「
映像で 見ても退屈 蘇鉄かな 画像も同じ 変わり映えせず」、「蘇鉄にも 個性あるかと 問うてすぐ ほかの蘇鉄の ことよく知らん」、「個性とは 大差なきもの 小異なり 兵卒ならば どれも同じに」、「あそこには 蘇鉄の鉢が 置かれしと 思い返して 吾今ここに」

街角で見かけた蘇鉄の写真は3,4枚たまったところで本ブログに投稿する。その写真が増えるたびに筆者の頭の中に蘇鉄地図が増えるが、もちろん筆者が歩く道は地元の嵐山に限っても百分の一ほどだろう。その微々たる観察距離でも投稿回数が今日で50を数えるから、たとえば京都市全体でどれほどの蘇鉄の株が存在するのかと思う。それでも一万には届かないと思うが、実際のところは誰にもわからない。蘇鉄がある場所を京都市の地図上に記録すればそれなりに面白いことがわかるはずだが、蘇鉄の愛好家にそういうことに興味がある人がいるかどうか。ひとつの方法としてグーグルのストリート・ヴューで調べる方法があるが、その撮影時期はバラバラで、また最新の画像に写っていても現在はないかもしれず、その反対の場合もある。また家の中に置かれる場合もあって、ストリート・ヴューは万能ではない。それで蘇鉄がどこにどのように散らばっているかという疑問を興味深く抱くのは筆者のような蘇鉄好きでもごくごく一部のはずで、地道に自分の足でたまたま見つけて今日の投稿のように報告するしかない。このたまたまの出会いは人生のたとえにもなっている。言い換えれば、意識し続ける着目対象に出会えることは生の意味ではないかという考えだ。その出会いは稀なことで、たいていの人は、あるいは動物も含めて、虚空の中で無意識に過ごし、思いは定まらない。定まって何かに着目することは尊く、それを他者に伝える形に表現することはさらに稀な尊さだ。しかし一方でその尊さのほとんどは誰に着目もされぬままにやがて消える。それゆえ何かを求めてそれに出会えることは稀な素晴らしきことだ。つまり筆者が蘇鉄に出会い、その写真を撮り、こうして文章を添えることは、稀の三乗と言っていいのだが、この文章を読む人に恵まれることは四乗の稀で、さらにその人が面白がれば五乗の稀ということになるのだが、実際はもっと累乗すべきだ。というのは、蘇鉄を育てる人の稀な行為がまず最初にあるからで、たまたまの行為は別のたまたまに何度も重なった状態で人は遭遇する。それを運と呼ぶが、運を自分が運ぶか他者から運ばれるかは同じことで、出会いは双方の働きがあってこそだ。筆者が蘇鉄に遭遇するのは、蘇鉄に関心があるからで、また蘇鉄が呼んでいるからだ。大多数の人は蘇鉄が眼前にあっても目に入らない。筆者が蘇鉄に注目するのはその意思を蘇鉄が会得し、筆者を注目するからで、何事も相思相愛でなければ運は起こらない。しかし運には幸運と悪運があるから、相思相愛のみでは説明がつかない。

