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●西国街道、その44
寿の 意味をハピーと 知り笑顔 長寿薬は ワクワク心」、「知らぬ街 あてなく歩く 面白さ 夢と違うは 着く場所を知り」、「街並みの 生まれ変わりは 些事と知る 海山ありて 同じ風吹く」、「人ありて 道の命も 永らえり 旧街道の 標絶やすな」
●西国街道、その44_d0053294_23452730.jpg
一昨日家内と展覧会を見るために神戸から大阪へと回った。神戸での展覧会を見終わった後、昼を食べ、天気がよくて時間もあったので西国街道歩きをした。阪神の岩屋駅から三宮までの2キロ少々で、一直線の道で迷うことはなかった。その道筋を地図上に青線で記し、その地図を三分割した。今日から3日連続で撮った写真を順にすべて使う。「飛び出しボーヤ」の看板は見かけなかったが、蘇鉄の鉢がいくつかあった。それらの写真は別の機会に投稿する。さて、最初に掲げる地図のA地点が岩屋駅前で、西を向いて撮ったのが最初の写真だ。筆者が岩屋駅を利用するようになったのは30年前の阪神大震災によってJR灘駅北方、王子公園前の兵庫県立近代美術館が被害を受けたこともあって、その後新たに安藤忠雄設計の県立美術館がその山手から真っすぐ南下した海辺に出来たことによる。展示面積は5倍ほどに拡大したと思うが、そのことによって企画展、巡回展は県立美術館で開催されるようになり、めったに、と言うよりほぼ全く近代美術館には行く必要がなくなった。ただし同美術館に隣接して横尾忠則美術館が出来たので、同館での横尾の企画展にはたまに足を運ぶ。それはさておき、岩屋駅から西は阪神電車は地下に潜る。地図を見るとその地下の線路は西国街道の真下を走っている。今日の地図で言えばAからDまでの間だ。いつ頃その地下化工事が行なわれたのか知らないが、ネット上の「今昔マップ」によれば1960年代であったことがわかる。三宮梅田間はさほど運行時間に差はなかったと思うが、線路の地下化、高架化によって踏切が減った。岩屋駅から電車が地下を潜ることになった時、現在の駅のすぐ東にある敏馬(みぬめ)神社の境内がかなり削られたと以前に知った。同神社が西国街道沿いでどのような佇まいであったかは古い写真に記録されているはずだが、数年前に境内を訪れた時、阪神大震災の被害を受けたらしく、破損した石の鳥居が境内の片隅に置かれていた。今はそれは撤去されていると思うが、大震災が及ぼした影響の大きさを思う。「今昔マップ」で確認するとこの神社は60年代以前は駅の西にあって、小中学校の校庭かそれ以上に境内が広かったことがわかる。今日の地図で言えばB地点付近の緑に塗られた公園がだいたい同じ場所だが、神社の境内はその緑の面積よりももっと大きかった。阪神電車が地下を潜ることになって神社は現在の地に移転し、また境内はかなり狭められた。ここでひとつ疑問があるのは阪神電車が西国街道を走っていたのかだ。結論を言えばそうであったことが「今昔マップ」からわかる。
●西国街道、その44_d0053294_23455644.jpg
 高度成長期、神戸は六甲山を削って海を埋め立て、市街地を拡張し続けた。そのため、「今昔マップ」で昔と今を比較すると海岸線がどのように南下したかがわかるが、西国街道は阪神電鉄の線路と被さっている区間はあるものの、西国街道に平行して南にも「西国浜街道」があって、敏馬神社の境内の南辺が浜街道の北側に接していた。同神社のすぐ目の間が海岸線で、見晴らしはすこぶるよかったことが想像される。逆に言えば高度成長期に旧街道の趣を大規模に消し去った。それはさておき、阪神電車が西国街道を走っていた頃、同街道は線路際の細い道として人が通れたであろう。阪神が地下に潜ったことによって街道の面影は回復したと言えるが、街道沿いを象徴する神社や寺は移転させられ、箕面市内にある元禄時代の長屋門といった古い歴史を示すものは何もない。そのためもあって、芦屋神戸間の西国街道歩きはあまり楽しくないことが予想され、筆者は後回しにしているところがある。