「
母の顔 鏡覗いて 思い出す 老いてますます 似るを自覚す」、「稲荷社に 雀群がる 寒き朝 狐仮面で 古米を撒くか」、「街中の 小さき社 威風あり 世話する人の つながり露わ」、「ああここに 神社あるかと 和みしは 遠き歴史を 想えばこそぞ」

今日は昨日の投稿で載せた地図のBとCに位置する神社について書く。今月12日、阪急の王子公園駅から三宮よりひとつ手前、すなわち王子公園駅からは次の春日野道駅で下車した。王子公園駅はいつも西改札を利用するので春日野道駅でも西出口から降りることになったが、当日の目当てであった商店街がどこにあるかはわからない。それでともかく西出口から北に出たが、それは昨日書いたように妹の旦那の兄の会社が春日野駅北方にあることを聞いていたからだ。その会社は10数年前に長男が引き継ぎ、当時妹からそのことを聞いてホームページを見た。妹はしきりに感心していたが、筆者はそう思わなかった。ホームページも表現のひとつだが、どのような表現にも本人の本性が覗く。見栄っ張りはその雰囲気がどこかに感じられる画面構成を好むし、反対に地味な人は地味な画面となる。しかし本来ホームページは他者に向けての表現で、世間に目立つことを好まない人はホームページを作らない。それはブログも含んでの話で、その意味からすれば筆者は数千ページの膨大なブログを書き、一方では本職の友禅染についても技法を初め、いろいろと書いているので、自己顕示欲は人並み以上と言える。それが自己承認欲求と同じかと言えば、重ならない部分はある。顕示欲は個性を持つ存在すべてにある。承認欲はその顕示を自分にわかる形で認めてほしいという願望で、筆者は顕示欲はあっても承認欲はほとんどない。自分が元気で頑張っていることを自覚出来ればそれで気分よく生活出来る。そのことで名と顔が売れ、収入が増えることまでは望まない。もちろん有名人になれるのはごく一部であることを誰もが知っているので、ネット時代になってSNSで有名になることを目指す人が爆発的に出現し、そうした人がインフルエンサーと呼ばれて従来のマス・メディアも取り上げることになって来ているが、SNSの有名人はどういう専門的な技術でそうなっているかを筆者は調べる気はなく、そもそもインフルエンサーの才能を信じない。将来彼らが歴史に名を留め、インフルエンサー事典が編まれるかとなれば、インフルエンサーが駆使する文体を識別し、それが文学的にどれほど価値があるかという論評が活発化する必要がある。そこには言葉が記号として、新たな記号論が生まれる余地があるのかという問題が前提になるはずだが、当のインフルエンサーたちはそんなことを全く意識せずに軽口で思いを述べているだけで、文学に値するはずがないというのが目下の識者たちの考えではないか。しかし文学に収まらなくてもよく、全く新たな表現者としてもてはやされるゆえのインフルエンサーだ。

それはともかく、筆者はインフルエンサーに全く興味がなく、名や顔がよく売れて収入が増えることも目指していない。これはある意味では誰もが自分にしか興味がなく、他者への共感はすべて目には見えない虚空で行なわれていると信じているからだ。その虚空とはもちろん時空を超越しているから、千年以上も前の詩に共鳴出来るし、絵画であれば身近で見ることによって作者の思いを電流が通じているように感得出来る。それゆえ人間嫌いではないが、好きな人間はごくごく少ない。筆者が誰かからそう思われることを欲しているかと言えば、全然期待はしていないが、この文章を読んで微笑む人がいるかもしれないとは思っているし、またそうでなくても全くかまわない。ほとんどすべての表現行為は共鳴が得られないままに消えることをよく知っているからだ。それをわかったうえで、なお表現することは人間の本性だ。それを顕示欲と呼ぶとして、筆者はそれを肯定的に捉えたい。会社を継いだ長男はホームページに俳優のような写真で大きく登場し、よく見ると顔が昔とはかなり違う。妹に聞くと整形したらしい。そこまでして自社のホームページのトップ画面に登場するのはかなりいかがわしい。したがっていかがわしい職業と思われても仕方がないが、写真の顔を宇宙人のように加工するネット時代の今、そう思わない人も多いだろう。その後そのホームページを見ていないので現在は社長の写真が出ていないかもしれないが、何を言いたいかと言えば、昔のことを知っている筆者にはその長男のホームページは意外ではなかったことだ。人はそう変わるものではない。むしろ子どもの頃の個性がより顕著になって行く。ちやほやされた子は大人になっても目立つことを生き甲斐とするし、そのために危ないことに晒されもするし、時には世間を騙そうともする。その長男の会社を探し当ててその玄関前まで行くことを半ば期待しながら昨日の地図のアルファベット順に歩いてBとCの神社を見かけた。Bは駅の西口を出てすぐ北で、Cはたぶん長男の会社はこの辺りかと思ったところで見かけた。筆者は西国街道歩きだけではなく、カメラを持参して歩く場合は手製の「飛び出しボーヤ」の看板、蘇鉄、そして鳥居が目に入れば撮影することにしているが、以前は地面の大きな円形や建物を覆う蔦もよく撮影していた。神社に関心を抱いた理由の原点は生まれ育った地域に小さな社があったからで、10年ほど前にそこを訪れると玉垣が新しいペンキで塗られていて、世話する人が健在であることを知った。そういう数坪の神社は大阪市内には下町によく点在していて、その数は銭湯以上にあったと思うが、京都ではそれが地蔵尊の祠になっているように見える。それはさておき、BとCはたまたま歩いて撮った神社で、写真を見ながら感じることを適当に書くしかなく、それでこのふたつの神社に出会うことになった契機を長々と書いた。

