「
無為徒食 自戒はすれど 次回はと 先延ばしして 無理は姑息と」、「残すもの 何もなきこと 清々し フライドチキン 頬張り思う」、「知識増え また楽しきや 気が紛れ よきこと想い よきことはあり」、「知らぬ街 ぶらり歩いて 気に染まる 眺めに音の 重なるデータ」

今日は10日に歩いた西国街道の最後の投稿となる。写真はこれまでの4回と違って2枚少ない。まずいつものように地図を掲げる。左端のO地点は昨日の右端のOと同じで、西国街道や国道171号線と南北方向に交差する中央線という名の道路をわたってすぐの場所だ。そこから東を眺めると右手に田圃が広がり、左手に西国街道が続く。今日の最初の写真はP地点で撮った。上り坂でしかも歴史ある西国街道にふさわしい間口の広い日本建築の建物が見え始めたからだ。
「その40」で書いた瀬川宿跡や
「その41」の牧落地区が箕面市内の西国街道では最も歴史が古いと思っていたが、今日の地図のPやQの萱野地区はもっと貫録のある古い屋敷が続いている。しかし阪急の線路が間近にないためか、人影も全くなくてさびしく、人を寄せ付けない雰囲気があった。『こういう壮大な屋敷にどういう人が住んでいるのだろう』と思いながら歩いたが、道路の両端は石が敷かれ、特別な地域という印象は誰でも持つだろう。断っておくと、筆者は道筋を記した地図を手に西国街道を歩くが、その地図は赤一色でプリントされたもので、文字はほとんど見えない。そのため、街道沿いに何があるかをほとんど知らずに歩く。予備知識を持たずに歩くほうが楽しいからでもある。有名な何かを見落としても、それは自分の感覚が鈍いゆえと諦める。さて、昨日の
「その42」の最初の写真は箕面街道と交わる重要な場所と知って撮り、道標については立ち止まってじっくり見なかった。投稿時に調べればよいと思ったからだ。そのため、その道標の現代版に「萱野三平旧邸」とあることも10日には意識せず、今日この文章を書くためにようやく検索した。「萱野三平」の「萱野」は萱野地区と同じで、萱野を代表する人物であることは予想がつく。しかし初めて見る名前だ。グーグル・マップを見て彼の旧邸が西国街道沿いにあることを知った。その場所は今日の地図のQ点で、街道の南側に長屋門と白い土壁があった。その向かい側にも大きな屋敷があったので撮影はしなかったが、箕面市にとっては残すべき歴史遺産で、萱野三平の旧邸は箕面市が管理して一般公開している。この旧邸はPから始まる上り坂の頂点にあると言ってよく、Qを過ぎるとOからPまでと同じように家並みの雰囲気は半ば現代的になる。想像するに萱野三平旧邸を保存することを前提に171号線や中央線を引いたであろう。三平は元禄時代の武士で、今は箕面市が管理しているとはいえ、三平の親族が現代まで旧邸を保存して来たことは家柄に誇りを持っていたからであろう。

萱野三平は忠臣蔵に関係して名が伝わっている。ここ数十年はさほどでもないが、筆者が子どもの頃は忠臣蔵の物語は大いに好まれ、何度も映画やTVドラマになった。なぜそれほど庶民に歓迎されたかは今の若者は理解しにくいかもしれない。仕える君主が侮辱されると、手下は黙ってはおらず、侮辱した相手の生首を取って復讐を遂げようとする。もちろんそんなことをすれば全員打ち首だが、それがわかっていながら侮辱に対しては命を捨ててまで憤る。筆者は30代に土佐の絵金の絵を見たが、その中に武士の切腹を陰で嘲笑する庶民の姿を描いたものがある。武士同士が争って命を簡単に奪い、また切腹するということは庶民からすれば信じ難い狂気に思えたのであろう。そこまで主君に忠義を尽くすのが武士とわかっていながらも、誰でも命は惜しい。そのごくあたりまえの感情を前に、庶民は武士を殺人包丁を持った厄介な人種と思っていたのではないか。年貢を徴収されることからしてもそうで、世の安定をもたらす存在であるとわかっていながらも、一方では武士はやくざと同じと思っていたかもしれない。それはそれとして、戦後の日本が何度も忠臣蔵をドラマ化したことは、庶民が武士を恰好いい、潔い存在として憧れていた、あるいはそのように時の権力者から刷り込まれていたことも理由としてあるだろう。大戦末期に若者が特攻隊として散って行った背後の事情を知るに及んで、上官たちは何と非人間的なことをしたのかと考える若者の割合が今はどう変化して来ているのか知らないが、戦争絶対反対の立場を採るならば特攻隊はあまりに残酷で、戦争後に国を背負う若者を消耗品のように扱った上官たちを憎むのが当然であろう。忠臣蔵と特攻隊に通じるのは儒教の教えだ。上には絶対服従で、裏切りは最も忌むべきこととされる。一旦主君に仕えると、その主君のために命をいつでも差し出す覚悟を持つ。萱野三平は赤穂浪士であったが吉良家とつながりがあった。その板挟みの身分から大石良雄に遺書を書き、28歳で切腹した。その邸宅が残されている。赤穂浪士の討ち入りの物語において萱野三平がどのように語り継がれているのか知らないが、WIKIPEDIAの萱野三平の生涯についての「創作」の項目を見る限り、あまり好意的とは言えない。それにしても300年前の建物が一部にせよ西国街道沿いに残っていることは稀有なことだろう。三平は俳人でもあったそうで、現在の旧邸は文化施設として使われている。三平が西国街道を何度も往復した様子を想像すると、今日のOからQ辺りの家並みはよくぞ残ったと感心するが、一方で悲劇性の刻印が何となく感じられたことに合点が行く。QからRまでは西国街道はジグザグする。これは国道423号線が出来た時に区画整理が行なわれたためではないか。2枚目の写真は当日歩いた西国街道の終点間際のR地点で撮った。