さて、大震災から30年近く経った今、もう被害の面影は表向きは全く見えない。そこで思うのは、今回歩いた西国街道の2キロ少々の道が震災前と現在とでどのような大きな変化があるのかという疑問だが、その最大の答えは最初の写真の奥に見えるふたつのタワー・ビルだろう。それらは大都会である三宮地区に建つと思うが、いつ建ったのかとなれば震災以降のはずで、現在の三宮には震災があったことを示すものはないと言ってよい。兵庫県立美術館が出来たのも震災あってのことで、神戸は人口が減少しているとはいえ、大震災によって逞しく成長、変貌したと言っていい。神戸市内の西国街道はまだ半分も歩いていないと思うが、岩屋から三宮に到達する今回の歩きでは少しずつ街が繁華になる、あるいは下町風情が顕著にもなり、3回に分けての投稿はそれぞれの区間の特色をよく表わすように思う。地震で多くの建物が新たに建て替えられたとして、半分以上の住民は同じ場所に住み続けることにしたであろう。となれば家並みが新たになったところで、長田地区のようにビルをたくさん建て、道幅も倍以上に拡幅するという大規模な開発を行なわない限り、街の雰囲気は地震以前とほとんど変わらないと思う。同じ人が住めば同じ趣味の家を建てるからで、西国街道の道幅は変わりようがなかったであろう。それは長い歴史があるという理由もあろうが、拡幅しなくても誰も困らなかったからと思う。「今昔マップ」で百年前の芦屋や神戸の西国街道を見ると、現在それとされている道とは違う場合がままあり、それほどに都市計画で道筋を変えたのだが、そのことを知ると西国街道歩きの楽しみはかなり減る。言い換えれば、古い地図からその当時の雰囲気を想像して歩く楽しみがあるのだが、芦屋や神戸では浜と山に囲まれた狭い地域に街道が走っていたことは確かで、その風を感じ取れば充分と言えるかもしれない。
●西国街道、その44_d0053294_23461727.jpg 今日の最初の写真はこれまで何度も目にしながら、奥の西へと一度も歩かなかったので撮影する時は何となく感慨深かった。ついでに書いておくと、写真の左手は兵庫県立美術館へと坂を下って行く。右手が近代美術館で、同館と県立美術館の高低差は数十メートルはあるだろう。写真左手、信号付近に紫色の大きな旗が見える。敏馬神社のお祭りを知らせるもので、60年代まではその旗の立つ奥に同神社があったことを知ればこの旗の位置はよく考えられたものに思える。今日の2枚目の写真は地図のB地点だ。あたりまえのことだが、筆者は街道の南側の歩道を三宮まで歩いた。彼岸花が満開であることに感心して上の写真を撮り、緑地を過ぎたところで下の写真のように西国街道の石碑を見かけた。このように立派な石碑があることは阪神が地下に潜り、昔の街道の面影が少しでも戻ったことを歓迎してのことだろう。またこの石碑は敏馬神社境内のだいたい北東に当たり、前述のように境内の南は浜街道に接していた。この緑地はわずかでも神社があったことを伝えるためのものではないか。商売上手な神戸市であっても、神社跡を全部建物で埋めることは憚られたと想像する。また一定の割合で緑地は設けねばならず、神社を移転させた後に一部を公園にしたことは常識と言える。3枚目の写真は地図のC付近だ。上はタワー・ビルがかなり近づいたなという思いから撮った。下は上の写真から100メートルほど西の右手すなわち北側で見かけた地蔵で、道路の反対側から撮り、間近では見なかった。付近は会社のビルや工場、駐車場が並ぶが、上の写真は左手に個人営業の食堂が入る小さな建物があったので、半ばほっとした気分で撮った。地蔵は石垣の上に屋根で覆われて設置され、道路際に「子安地蔵尊」と刻む石碑がある。またお参りする人のためにスロープがあり、石のベンチも用意されているが、近くに昭和を感じさせる民家は見えず、この地蔵に願掛けをする人がどれほどいるのだろう。ネットで調べても詳しい情報はなく、由来はわからないが、旧街道沿いであるので江戸時代から同じ場所にあるだろう。