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●西国街道、その42
いが 羨ましから 恨みへは 浅まし人の 朝飯前ぞ」、「気まぐれに 見えて縁に 重き置く 言い訳うまき 運命論者」、「仕方なき ことなどないと パワハラを 唱える上司 仕方なく死に」、「人生に 二度同じこと 起こらぬと 知れば籠りも 日々新鮮と」
●西国街道、その42_d0053294_00195019.jpg
今日も最初に地図の画像を掲げ、10日に撮った写真を4枚使う。地図の左端のK地点は昨日のそれと同じだが、八幡宮の鳥居を過ぎるとすぐに地図のL地点に至る。帰宅してから調べようと思って今日の最初の写真と、もう1枚、標をアップにして撮影したが、ここは西国街道と箕面街道の交差点だ。西国街道と交わる南北をつなぐ古い街道は茨木や高槻にはなかったはずで、箕面にそれがあることはこの交差点から北や南に向かう人が多かったことを示す。今日の最初の写真は北東角に立つ江戸時代の石標を写し込むために東向きに撮った。この場所は幕府や領主が高札を立てたとされ、また江戸時代の道標が2本現存する。小は「みのをみち」、大は方向を示す指の浮き彫りとは別に「大阪」と「はっとり天神」が上部に、「四り半」と「二り」がその下に陰刻される。また現代版の道標として「瀧安寺 2.5km」「服部天神 7.8km」と、「瀬川・半町立会駅所跡 1.5km」「萱野三平旧邸 1.6km」の2本が交差して設置される。江戸時代の道標では服部天神まで4里半で、それが現代では7.8キロになっていることは、1里が1.7キロほどとなって、4キロと学んだこととはかなり違う。それはともかく、7.8キロなら歩いて2時間で、またこの交差点からは下り坂が続くので、さほど遠いとは感じないだろう。去年は服部天神を訪れた。その投稿で書いたように、鳥居前の南北の道は能勢街道と謳われていた。箕面街道と能勢街道が厳密にどう違うのかわからないが、箕面街道の北に能勢街道が続くとひとまず考えてよい。西国街道はグーグルのマップにその文字が記されているが、箕面街道や能勢街道はそうではない。その理由がわからないが、西国街道よりは重視されておらず、また西国街道のようには江戸時代の道筋が残っていないからではないか。去年服部天神について投稿した時、能勢街道の現状をグーグル・マップでたどろうとしたところ、容易ではなく、失われている道が少なくないと感じた。箕面街道は大坂街道とも呼ばれ、大阪と箕面を結ぶ。箕面の北の能勢には阪急と連絡する鉄道も走っているが、筆者は訪れたことがない。妙見山は有名で、信仰の対象にもなっているが、妙見信仰は京都で言えば愛宕山がそれに相当する。愛宕山詣りは今は一般的ではないが、戦前までは麓に通ずる電車が嵐山から出ていて、山腹のホテルに至るケーブル・カーもあった。また京都市内には愛宕山への道標が地元の嵯峨や嵐山ではたくさん見かけ、遠方では向日町でも見たことがあるが、同じような石標が妙見山に至る箕面市内の各地にあるのかどうか。
●西国街道、その42_d0053294_00202984.jpg
 西国街道に関心を抱いたのであれば次はそれに交差する旧街道となるのは自然なことだが、筆者は豊中や箕面についてはほとんど何も知らず、箕面街道、能勢街道を踏破したい気は今のところはない。しかしこのL地点から服部天神に至る道は現状がどうなっているかについては興味がある。阪急が宝塚線を通した時、箕面街道にどう沿ったのかという疑問があるからだが、また西国街道に171号線が沿うのと同じことが実施されたのかどうかにも思いが及ぶからだ。大坂街道の大阪側の起点は中津らしいが、江戸時代のその地は京都の人にとってどれほど利用されていたのか、その点にも関心がある。というのは、晩年の若冲は豊中の西福寺に逗留し、今は国宝になっている襖絵を描いたが、若冲がどういうルートで豊中に至ったかを知りたいからだ。