「
旧と呼ぶ 街道沿いに 蘇鉄鉢 あちらこちらで でんと居座り」、「チクチクと 渾名つけたし 蘇鉄かな 魔除けに置きし 玄関の脇」、「世話いらぬ オレは元気だ 蘇鉄だぞ 満開刺葉 陽射し浴びたし」、「あっ蘇鉄 邪魔な姿が 魅力なり 寄れば刺すぞと 犬猫も知り」

今月5日に阪神の岩屋駅から西へと西国街道を三宮まで歩いた。その時に見かけた蘇鉄を今日は紹介する。筆者の行動範囲はごく限られているので、普段スーパーに買い物に行く道ではもう初めて見る蘇鉄はないと思う。その意味で西国街道の未歩行区間では蘇鉄が見られるのではないかという期待感がある。蘇鉄以外に気にしているのは「飛び出しボーヤ」の看板だが、5日に歩いた時はそれをひとつも見かけなかった。「飛び出しボーヤ」は滋賀の近江八幡発祥で、同地に近いほど設置数が多いと思うが、神戸市はどうなのだろう。市販のものはあるだろうが、PTAや地元の自治会が手作りしたものはないかもしれず、その理由を探れば面白いかもしれない。それはさておき、蘇鉄は多肉植物と同様、ほとんど手間がかからない一方、多肉植物よりはるかに大きく、その点を好む人はいる。しかしアパート暮らしであれば室内で育てるしかなく、蘇鉄はその鉢を置けるほどの空間を持つ人に限る。アパート暮らしでも窓から陽射しがよく入るのであれば、多肉植物と同様、窓際において育てることは出来るが、そういう人はあまりいないのではないか。花屋で売られる鉢植えはみな比較的小さく、アパートの部屋でも置けないことはないが、蘇鉄は葉を放射状に広げ、またその葉はトゲトゲしているので、遠巻きに見るだけで満足する。つまり蘇鉄の占める空間は物理的に加えて意識的な大きさがあって、大きな部屋が必要、あるいはあまり物を持たない生活を好む人にしか見向かれないのではないか。それで蘇鉄の鉢はもっぱら家の外に置かれる。鉢植えであれば成長の限界があり、また枯れることはまずないので、ずぼらな人に向くと言える。筆者はその典型だ。以前何度か書いたように、わが家の蘇鉄は小学生であった息子が学校からもらって来た1枚の葉を育てたものだ。その葉の根元に塊があって、大きな蘇鉄の根元から派生したものをもぎり採ったものだが、児童の数だけ揃えるとなると多くの大きな蘇鉄が必要で、学校が植木業者から寄贈を受けたか、PTAに植木屋がいたのだろう。その1枚の葉が30年経って、広げた葉の直径が1.5メートルほどの2鉢となって、隣家の裏庭と表の玄関脇にそれぞれ魔除け代わりに置いている。半ば邪魔者扱いだが、30年も放置状態で育てると愛着はある。たまに葉の一部が黄色く枯れ始めると、その元気のなさが気になる。裏庭は日光がよく差すのに対し、玄関は北向きであるから、やはり裏庭の鉢が圧倒的に元気がよく、その傍若無人に葉を大きく広げる様子は見ていて気持ちがよい。たぶん蘇鉄を好む人はみなそのような気持ちではないか。

