「
図を載せて わかりやすいと 自惚れし 想い迷走 グロ味のブログ」、「ただのもの 後が怖いは 嘘と言う 只者でなき 人の怖さや」、「下町に 偉人おらぬと 高くくる 丘の上住む 異人の意地か」、「割り勘は 家族単位が 常識と 金ある者の 声は強大」

今年2月12日に阪急春日野道駅周辺を歩いた。まず山手に向かい、たまたま神社を見かけた。その鳥居前の道路が西国街道かと思ったが、帰宅して調べると「国体道路」であることを知った。戦後、毎年秋に開催した国体は都道府県を一巡することにし、その順序がどう決められたのかは知らないが、兵庫県の番では神戸市が中心地となって昭和の高度成長期に開催された。その時に使われた競技場が現在も同じ場所にある王子競技場で、国鉄(今のJR)では「灘駅」、阪急では「西灘駅」が最寄り駅で、後者は30年ほど前か、「王子公園駅」に改名された。同公園前に半世紀前に兵庫県立近代美術館が建てられたのは、京都の岡崎とやや似ている。岡崎は文化ゾーンとなっていて、平安神宮やふたつの美術館がある。スポーツ施設もないではないが、競技場は西京極で、そこは文化ゾーンの雰囲気はない。文化庁とスポーツ庁の存在は、文化とスポーツは相性がいいと思われていることも表われで、それをよく示すのが王子公園界隈だが、阪神大震災以降、新たに巨大な県立美術館が「灘駅」、「王子公園駅」から南方の浜辺に出来て、最寄り駅は阪神の「岩屋」になった。それはさておき、神戸市の「国体道路」は市役所北の大きな花時計前のフラワー道路と王子公園前をつなぐ2キロ強だが、市内の東西を結ぶのはJRや阪急、阪神、西国街道や国道2号線と同じだ。東西に細長い神戸市だが、六甲山を削ってマンションなどを建てた際に出た土砂を浜辺に持って行って埋め立ててポートアイランドや六甲アイランドを造成したので結果、面積と人口が増えた。それもさておき、ネットの「今昔マップ」から「国体道路」は「神若道路」を拡幅したことはわかるが、荒熊稲荷神社を撤去するわけには行かず、それに南面する家並みを移転させたかとなれば、そうとは限らない。現在の荒熊稲荷の社殿はビルで、これは「神若道路」を広げる際に境内を削る必要があったのでその代償として社殿などを大改築する費用が神戸市から出たことも想像される。「国体道路」を西国街道と勘違いしたのは同神社があったからだが、いずれ同神社から東に歩くという思いは西国街道ではないことを知って消えた。ついでながら「今昔マップ」の1960年代を見ると、王子公園は当時関西学院大であったことがわかる。20代の終わり頃か、兵庫県立近代美術館前から家内とタクシーに乗って「加納町の交差点まで」と運転手に伝えたことがあるが、同交差点にあったビルが大震災で横倒しになって道路を塞いだ映像は当時さんざん放映された。同交差点から南200メートルが三宮だ。