今日の4枚の写真の最初の2枚はB地点で撮った。小さな駐車場の隣りに社があって、その東隣りの会社が所有する土地ではないか。玉垣の両端に「神若〇店 一丁目一同」と彫られ、〇はたぶん「岡」と思うが、これは浜辺の埋め立てが行なわれる以前、海産物を取り扱う店がこの付近に集中し、組合のような組織を作っていたのではないか。玉垣の奥の左手に大きな岩、右手には小さな岩が据え置かれ、背後に一対の稲荷狐の石像がある。漁師が祀るのであれば恵比寿神社であろうが、加工品を扱うのであれば稲荷神社でもおかしくない。現在この地域で加工海産物を販売する会社があるのかどうか知らないが、全くないとしてもこの社を撤去しようと言い出す人はいないだろう。手入れが行き届いていて、世話を続ける人があることを示しているが、商売替えしても守って行く人がいることはごく自然だ。この社とそっくりなものは京都の鴨川右岸の出雲路にもあって、古い歴史のある地域では珍しくないだろう。「春日野道」は阪急と阪神の双方についている名称で、春日は当然奈良の春日大社に因むとして、その末社がこの地域にあったことをうかがわせるが、「道」はその神社への参道の意味だろう。そう思って調べると、山手に外人墓地「春日野墓地」があって、それが西国街道とつながる道がそう呼ばれたとある。外人墓地は駅から東北1キロほどにある現在の「春日野墓地」だろう。しかし今は「春日明神」はなく、地名のみに「春日」が残った。昨日の地図のEから北に延びる商店街は「かすがの坂」と大書する道路幅の大看板が掲げられ、その北に向かう道が「春日野道」であろう。看板には鯰のキャラクターが添えられ、それはこの地域に昔あった池に因むとのことだ。筆者は「春日野道」であることを知らずにその坂を北上し、次の信号の交差点で西手に神社を見つけた。そしてその前まで行って撮ったのが今日の3,4枚目の写真で、まず「荒熊稲荷神社」の碑が目についた。4枚目は道路を南にわたって神社の全景を収めたが、撮影中の観光客らしき女性が神社を見つめていた。水色の袴を着用した宮司らしき人が忙しそうに出入りしていて、「初午」と書かれた貼り紙、また駐車場や背後の社殿のビルから、この神社は企業家からの崇拝が篤いことが想像出来る。外人墓地は港町の神戸特有のもので、昨日書いたように商店街に中華料理店が目立つこともそうで、中国系だけではなく、さまざまな国籍の人が商売をしているだろう。その多国籍化が最も早かったのが神戸や横浜として、そういう都市における神社が外国人にどう見られているかという興味深い問題はある。たとえば華僑が神社にお参りするかどうかで、国際化が進むほどに神社や寺は肩身が狭くなるのではないか。外人墓地の近くにあったであろう「春日明神」がなくなった理由は知らないが、墓よりも神社は軽い存在ということだけは確かなように見える。

