほのめかされている気がする。つまり、物語の細部に違和感がなく、またほとんど深く描かれない人物のその薄い影がベラミを客観的により色濃く印象づけることに役立っている。それほどに本作は構成が見事だ。『赤と黒』のジュリアンからベラミ、そして女性と大いに関わって世渡りする青年を描いたその後のフランスの名作があるのかどうか。日本では知性の片鱗もうかがえない安っぽいホストやそれまがいの「ヘラミ」や「ペラミ」と呼んでいい芸能人が幅を利かせ、小説もそれに応じて薄っぺらいだろう。それはともかく、若い間はせいぜい異性と交わり、人生を謳歌することだ。
