「
金属に 属す金より 紙幣よし 仮想通貨の コインは来ぬか」、「枝花に 見立てて鋳たる 貨幣ゆえ 手元に長く 留まらぬはず」、「実態を 実感したく じっと見る 今年の花は 今年だけかと」、「悟りなく また考えて 夢も見て これ悟りかと 堂々巡り」

桜の名所とされる嵐山に住んでいながら開花時には別の場所の桜を見に行こうかという気になる。去年は天理に行った際、近鉄電車の車窓から見た大和郡山の城址の桜が満開で、今年は同駅で降りてそれを目の当たりにしたいとぼんやりと思っている。機会を逃しても来年がある。そのように気がかりを先送りすることが多く、半世紀以上前から気になっていることを本当に死ぬまでにどうにかせねばならないことが心の内部の壁に棘のように刺さっている。それらをひとつずつ抜いてさっぱりした気分になりたいが、日々暮らす中で新たなは棘が芽生えて来る。これは人生を諦めない限り続くことであって、「悟り」とはすなわち「停止」ではないかとぼんやりと思う。何事にも心動かない状態は気楽だろうが、それは「無」であり「死」に近いことではないか。悟りの境地に至った高僧でも睡眠中に予想しない夢は見るのであって、無意識を制御することは出来ない。そう悟れば心の内壁に無数の棘が刺さり続けることは活発に生きている証であって、「やり残している」と意識することは煩わしい反面、それが生への活力になっているに相違ない。桜に話を戻す。家内と嵯峨のスーパーへの途上、いつも必ず歩く中ノ島公園に一本の気になる桜がある。今日の写真がそれで、3日前の夕暮れに撮った。背景の山は嵐山で、筆者は西に面している。見上げる細枝のくねくねしている形状は、内部で花を咲かせるための活力がいかにも胎動しているようで面白い。幹は毎年少しずつ太くなっているはずでも、そうした力の蠢きは表面的には見えない。枝の先端は成長を最もよく示す部位で、この写真に収まるわずかな部分のみで筆者は飽きることがない。それで今年はこの桜を定点観察しようかと思っているが、正直に言えば花が満開になるとあまり面白くない。何事もこれからという状態がいいのだ。それで実のところ、今日の写真でもうこの桜の木の特徴は示し得た気がして、定点撮影をする気はあまりない。満開の桜を求めて観光客は嵐山に押し寄せるが、現在のこの蕾がかろうじて確認出来る状態がよい。これは人間で言えば小学生か中学生だ。その頃に将来どういう大人になるかは定まっている。子どもは大人の縮図だ。それを体の成長とともに広げて行くが、本質は変わらない。こう書けば身も蓋もないようだが、実際そうだろう。人間の健康寿命が劇的に伸びない限り、200歳の寿命を得ても100歳以降の人生で何が出来るというのか。それはともかく、気がかりの棘の多さに辟易して一気に物忘れが早くなることはあろう。それでどうでもいいことの順位をつけて自然に抜け落ちる棘に執着しないことだ。