伏見から西国街道に入ったとして、L地点から箕面街道を南下したと思う一方、三十石舟で天満橋まで出て、そこから中津に至り、箕面街道を北上したこともあり得る。後者が体力をより使わずに済むので若冲はそのルートを選んだと思うが、天満から中津までは淀川の流れが今とは違って具体的な動きが想像しにくい。それはともかく、豊中は箕面街道沿いにあり、西国街道ともつながっていたことがL地点の道標からわかる。鉄道や車道が出来て今はL地点から服部天神まで歩く人はほとんどいないと思うが、8キロ弱であれば自転車でなくても江戸時代ならばさほどの距離ではない。ということは箕面と豊中は文化共有圏であった。それは現在の思いからもよく理解出来る。簡単に言えば、尼崎のように海辺に近い街でない分、上品であり、そのことは豊中よりも山手に位置する箕面ではさらに顕著ではないかとの思いだ。さて、L地点から東は171号線に接して行くこともあって、西国街道の雰囲気はやや違って来る。古い街道らしさは残しつつ、下町の雰囲気が増すのだが、そのことを新たに出来た国道の騒々しさの感化と言えなくはないだろう。それでも筆者はLから東の171号線に接するまでの家並みは好きだ。下町情緒が生まれ育った地域を思い出させるからだ。171号線に出た後、交差点に至る。南北の道路は大阪・京都府道43号線で、亀岡と結ばれる。南方は豊中に至り、この道路は江戸時代の箕面街道にほぼ沿っているのだろう。西国街道と171号線の交差点にこの府道を通したことは、先の箕面街道と西国街道の交差点の現代版で、ふたつの交差点は300メートルほどしか離れていない。西国街道歩きの古い歴史性を楽しみたい向きからは国道と府道の交差点は全くの艶消しだが、箕面市としても南北の府道を西国街道と箕面街道の交点になるべく近い場所に通そうとしたはずで、どうせ西国街道が171号線で分断されているのであれば、同じ場所に府道も通すことは合理的と言える。
●西国街道、その42_d0053294_00204943.jpg
 この府道と国道の交差点の南東角に「ドン・キホーテ」があった。このチェーン店は5,6年前に家内と大阪の桜ノ宮店に入ったのが初めてで、それ以降はなかった。京都にも同店はあるが、筆者はこういう店は好きではない。しかし10日は家内が明日食べるパンがないと言うので休憩気分で店に入った。スーパーが扱う食品以外にさまざまなものが売られ、雑然とした雰囲気ながら各コーナーがそれなりにわかりやすく、何でも揃う気がした。桜ノ宮店より大きいと思うが、箕面の人口に応じて売り場面積、また交通の便を考えて場所も決めたはずで、箕面市内の171号線ではこの交差点は箕面萱野駅周辺に次いで人の往来が多いだろう。明らかに車を利用する人を想定した店で、車での移動の場合、8キロ弱の距離は「近い」部類に入るであろうから、豊中市に同じチェーン店がないのであればこの箕面店までやって来る豊中の人は多いと想像する。こうい全国どこにでもある大型チェーン店は販売するものもほとんど全国同じで、その意味で地域の特色を失わせる存在だ。171号線に同化した西国街道区間は、本来の旧街道ではなく、例外的なものとして受け取るべきだ。言い換えれば情緒はなく、どこにでもある郊外の街並みだ。それは車で走っている人は普段あまり感じないことかもしれない。車を所有があたりまえになっている現在、気晴らしに西国街道を歩こうという筆者こそが例外的なおかしい存在で、それは無視していい数でもあってここでこうして書く筆者は誰からも注視されることはない。とはいえ、箕面市が西国街道をそれなりに重視して道標を点在させていることは、古い歴史を持っていることの誇りの表われで、繰り返しになるが西国街道や箕面街道を基本にしながら鉄道、国道、府道が出来て来たことが地図で確認出来る。日本全国の街がそうしていると信じたいが、地下深く通すリニア新幹線では予期出来ない自然を破壊する問題があって、大規模な新しい幹線の敷設はそろそろ日本では限界に来ている気はする。