きれいな花を咲かせる植物もいいが、蘇鉄のように年中同じ表情で、しかも成長具合がほとんどわからないとなれば、生活態度を変えずに地道、気長に暮らしたい人に好まれやすいと思う。日本の伝統的な植物で言えば松がそれに当たるが、蘇鉄は松ほどには手間をかけずに済む。とはいえ、それは貧乏人的の見方だ。たまに玄関脇の大きな庭に蘇鉄を地植えしている様子を見かけるが、その背丈が3メートル近いとなると、冬には菰を被せて松以上の目立った世話をかけねばならない。そういう屋敷には住めないとわかっている筆者であるから、鉢植えのまま育てているが、そのことを時に蘇鉄に申し訳なく思う。金持ちの蘇鉄好きに育てられれば地植えされてさらに堂々たる姿で成長出来るからだ。せめてもっと大きな鉢に植え替えねばと何年も思い続けつつ、面倒臭さもあってついそのままになっている始末で、たまに鉢を動かそうとすると、鉢底の穴から伸ばした根が地面に食い込んでいることに気づき、もう動かせない。鉢を割って地植えすればいいようなものだが、そうなると筆者が死んだ後、また鉢植えに戻すことは誰もせず、したがっていつでもトラックで運べる状態にしておいたほうがよい。それは鉢植えの蘇鉄を育てる人に共通した思いではないだろうか。しかし蘇鉄を愛するというより、筆者のように誰かから譲り受けるなりして手元に置くようになり、放置していると勝手に大きくなって行くというのが、蘇鉄を鉢で育てる人の実情ではないか。それはそれで蘇鉄の生き残り戦略としては見上げたもので、蘇鉄は人を寄せつけない雰囲気を保ちながら、その点が人から愛され、どこまでも大きくなろうとする。ただし鉢の大きさに応じてであり、また鉢の直径の4,5倍は大きくなるので、狭い民家では置き場所に困る。それゆえに道を歩いているとよく目立ち、育てている人はそのことを面白がる。つまり、蘇鉄好きは目立ちたがりだ。それでも慎ましい生活であれば蘇鉄の大きさはそれに応じるしかなく、収入状態をよく示すと言える。筆者は蘇鉄を強さの象徴と思っていて、たまに水やりをする時に元気さを確認し、その元気を自身に移入する気になる。これも蘇鉄好きは誰でもそうではないだろうか。しかしどの蘇鉄も大切にされているとは限らない。玄関脇に放置されるのはいいとして、その放置具合があまりにひどく、水やりを全くされないために枯れ死に近い状態のものをたまにみる。雨や光がよく当たる場所にあればそういうことはあり得ないが、それが無理な状態である場合がある。小学生の息子がもらって帰った蘇鉄の苗にしても、その9割以上はたぶん大きく育たずに枯れたか、邪魔者扱いされて処分されたであろう。命とはそういうもので、それで長命を称えることになった。そう、蘇鉄は長命と強靭さ象徴で、近寄り難い無骨さも魅力だ。

今日の最初の写真は
「西国街道、その45」の地図のF地点、大安亭市場の南口からわずかに西の南側だ。間口の家の玄関脇にところ狭しとプランターを置き、彼岸花の赤が目立っていた。大小のプランターを並べるも、全体に半ば放置状態で、さほど植木好きではないか、高齢のために面倒臭くなっているのだろう。蘇鉄の鉢はこれ以上は考えられない場所に置かれ、葉の数枚は背後の壁面タイルに沿っている。もう少し道路側に出してやるのがいいが、それでは通行の邪魔になる。蘇鉄の鉢が最も目立っているのはたまたまかもしれないが、幹に紐が見え、背後の配管などに括りつけての盗難防止とすれば、大事にしている証と言える。幹の高さが50センチはあり、毎年生える葉を適宜切り落とし、上方への成長を促していると見える。2枚目の写真は先の地図のG地点から少し西で、グーグルのストリート・ヴューから取った。撮影は2022年10月で、その後に蘇鉄は撤去された。見落とすはずがないほどに設置状態は目立っているからだ。中華料理店の間口の両脇に装飾兼敷地の限界点を示すために1鉢ずつを置いている。これは文句が出たであろう。歩行者は蘇鉄の葉を避けねばならず、そうなれば走って来る車に接触しがちであるからだ。日本の敷地意識はセンチ単位で厳しい。撤去後、2鉢がどこに行ったかが気になるが、もっと広い場所で悠々としていてほしい。3枚目は地図のGから100メートルほど西で、生田川に出る直前の南の角地だ。目の前はタワー・ビルがそびえ、しかも視界が広いので陽当たりがとてもよい。その様子は写真から伝わるだろう。小さな植え込みながら、蘇鉄は目いっぱい大きく育ち、背後の扉をほとんど覆っている。それでは出入りに困るが、締め切ったままでよいとすれば蘇鉄は泥棒避けになってつごうがよいか。グーグルのストリート・ヴューで確認すると先と同じく2022年10月が最新の撮影で、中華料理の看板が上がっている。玄関上のテント看板は「COFFEE」の文字などを白いペンキで塗り隠し、喫茶店でもあったことがわかる。現在閉店中で、それで植物が繁茂し放題なのだろう。その雑然とした印象から、店舗であれば流行っていないことがわかるが、角地のいい場所であるのに閉店というのは、この付近に中華料理店が多く、競争が激しいことを物語る。4枚目は生田川を越え、最初の四辻を南に少し入ったところだ。そのため、西国街道を東に向けて歩いたのであればこの建物に気づかなかった。「文平ハウス」という名前が昭和っぽくて印象深いが、アパートの玄関脇に大きな蘇鉄の鉢をふたつ並べるセンスもよい。鉢はプラスティック製と思うが、昔の素焼き鉢と同じ茶色であるのがファサードの配色に合っている。写真では右手の地面がわずかに高い。これは左手が浜方向で、神戸市が六甲山と海に挟まれた、坂の多い南北に狭い街であることを示している。

