「
皮肉聞き 骨を知らぬと 相手せず 汚されし耳 洗うは無用」、「結ばれた 蕾開けば 手を打ちて 頭に載せて 結んで開け」、「充分に 見たと思いつ また見るは 今は盛りか 満開桜」、「花咲いて ここにあったか 桜の木 人も華やぐ 時を自覚し」

定点撮影と思いつつ、なかなか膨らまない桜の蕾で、今日の写真は
1月27日以来2か月ぶりの先月30日に撮った。写真を比較しやすいようにほとんど同じ構図でトリミングした。嵐山の中ノ島公園には桜の木はさほど多くないが、それだけになるべく花を長く楽しませるために品種の異なるものが植えられているのではないか。最も立派な木は東山の円山公園の枝垂桜と同じ遺伝子を持つものであったが、コロナ期に無残に枯れて黒くなった。その後同じ場所に若木が植えられ、順調に育てば中ノ島公園の名物桜になる。その木から数メートル離れてより桂川に近い場所にも枝垂れ桜が円形の植え込みの中央にあるが、これら2本はいわば中ノ島公園の代表にしてはまだまだ小さく、2,30年は経たなければ威容は見せない。それはさておき今日の写真のものはまだ蕾固しで、遅咲きの品種だろう。この木のすぐ近くに高さ4メートルほどの支柱つきの時計があって、嵯峨のスーパーに行くのにその横を必ず通って時刻を確認する。今は誰でもスマホを持つのでこの故障すれば撤去されるだろう。自治会のFさん宅前にも似た時計があるが、針が止まったままで修理されない。阪急松尾大社駅前の京都銀行の前にも同様の時計があったが、2,3年前に撤去された。筆者はスマホを持たず、腕時計はあっても放置したままで、外出時に不便するかと言えば、どのスーパーの壁にも時計はある。時間をほとんど気にしないのは健康にいい気がする。時間は気に留めるほど早く過ぎ去り、筆者は自分の年齢も気にしない。桜は体内時計があって開花時期を知っているが、循環する季節を知悉しているためだ。人間もそうだが、時計の発明後は時間に縛られるようになった。自由に操っているようで操られていると時に考えてみることだ。きれいな女性を口説いて満足していると、当の女性の本能的策略に引っかかっただけで、男は女に操られていることを自覚しない。時刻を気にしないような筆者でもさすが深夜2時になると寝ようかという気になるし実際そうするが、時間に縛られないことは身体的には不健康で、早寝早起きが健康にいいことは自覚している。桜と同じように人間は暦の循環を本能的に知っていて、世間とは3,4時間ずれた生活をしている筆者は不健康であり、思考や行動もそうなることを自覚すべきか。ところで、桜も夜は眠るのだろうか。そうとすれば夢は見るのか。筆者の夢に桜が出て来るならば、桜の夢に筆者が現われるだろう。その姿を想像してみるに、花のようでは全くなく、しなびた老人に過ぎないのは確かだが、ならば樹齢百年の桜の見事な開花になぞらえ得る人間の姿がないことになる。