話を戻して、「ドン・キホーテ」で食パンその他の買い物をした後、また東に向かった。171号線から逸れて西国街道に入る手前のM地点で撮ったのが2枚目の写真だ。自転車に乗る高齢者が撮影中に追い越し、偶然にその姿が入った。その前方、171号線と西国街道の分岐点に介護施設の会社の大看板があって、自転車の高齢者とそれが一緒に収まるのはちょうどいいとも思った。閑静な住宅地が多いと想像出来る箕面市内に介護施設があるのは当然と言うつもりはない。今はどこでも高齢者が増え、介護施設も必要となって来ている。これは数日前に「風風の湯」で嵯峨のFさんから聞いた話だが、昔サラリーマン時代に知り合った人の息子さんからはがきが届き、箕面市内の介護施設に入っていると書いてあって、Fさんは早速見舞いに行きたいと筆者に言った。
●西国街道、その42_d0053294_00211867.jpg
 早速ネットで調べ、阪急箕面駅から南西1キロほどにその施設があることを伝えると、Fさんは考え直して見舞いに行かないと言った。会っても自分のことがわからない可能性が大きく、それで息子さんが年賀状代わりに報せて来たはずで、昔親しく話した思い出に留めておくと言った。誰でもいつかは体が動かなくなる。そうなる前の元気な時に会えるのであれば会っておくべきだ。高齢になっても親しい人は出来るもので、筆者にとっては「風風の湯」がその役割を果たすひとつになっている。それはFさんも同じで、新たな話し相手が出来る間は高齢者は元気が保たれるのではないか。他愛ない話でもしないよりはましで、お互いに合う部分でのみ話をすればよい。ある一点の欠点を拡大して見るのではなく、一点のよさを大きく評価して付き合いすればよい。ましてや風呂の中だけの交際であればなおさらだ。3枚目の写真は地図のN地点で撮った。前方右手に「歴史の道 西国街道」の道標を見かけたからだ。また左に写る黒い石垣の家が珍しいからだ。なぜ石垣の上に家が建っているのかだが、北からは下り坂になっている地域というのが最大の理由かと思えば、向い側の家とはほとんど地平の高さは変わらない。石垣を巡らすのは家を建てる以上の費用が必要であろうが、そのことを厭わないほどの資産家なのだろう。あるいは昔の木造の家の頃から石垣造りであったかもしれない。4枚目の写真は地図のO地点で、中央線と呼ばれる道路と西国街道の四辻の東角だ。中学生男子数人と一緒に信号待ちをし、青になって一緒に道路をわたってから撮った。彼らは筆者の姿を不思議そうに見ていた。何が珍しくて写真を撮っているのだろうと思ったようだ。撮影した意図の第一はまた「歴史の道…」の道標を見かけたことだ。そしてすぐ奥に水田が広がっている光景が珍しかったからでもある。さらには遠方に北大阪急行の高架が見えた。水田は西国街道が171号線の北側にある地域では見かけなかった。それがこの撮影場所すなわち中央線と呼ばれる道路と西国街道の交差点付近には他の場所ではないないほどに視界が広がる中で存在している。いずれそれは住宅地に変わるかもしれないが、現在のところは西国街道と171号線が交わる「ドン・キホーテ」から東と西とでは景観がかなり違っている。中央線は池田市と東西で一直線につながり、171号線に接するわずかに手前で南下し、この四辻につながって1キロほど南で途切れている。その名称からして西国街道にほぼ平行する古い街道を改造した道に思えるが、池田市の歴史ある中心地とつなぐ重要な道路であることはわかる。それゆえ中央線沿いは西国街道と同じく、古い家が多いのではないか。そのことはO地点から東に続く西国街道沿いの家並みから想像出来る。そうした旧家が4枚目の写真に写る田畑を所有し、今は現代的な豪邸をかまえているのだろう。
●西国街道、その42_d0053294_00214184.jpg


by uuuzen | 2024-06-15 23:59 | ●新・嵐山だより
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