「
面白き 白き着ぐるみ 月の精 背に橋担い 渡月の橋と」、「節分の 甘酒飲みつ 味わうや子どもの書画の 学びの成果」、「邪気のない 童の描く 絵の強さ 長じて保てば 巨匠か奇人」、「真剣に なる訓練に 習字あり マジにふざけて 顔に墨塗れ」

一昨日、天龍寺の節分会に出かけた。豆まきは毎年午前11時半と午後1時半、3時半に行なわれる。朝は苦手な筆者は午後1時半の部を目当てに出かける。それでも家を出るのにぐずつく。後から行くと言う家内より先に家を出たのが1時15分頃で、速足で歩いて法堂前に着いてすぐに豆まきが始まった。当然コロナ禍では人は少なかったが、今は天龍寺前の商店街の道は両脇とも観光客で溢れ返っている。大半が外国人で、彼らは天龍寺で豆まきが実施されることを知らないので、渡月橋をわたって人ごみをかき分けて法堂前に急ぎながら、撒かれる豆の袋を奪い合う人の数は例年どおりだろうと思ってやや安心する。天龍寺の節分会は毎年楽しみにしている。その理由は甘酒と樽酒の無料接待と地元の小中学校の児童生徒の書画の展示があることだ。今年もどちらの酒も数杯飲み、書画は割合じっくりと鑑賞し、特に気に入った作品の写真を撮った。習字は教科書にしたがって毎年同じ手本を使っているようだ。「旅立ちの春」、「新しい目標」、「不言実行」など、眩い言葉が手本を真剣に真似て書かれた様子を見るのは、初々しさがよく伝わって節分にはぴったりだ。学校の授業以外に習字をする子どもがいるのかどうかとなれば、今は学習塾に通うことには熱心でも、出世には結びつかない習字は適当にやればよいと親も子も考えがちではないだろうか。筆者の経験を言えば、有名大学を出た人のあまりの悪筆に驚いたことが何度もある。彼らは学校の試験で要領よく高点数を得る技術は身につけたが、美についてはほとんど関心がなかったらしく、要するにつまらない人間に思えた。その考えは今も変わっていない。義務教育における習字は手本に忠実に書くことがよいとされ、それは戦後の自由主義の立場からはは忌避される場合が多々あるかもしれない。瓜二つに真似ることはよくないことで、自由に勢いよく表現することこそ創造であると考える大人は多いだろう。それで猿や牛などに絵筆を持たせて即興の出鱈目絵画を美しいと考える人もいるが、習字ひとつで人類にとっての美とは何かという根源的な問題を論ずることが出来るし、そのことは受験勉強では得られない深い思考を促す。10歳前後の子はそういうことを意識しないうちに習字にある緊張感とそれに伴なう美の世界があることを会得する可能性を秘め、義務教育で習字は絶対に欠かしてはならないものと筆者は思っている。美しい文字とは美しい構成美のことだ。整った構成美をまず知ってからでなければ大人になって自由に崩してなお美しさをたたえる文字を書くことに挑むことは不可能ではないか。

手本と見分けがつかないほどに書く才能が子ども時代に会得されるとして、仔細に吟味すれば必ず手本とは違う細部がある。そこにその人物の個性ないしその片鱗と呼ぶべきものが具わっていて、やがてその部分が成長し、書家と呼べるほどの個性を持つ字を書くことが出来るようになる。もちろん学校の先生は子どもにそういう深い話をせずに問答無用に手本を模倣させるが、大人と子どもの間には暗黙の了解が時にあって、言われなくても理解する子がごくわずかに存在する。造形感覚の芽生えは10代に急成長し、たぶん20歳頃にはほとんど完成し、書家でも画家でも代表作を30歳までにものにする。そうであれば義務教育は大きな役割を果たすが、必ずしもいいことばかりではないだろう。習字は学校で教わらずに自分で学ぶことは出来る。絵画もそうだ。しかし過去にどういう見事な美を持つ作品があったかを知ることは無駄ではないどころか欠かせない経験だが、義務教育の美術の授業ではそういう巨匠の作を教える必要はないだろう。となれば書道と違って美術はもっと自由に自己表現が出来て、堅苦しは書道よりはるかに少ない。それでも美術の授業では見本となる作品を示し、それによって技法とその効果を子どもたちは学ぶ。版画はその代表だが、それは中学生になってからだろう。今日の2枚目の写真は小学生の水彩画で、最上段の1年生の消防車の消化作業の絵は迫力があって素晴らしい。以降の3枚は小2の作品で、その最初は亀の輪郭を切り抜いた型紙を使用し、これは先生が見本を見せて指導したはずだが、面白い効果に喜々としている様子がよく伝わる。そのことは中央の赤い服を着たチア・ガールの描写も手伝っていて、色彩感覚を含めて小2とは思えない。3段目は動物園に遠足に行った時の思い出か、鼻を突き出した象に驚く様子が楽しい。4段目は運動会でみんなでダンスをした時の楽しい記憶で、どれが自分で友人かわからないのがよい。強い記憶を自由奔放に描く小学生と違って中学生になると技巧を誇示する作品が目立つ。教科書の指導要綱がそうなっているのだろう。大人びて行くことは自然として、その基礎に小学生低学年のまず何を描きたいかという鮮烈な記憶を見つめる態度は欠かせない。それがないままに技巧が上達すると、他者をあまり感動させない作品で己惚れることになる。こ節分会の中学生の絵画も書道と同じく、手本があるのだろう。それによってある技法に内在する特殊な効果を学ぶが、手本と全く同じではないにしろ、それに影響された絵を描きやすい。今日の3枚目の上下2点は特に目を引いた作で、上は女子が鳥と一緒に空を飛ぶのが子どもらしくてよいが、どことなくデジャヴ感がある。下は何を描いたのかわからないところが面白い。元絵があるのかどうか、ゲーム画面の一部の変容かもしれない。白い斜めの筋は雨よけビニールの反射で、絵の効果にも寄与して見える。

