「
染め始む 紫墨の ドラマかな なぜか懐かし 夕時の灯や」、「仕事終え 家路に急ぐ 母親を 茶碗並べて 待つ子三人」、「この眺め ひとり占めして 時止まる 刹那の記憶 永久に反芻」、「豆を撒き 夕闇散らし 日が伸びて ああ春が来る 瞼擦りて」

今日の写真は先月28日に撮った。家内と嵯峨のスーパーに行く途中で、河川に重機と人影が見えず、午後5時過ぎであることがわかる。写真は北向きで、右手が桂川の下流、東方だ。この時刻に渡月橋を北にわたると、右手の景色は西日に照らされて建物の壁が強く光っている。家内はその様子を見るといつも同じことを言う。「わたしらの住んでいる西は早く日暮れになるのに、東はあんなに明るくていいな…」この言葉には夕方になれば東方面よりも早く部屋の明かりをつけねばならない不満が混じっている。筆者は日に照らされた遠方の建物を見ながらいつも若い頃のコローの風景画を思い出し、また東に住む人が強い西日を遮るために部屋のカーテンを引く作業を想像し、次にはその日常的な日差しによって本の背表紙が色褪せている様子に思いを馳せる。そんなことを家内に言ったことがない事実は、終日顔を合わせている高齢の夫婦でも同じものを見ながら考えが違っていることを示す。それはまた言う必要のない他愛ないことであるからだが、他愛ないとはあまりに断片的なイメージでそれのみでは物語にならない、話が弾まないからだ。睡眠中に見る夢はいちおうは映画のように連なった物語だが、見始めの映像は定かでなく、見終わった時の映像はそれなりに覚えていても起承転結が明確なドラマの結びにはほど遠い。それで宙ぶらりんの、物足りない気になったままとなる。それでは文字で克明に書き起こし得ても、読んで面白いものにはならない。夢のような印象を他者に与える可能性はあっても、『何も面白くない』との不評を買うだけで、誰もが毎夜見る夢は当人にも他者にも無価値と言ってよい。夢は現実に見て記憶した映像のみで構成されるかと言えば、夢でのみ見る、つまり現実に見たことのない映像であることは誰にでもあるはずだ。これは意識を制御出来ない状態では自分の記憶から新たな映像を構成する能力を人間が持っていることを証明するが、その見たことのない映像を絵画として他者が見られるように再現し得たとして、そこには意外性はあってもただそれだけのことだ。他者には面白くなく、それどころか出鱈目で醜悪なものと感じるだろう。それで思い浮かべる断片的なイメージはたぶん短い詩として消化、昇華させるべきなのだろう。あるいは絵画だ。『西日で部屋の壁にわたしの影がくっきりと映っている。両手で鳩の形を作り、ばたばたさせている間にすぐに部屋が暗くなってわたしの影も消えた。窓の外を今飛び去った鳥はわたしのそんな行為と気分を知らず、わたしのこの気分を夫に話そうかと思っていることを夫は想像してブログに書くかもしれない。』