敏馬神社と違って移転させられずによかった。地蔵の背後はかなり高さのあるブロック塀になっていて、石垣上ということも併せて、この地蔵の背後は西国街道よりもかなり標高が高いことがわかる。そこで大震災以前はこの付近がどういう民家があったのかという疑問が湧く。ひょっとすれば木造の住宅がかなりあったのが、マンションに建て替わったかもしれない。グーグルのストリート・ヴューは30年前はないのでわからないが、「今昔マップ」では100年前は製鋼所があったことがわかる。南には神戸製鋼があって、旧街道の南北に工場が広がっていた。その趣は現在もある。4枚目の写真は街道を頭上で斜めに横切る陸橋の手前すなわち地図のD地点で撮った。
●西国街道、その44_d0053294_23464626.jpg この陸橋は何のためかと思うと、「今昔マップ」から答えがわかる。国鉄の灘駅から貨物線が分かれて神戸製鋼の敷地内に引かれていた。それがなくなったのは90年代で、その跡を道路に転用した。先の地蔵の背後の丘にはマンションが建ち、その敷地内部を縫うようにしてこの貨物線路跡が遊歩道となっている。またD地点で阪神はこの陸橋の真下を通り、国道2号線の下を走るようになる。阪神の地下化は梅田を除けば三宮から岩屋までで、浜と山に挟まれた狭い地域に国鉄、阪急、阪神、それに国道2号線や旧西国街道などがあって、西国街道の一部が阪神や2号線と被さったことは仕方がなかった。ところで、筆者の昔からの知り合いに神戸製鋼の重役であったKさん夫婦がいる。かなり変わった名字であることから岡山藩の名士の出であったことは納得出来たものだが、奥さんも東京の旧家の出であったのに、屋敷は有名大学に隣接していて両親没後に同大学に購入してもらったと聞いた。いわばふたりは没落貴族の身分と言ってよく、経済的に心配がないというほどではなかった。ただし子どもふたりは学歴からして最高の部類で、娘さんは女医、息子さんは日本銀行勤務となって、教育の重要さを目の当たりにした気分であった。しかし大事に育てたところで子どもはなるようにしかならず、筆者は全く羨むことはなかった。輝かしい学歴と職業であっても人柄は別で、目立たずに生きても本人が満足であれば何も言うことがない。Kさん夫婦と会わなくなって10数年経つが、灘区の山手の住まいは二度訪れただけでもっぱら奥さんが京都にやって来て筆者と会うという関係であった。「神戸に来る時は必ず電話してよ。車で向かいに行くから」と言われ続けていたのに、Kさん宅は阪急の六甲駅北の山手にあったので一度も連絡したことがなかった。ところがある時、元町商店街の東の入り口付近でばたりと会ったことがある。「あら、大山君、こんなところで会ったわね。電話してほしいと言ったのに」という挨拶だけで別れた。ご主人が定年退職した後、暇を持て余してゴルフ三昧の生活になった時、「ゴルフ友だちはみんな大金持ちだから肩身が狭いと思うんだけどねえ」などと、経済力の差をいろいろ見せつけられる現実を聞かされた。それでも夫婦で海外旅行によく行き、ご主人はカメラの趣味を持って奥さんと同じく文化に少しは踏み込んだ生活をしたようだ。生きておられればふたりとも90歳前半と思うが、神戸製鋼という言葉で思い出した。奥さんと知り合ったのは筆者の最初の個展会場であった。その後彼女は筆者から教わった技術でかなりの収入になる染色の仕事をすることになった。それはご主人の退職金だけでは不本意な生活を送ることになるためのいわば必死の方策であったと思うが、ひとつ勉強になったことは、相手が社会的にどれほど偉い人であっても平気で接近し、ほしいものを手に入れる覚悟と根性だ。
●西国街道、その44_d0053294_23471827.jpg


by uuuzen | 2024-10-07 23:59 | ●新・嵐山だより
●「鶏頭の タネを妬むや ネタ... >> << ●西国街道、その45

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