「
烏には どう見えている 白き鷺 格好いいのは オレの方こそ」、「待てば来る されど注視は 欠かせぬと 鷺も詐欺師も 我慢が糧に」、「白鳥と 子どもに呼ばれ 苦笑する 鷺がつぶやく 確かに白い」、「川底を 重機荒らして 鷺集う 逃げ場失くした 魚を狙い」

今日の写真は18日に撮った。嵯峨のスーパーに行く時にカメラを持参するとは限らない。家内が妹からもらった通称「コロコロ」を筆者が引いて行くのだが、その背面にある大きなポケットにカメラを差し込む。通い慣れた道でもう撮影したいものはないも同然で、それで最近は桂川の河川改修工事の様子を撮ることが目的でカメラ持参で出かける。家を出る時刻はまちまちで、午後5時を過ぎることもままある。朝起きるのが遅く、正午頃にならなければ外出する気になれないので、午前中は絶対に行かない。今日の写真は重機が写っておらず、また2枚目の写真に観光客の姿がほとんど見えないようで、午後5時過ぎの撮影だろう。重機が河床を動き回っている間、白鷺は重機からつかず離れずで、最初の写真のようにじっと川面を見ながら立っている。縄張りがあるようで、最低でも10や20メートル離れている。たまに飛び立って別の場所に移動するのは、たぶん10分以上待っても一匹もくわえられないことに我慢の限界が来るからだろう。筆者は釣りをしないが、鷺が魚を待つのは釣り人に似た根気だろう。しかし鷺は趣味で魚を待つのではなく、空腹との闘いで命にかかわる。しかしそれだけ真剣になっていると思うのは穿ち過ぎか。鷺も満腹になることはある。そういう時はぼんやりとただ立っているはずで、釣れなくてもよいと思っている釣り人と似ている。一方、飲み込まれる魚の気分になることをあえて想像すると、鷺の喉の中で一瞬真っ暗になり、狭い胃袋でやがて窒息するのだが、その間に死への恐怖を覚えるのかどうか。あるいは即座に観念すなわち諦念するように遺伝子に組み込まれているのだろうか。恐怖は一瞬で、その後は観念、そして快感が訪れるのではないかと筆者は思っている。死がそういうものでないのであれば、生は残酷過ぎる。生きるのがただ苦しいと思う人にも、死が快感を最期にもたらすのでなければそれこそ神も仏もない。ただし、生物が自殺など死を急がないように創られているのであれば、快感で締めくくられる死を急ぐ必要はないし、急ぐことは罰当たりになるだろう。ところが待ち受ける鷺が魚を嘴でくわえる、あるいは釣り人が魚を釣ることは魚にとっては事故で、それは人間にもあって、生はいつ中断されるか予測がつかない。それが目前に迫るのが戦争で、同じ人間同士で殺し合いをするほどに人間は物騒で愚かな生き物と言うことは出来る。そう思うと鳥に飲み込まれる魚は嫌だが、鳥は気楽でいいように思える。ただし卵製造機の養鶏の生活は嫌だ。人も飼われるのは最悪で、野生が一番。

