「
裏道も 陽の当たる場所 あると知る 貧しき童 猫と戯る」、「ぼやっとし 車で轢いて 坊や怪我 運ちゃんぼやく 運はようない」、「運転手 運が転がり ジャンボ当て 宝タクシー 人気高まる」、「マジ顔で 0型ボーヤ どこ向かう 一心不乱 腐乱一新」

先月14日、家内と一緒に吹田の図書館に行った。そのことについては歩いた道筋を記した地図画像とともに翌日に投稿した。阪急の吹田駅から図書館に向かってすぐ、今日の最初の写真を撮った。
投稿した地図で言えばAとBの中間辺りだ。目当ての本があることを疑わなかった最初の図書館のBで肩透かしを食らい、仕方なしにABの10倍近い距離を歩く羽目になったが、初めて歩く道でそれなりに面白かった。二度と同じ道を歩くことはないと思えばなおさらで、旅行気分に浸るのに遠方へ出かける必要はない。外国人も含めて観光客が押し寄せる嵐山に住んでいると、風光明媚のありがたみがあまり実感出来ず、むしろどこにでもあるような街中のその土地独自の何かに触れた時のほうが後々まで記憶に残りやすい。その独自なものはどの地域にも必ずある。ただしその独自性に触れることが楽しいとは限らない。ごくたまに何年も前に見た夢の一場面を思い出すことがあるが、それと似て吹田市内を方角の確信を持てないまま歩いた記憶はいくつもの鮮烈な場面となって脳裡に刻み込まれている。夢の一場面を思い出す場合と同じようにそれは懐かしいというほどのことはなく、ほとんど無意味だ。そうすれば蓄積されていく一方の経験は無意味ということになるかもしれない。またこうして改めて文字にするからこそ、吹田歩きのさまざまな記憶が蘇るのであって、書かないままでそれこそ毎日見る夢と同じように忘れてしまうのだろう。となれば書くことは尊いことになりそうだが、思い出したところで夢の一場面と同様、意味のないことであるから、尊いも何もなく、書かないことと同じ結果になりそうだ。ただし、それは大家、巨匠と呼ばれる人の手にかかれば事情が違い、名文によって読者は作家の経験を味わう。本ブログは写真を伴ない文章であるので、絵日記みたいなもので、また今日のように「飛び出しボーヤ」の珍しい写真を提示する場合は出鱈目な夢の一場面ではなく、吹田歩きの中で確実に目に留め、意識に留めた瞬間であるから、ひとまずは意味があると思った行為で、それゆえこうして書くことにも意味を見出してはいるが、読者がどう感じるかはわからない。意味、意義を認めてほしいと願っても読まれなければその可能性はなく、また読まれても認められる可能性は少ないだろう。認められるというのは面白い、もっと読みたいという思いにさせることだが、本ブログはコメント欄を閉鎖しているので読者の反応がわからない。暖簾に腕押し気分で書くことになるが、その意味の有無の判断は筆者側にあって、書いていることは無意味ではないと思っているからだろう。