今日の最初の写真は去年の8月中旬、バスの中から撮った。国道9号線沿いのマクドナルドかケンタッキーのような店で、国道沿いの広い場所に植えられているので悠々と大きく育っている。この蘇鉄を見かけたのは2,3年前だ。去年も撮ったが全株が写らなかった。バスは速く走るのでシャッター・チャンスは一度切りだ。しかも筆者のデジカメは反応が鈍く、シャッターを押して1、2秒しないと写らない。それはともかく、この蘇鉄はわが家から自転車で3、40分のところにあって、もっと鮮明に撮ろうと思えば出来るが、この蘇鉄だけのために急な坂を上って行く気力も時間もない。それにしてもこの蘇鉄は店の目印となって威勢もよいが、店の看板のほうが走行する車からははるかによく目につき、また看板の邪魔と思う人の方が多いかもしれない。有名なチェーン店であるので倒産することはないと思うが、別の店か建物になった時、邪魔者扱いされて重機で伐採される可能性はある。これほど大きな蘇鉄では植木屋で買えば数十万円はするから、重機で根が掘られて別の土地に移植される場合のほうが現実的と思いたい。それもさておき、地植えでここまで大きく育っている蘇鉄は珍しく、同じ道路際でも広い場所向きの植物であることを再確認する。2枚目の写真は去年12月30日の撮影で、嵯峨のスーパーを4軒巡る間に撮った。近道と考えてめったに歩かない脇道に入ったところ、普段歩く道に出る数十メートル手前で見かけた。大きな植木鉢に二株に分かれて育っていて、重さは30キロはあるだろう。大人ふたりがかりで抱えて持ち去ることは出来るので、盗難防止の意味合いもあってか、すぐ隣りに石が置かれる。これは京都でよく見かける「いけず石」と同じで、主に家の角に置いて敷地の限界を示す。石だけでは無粋なので、こうして蘇鉄の鉢を置くと見栄えがよく、また蘇鉄の刺々しさからは鍾馗さんの代わりを成しているとも言える。つまり、「いけず石」と同じく「魔除け」の思惑があってのことだ。そのように考えると、京都のどの蘇鉄も「魔除け」目的で置かれているという気がして来る。きれいな花が咲く植物であれば、人は近寄って来るし、時には花をもぎって行くだろう。何となく近寄り難いと思わせるには蘇鉄に限る。となれば筆者が蘇鉄に関心を抱くのは、近寄り難い雰囲気を好むからということになりそうだが、近寄り難い雰囲気を演出するあざとさが垣間見える人物は嫌いで、筆者は自分では気安いと思っている。ただし、さして才能がないのに侮るような言葉を発する人物には声をかけられたくなく、そうい人物に対してはあえて近寄り難い雰囲気を発散する。家内は筆者の普段の顔を怖いと言うが、それに対して必ず「男は怖いと見られる方がよい」と返す。そして家内はこう続ける。「きれいな女性やったら、いつも満面の笑みになるけどな。」「それは男やったら誰でもあたりまえや。」

3,4枚目の写真は昨日撮った。高槻に家内の妹がいる。娘ふたりは嫁いでいて、数年前に旦那を亡くしたので3階建ての木造の一軒家にひとりで住んでいる。娘たちとはいろいろあって、正月休みに帰って来る予定がなくなり、正月用の食材や料理がひとりでは食べ切れないという電話があった。それで筆者と家内、息子の3人で阪急電車で出かけた。酒は用意していないから、スパークリング・ワインを2本持参し、息子と全部飲んだ。ナマコの酢の物を初め、正月らしいものが並べられたが、料理の量は少なく、夜8時過ぎに帰宅の途に就き、富田駅前の「大阪王将」に入った。
去年11月22日に家内と茨木市内の西国街道を歩き、その終点の
国道171号線沿いの「大阪王将」で食べたマーボーフワトロ天津飯がとてもおいしかったので、またそれを食べようとと思ったからだ。しかし店が違うとメニューも味も違い、落胆した。息子が言うには、どのチェーン店でも同様に店によって味が違うと言う。同じレシピでも作り手によって舌が違うから、料理の味が違って当然だ。「餃子の満州」という安い中華料理のチェーン店があって、阪急京都線では西中島駅前にあることを車窓から見て知っているが、筆者はまだ一度もそのチェーン店に行ったことはない。行く機会があればまずは必ず天津飯と餃子を頼む。息子はいつもラーメンに炒飯で、親子ともさっぱり芸がない。話を戻して、義妹の家は高槻市駅からひとつ大阪寄りの富田駅から歩いて20分のところにあって、筆者は数回しか訪問したことがなく、道筋は詳しくない。今回も初めて歩く気分で途中の大半の道であるバス通りを物珍し気に歩いたが、途中で蘇鉄の鉢をふたつ見かけた。3枚目の写真は葉がよく繁茂し、堂々とした姿がとてもよい。4枚目は壁沿いのプランターにあって、ほとんど放置状態だ。世話している人の生活ぶりまで見えそうで、たぶん高齢になって面倒臭くなっているのだろう。義妹の家の前のわずかな植え込みも手入れが面倒になったので、ほぼ全部を切ったとのことだ。それは隣家から苦情が出ることを恐れてのことでもある。3階建てにひとり暮らしでは部屋が多過ぎて、また真冬でもあって、ガランとした感じが強かった。家を売ってワン・ルーム・マンションに移住することも考えていると言うが、駅前の便利なところに70近い女性が契約出来るだろうか。家を売ったお金でキャッシュで買えるかもしれないが、その決断と行動にはかなりのエネルギーを要する。詳しくは書かないが、義妹は病気持ちでもあって、医療費に金がかかる。よく家内に電話をかけて来るが、たいてい1時間くらいは話し込み、そばで聞いているといつも同じような話で、家内は元気づける言葉を発し続けるが、その効き目は数日しか持たない。義妹は電話を切る前に義妹は必ず、「大山さんがそばにいていいなあ」と言う。家内はそれに返す言葉がない。