さて、
2月に春日野道商店街を歩き、中華料理店の多いことに気づいて
5月に訪れた時は安価な店を見つけて入った。その時のことを書いた投稿に、母の古希祝いに高価な中華料理を食べたことに触れたが、同店を予約したのは下の妹で、家族単位で割り勘することを家内に告げたようだが、当時上の妹家族は9人の参加、下の妹は4人で、わが家の3人が最も少ないのに費用は公平に分担した。それは表向きは平等であるし、筆者の家族が割高でも長男ゆえに当然との見方が出来るが、上の妹一家の年収は筆者の百倍以上だ。カヒレ丸ごとのスープなどいろいろと出たのはいいが、若い女性が料理を切り分けてくれはしても、口に運ぶのは当然自分で、キャバクラ云々と書いたのは、女性が動き回って真横で料理を次々に用意してくれる王様気分、言い換えれば煩わしさをたとえた表現だ。筆者は還暦も古希も全く祝い事をしなかったが、母は事あるごとに子どもや孫が集まって旅行や食事会などの祝いをしてくれることを大いに好んだ。しかしよき思い出ばかりではない。本題に入ろう。今年は二度春日野道商店街に行きながら、二度とも気になったのは、以前TVでお笑い芸人のコンビが同商店街を紹介し、そこに登場した八百屋がなかったことだ。5月に歩いた時は同商店街に平行して別の商店街があるのではないかと思い、四辻に遭遇するたびに東西を見渡したが、それらしきものがなかった。どうにも不思議で、例の八百屋はどこにあるのかという思いを抱き続けながら、5日に阪神岩屋駅前から東方の三宮までの西国街道歩きをすることにした。今日は昨日に続いてその2回目の投稿で、また最初に地図を載せる。その前に昨日の投稿の最後に載せた写真の左端に見える超高層のビルは窓がない。それが不思議で、横を通りかかった時に「住友ゴム」の社名を見て納得した。神戸製鋼が周辺を支配していた時期に同社があったかどうか知らないが、この超高層は大震災以降の建設だろう。このビルは今日の地図のE地点から東50メートルほどにあるが、E付近には西国街道に面した北側に「住友ゴム無響実車研究室」の表示を掲げた建物があったので、E一帯は同社の土地のようだ。今日の最初の写真はE辺りで西を向いたもので、上の写真の奥に見える信号の四辻は春日野道商店街との交わりだ。下の写真は同商店街のアーケードのすぐ手前に西国街道を示す石碑を見かけたから撮った。上の写真で写り込むスマホを見る男性は昼食後の休みのようで、「住友ゴム無響実車研究室」からもスーツ姿の4,5人の若い男性が玄関から談笑しながら出て来ているところに遭遇した。ついでに言えば筆者らが岩屋駅近くのBBプラザで食事を終えた後に西国街道歩きを始め、E地点に至った頃は1時少し前であった。下の写真では女性が写り込んだが、彼女を捉えようとしたのではない。彼女の背後の「こう歯科医院」の看板は、中国人の経営だろうか。

春日野道商店街を横切りながら、5月に食べた中華料理店はもう少し北かと思いながら首を向けなかった。今回は同商店街よりもTVで知ったもっと人が多い商店街があるはずとの思いが先に立ち、先を急いだ。2枚目の写真の上は昨日の地図のAからDまでにはない家並みで、それはE地点から始まるものと言ってよい。簡単に言えば店舗や小さなマンションが目立つ下町っぽさで、それは春日野道商店街を中心に広がっていると言ってよい。春日野道は阪急阪神の線路を縦断して戦前から両脇に家が建て込んでいたことが「今昔マップ」からわかるが、その周辺に家が増えたのは川崎重工や造船業がすぐ近くにあったからだろう。これは京都西陣に近い千本中立売界隈と同じで、都市を代表する産業があればそれに従事する人が必要で、下町が形成される。今は製鉄業も繊維業も衰退し、下町の賑わいは昔ほどではなくなったが、通勤などの生活の便利さから、店舗は減ったり業種が変わるかもしれないが、人口はさほど減らないのではないか。西国街道と春日野道商店街が交わる付近が大地震の際にどのような被害を受けたか知らないが、3枚目の写真は地図のF付近で、Eから400メートルほどだ。上の写真に見えるマンションはまだ新しく、多くの建物はここ30年で建て替わったのではないか。下の写真はまた西国街道の石碑があったので撮ったが、この場所でようやく春日野道商店街よりも賑わっているもうひとつの商店街が南北に走っていることを知った。撮影しなかったが、下の写真の右端に「大安亭市場」の大看板がある。TVでお笑い芸人が親しげに声をかけていた八百屋はこの商店街の中の一軒に違いない。阪急阪神の「春日野道駅」からはやや離れるうえ、また阪急の高架を走る車内から見えないこともあって、筆者はこれまでこの商店街の存在を知らなかった。春日野道商店街は閑散としているが、ここはもっと雑然としている雰囲気が下の写真の左手に見える青いテントの自転車屋からも想像出来る。筆者らが通りがかる時、同店の主はある男性と談笑していて、新しい自転車を売るよりパンクなどの修理のほうが儲かると言っていた。筆者が地元の人間であればその店主とすぐに仲よくなれると思う。その角にある自転車の南は店がなさそうで、「大安亭市場」は春日野道商店街ほどには長くない。先を急ぐので同市場を訪れなかったが、何度も触れている気になる八百屋を訪れるためには機会を作る必要がある。自転車屋を過ぎてすぐに一風変わった間口の広い八百屋が左手すなわち南側にあったので、そこで足を止めて茄子の2袋を買った。3枚目の写真は地図のG付近で、写真の左は焼肉屋であったと思う。この店以外にも焼肉屋は目立った。写真奥は商店街特有の統一された店舗照明看板が並ぶ様子が見える。手前の木立のある瀟洒なマンションは震災前はその商店街の続きであったかもしれない。