ヤフオクがいつの間にか匿名配送という仕組みが出来た。利用したことはないが、誰が誰に送ったかを知るのはヤフーのみで、売買の双方は商品さえ届けばよいとの考えだろう。この匿名性歓迎はSNS時代に応じたもので、ブログというのも匿名が基本になっているようだ。筆者は名前を明かしているが、これは認めてほしいという気持ちからというよりも、無責任なことをなるべく書かないようにとの自戒の意味が大きい。読者にすれば書き手の名前などどうでもよく、投稿の内容が面白いかどうかが重要だ。それで有名な人物であればいちおう信用があって、面白くないことは表現しないはずとの認識が一般にはあるが、実際は有名であってもひどい表現は多々あり、その逆もある。名前は記号だが、その記号が作者の作品が発散する印象と結びついていて、かくて作品も限りなく記号とみなされて行く。そのことを思って筆者はホームページや本ブログを始める時に「マニマン(宝珠男)」という記号を創出し、その手作りの立体を画面トップに掲げているが、記号は縁起のよい印象をもたらすものがよいとの思いからであった。記号は単純なものであるから、複雑なことでも単純に言い表わすことが出来るという思いに結びつきやすい。そこに錯誤が往々にして入り込み、作品を充分に咀嚼、堪能しないままに上辺で判断しやすい。そうなるとたとえば本は積んでおくだけでよく、読まなくてもわかるといった傲慢な態度を示すようになるが、そういう人の表現に深みがないのは当然でも、多くの人は流布されている有名イメージを簡単に信じ、実態を知りたいとは思わない。最初に打ち上げた記号の大きさの効果で、中身などなくてもそれで生きている間は人気者でいられる場合がよくある。それはSNS時代になって肥大化したのではないか。またそこには「少数の有名対大多数の匿名」という図式があって、前者は後者から支えられながら時に大いに非難もされる。筆者は匿名で活動していないが、前者ではないから、SNS時代から離れたところにいると言ってよく、ネットの片隅にいることは読者の反応がなくてもそれなりに心地よさがある。それでこうしてブログを続けている。さて、今日の最初の写真は電柱に巻かれた「飛び出しボーヤ」で、看板では歩行の邪魔になる場合にはよい。また看板より長持ちする。目立たないものが多いが、これは赤が多くてよく目立つ。残り3枚の写真は昨日家内と大山崎山荘美術館を訪れた時、中腹の平屋の休憩室で撮った。同美術館でみうらじゅんの『マイ遺作展』が開催されたことは知っているが、見に行かなかった。「飛び出しボーヤ」シリーズの投稿の最初のほうで紹介すべきであったのに、長年その機会がないままになっている「飛び出しボーヤ」の写真がある。大津の西武百貨店で開催されたみうらじゅん企画の『飛び出しボーヤ』展で撮影した写真だ。同展は10数年前のことだ。

同展を見るためにひとりでJR膳所駅から湖に向かっての坂道を歩いたことや、「0型」の飛び出しボーヤが百貨店内の随所に置かれていたことなどを昨日のように想起出来るし、10枚近い写真もどこかに保存している。それはさておき、『マイ遺作展』にも「0型」がたくさん配置されたことを昨日知った。それは顔のみをみうらじゅんとわかるように記号化した「0型」のヴァリエーションで、彼が「飛び出しボーヤ」の産みの親を敬愛している様子が伝わる。黒いサングラスに長髪という容貌は「遺作」のイメージには合っている。没後に評価されて回顧展が開催されることはないという予測から遺作展を売り込んだと想像するが、それも彼の記号性から伝わる面白い人格で、サングラスという一見匿名性を売り物にしながら、タモリと同じように名声を得ている。彼がサングラスを外して街中を歩いていると気づかない人が多いだろう。つまり市井人としては匿名を望みながらの有名を希求する態度だが、実際に公私を分けて生活しているのかどうかは知らない。彼が「飛び出しボーヤ」に着目したことは自らの記号性と通ずるところに気づいたからだろう。それで彼の顔とわかる「0型」は自己の記号化の応用で、いわゆる「顔を売る」ことに成功した証となっている。言い換えれば彼のサングラスと長髪の顔がオリジナルで、その顔を「0型」に嵌め込んだ行為は借用であって、オリジナル作品ではない。デュシャンの「泉」を想起させながらみうらじゅんは自分の顔をサインとしたのだが、サインのみ創出して他にオリジナルの作品がないだろうとの思いから、筆者は『マイ遺作展』に行かなかった。つまり顔はよく知っているが、それだけで、彼の作品の本質はその顔から想像するだけに留まっているし、今後もそうだろう。今日の2,4枚目の写真からわかるように、彼の顔の「飛び出しボーヤ」はドアの前に置かれていて、足元に消火器がある。このドアは非常用だ。休憩室の中で炎が上がれば、また出入口に向うことが無理ならば、この非常出口から飛び出してほしいとの記号の役割をこの部屋の片隅の「飛び出しボーヤ」は担っている。そのためここにずっと置かれるのかどうかだが、それはわからない。昔はこの休憩室は若い女性がひとりいて、生ビールをジョッキで販売していた。それがなくなった後、現在は展覧会のチラシがたくさん置かれていて、同美術館を訪れる人はほぼ必ず入室するだろう。美術館の2階に喫茶コーナーがあるが、この休憩室では今は自販機が置かれ、お金をあまり使いたくない人にはよい施設だ。またこの休憩室までは入館料は不要であるから、麓の山崎駅界隈から運動がてらに上って来る人もいるのではないだろうか。見晴らしがよく、高齢者の散歩にはもって来いだ。山崎は何もないように見えながら、山崎特有の見どころはいろいろとある。そのひとつにこの「みうら0型」が加わるか。

