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●西国街道、その41
の前 花鉢並べ 蜂を呼び こそ泥刺され 腫れもの咲いて」、「まっすぐに 続く道にも 変化あり 速度上げるな ボーヤ飛び出す」、「街道に 大きな木あり 珍しき 神社も今は 森を失い」、「駅前の 人出に混じり 気を晴らす 地元老人 暇持てあまし」
●西国街道、その41_d0053294_14270884.jpg
昨日、一昨日と同じく、今日も最初に地図を用意し、西国街道で撮った写真を4枚使う。地図で示すH地点からKまでの約1.5キロを取り上げるが、グーグルのマップを見ていて気づいたことをまず書いておく。箕面市内の西国街道は高槻や茨木とは違って、あるいは箕面市の位置がよくわからず、また同市内の西国街道歩きは隣接する他市との境界が複雑であるため、意外なことに気づいた。それは「その39」に載せた地図すなわち箕面市の南西隅の市の境いについてで、「その40」の地図ではEからF付近までだ。箕面市の東は池田市で、西国街道のFは両市の境界になっていると昨日書いた。箕面市の南に豊中市が隣接するが、意外なことに豊中市の飛び地がFの西側に阪急箕面線を挟む形で広がっている。「その40」の最初の写真はFの地点よりわずかに南の四辻の手前で北を向いて撮り、左手の電柱に巻かれる「幅員狭小」のシートは箕面市が設置したものであることを示す。その四辻から10メートルほど南の地点では道の西側が豊中市の飛び地、東が箕面市で、「その40」の最初の写真の撮影位置は池田市と豊中市と箕面市の境界近くであることを知った。国道423号線が二手に分かれているE地点は飛び地の南東角で、EからFのわずかに南までは豊中市と箕面市の境界になっている。その飛び地が出来た経緯は調べていないが、阪大のキャンパス、あるいは国道171号線の高架線が出来たことに関係するのではないか。箕面市は東に茨木市、西に池田市、南に豊中市に接し、北に川西市と接している。西国街道は前三市を横断しているが、伊丹市をどう通っているかはまだ踏破していないので実感出来ない。それはさておき、西国街道のみに関心を示すとこれら隣接し合う各市の歴史的な関係はよく見えないだろう。京都市内は碁盤目状の街路で、東西南北どこに行くにも便利と思われがちだが、実際は南北よりも東西の交通はかなり不便だ。それは地形が関係しているが、箕面や池田市内の西国街道を横軸として、縦軸の街道がどう走っているかについて知らねば見落とすことは多いだろう。そのことを箕面市の南が豊中市であることを改めて知って思う。さて、今日の最初の写真は阪急箕面線の桜井駅前の交差点に出る間際のI地点で撮った。I付近では西国街道と阪急の線路との距離はほぼ50メートルで、線路の気配はより明らかになる。写真の奥は西で、右手に駅があるが、Iから西は西国街道の雰囲気はがらりと変わって都会的となる。箕面線には6,7年前に箕面駅まで行くのに乗ったきりで、桜井という駅があることを今回知った。
●西国街道、その41_d0053294_14274784.jpg
 箕面線は桂駅から出ている嵐山線と似ている。石橋阪大前から箕面までと桂から嵐山までとはともに駅の数は同じで、どちらも終点は観光名所として昔から有名だ。より田舎なのは嵐山線で、裕福な人が住む割合も劣るだろう。箕面駅と嵐山駅との圧倒的な差は、後者は駅前に喫茶店とコンビニ、ホテルがそれぞれ1軒しかないという静けさで、前者はもっと多くの店があって開けていることから明白で、また桜井駅前は嵐山駅前よりも店舗が多く、嵐山駅のひとつ桂駅寄りの松尾大社駅よりも賑やかだ。駅前の賑やかさは常識のようだが、そうでもない。賑やかの反対がさびれているとなればそれも違うところがあって、「さびれ」はかつて賑やかであったところがそうではなくなったことを意味する。その点からは阪急嵐山駅は桜と紅葉の季節のみ賑わい、他の期間はさびれていることになりそうだが、前述のように元来店舗があまりに少ないので「さびれ」もない「無」と言ってよい。話を戻して、最初の写真を撮る手前に尼崎信用金庫や本屋、スイーツの店、音楽教室などがあり、また前方は商店の街灯が並ぶ2車線の道路で、H地点付近とは全く違う新しい、言い換えれば通勤人が多く住むどの地方都市の駅前にもある眺めが始まることがわかる。そのことを思って小林一三は線路を引いたであろうから、地方都市の駅前の景観の画一化は戦前から始まっていた。とはいえ、どの駅にも独自の雰囲気はある。その差異を大きく見るか些細なものとするかは人それぞれだが、知れば知るほど違いは大きく感じるものだ。あるいは一瞬で違いがわかると言ってもよく、前述したように箕面線は嵐山線に似ていると思わせつつ、中世に遡る歴史を持つ西国街道に沿う電車の駅周辺は、ただの田舎ではない、より落ち着いた、そして洒落た雰囲気を感じさせる。2枚目の写真は阪急の線路と西国街道が交わるJ地点の踏切の少し手前で、写真右下に道路上の白いT字が示すように、写真の左手すなわち北に道は緩やかに曲がり、それを北上すると牧落駅を経て箕面駅に至る。写真を撮っていると、前方から赤い車がやって来て、運転手が物珍しそうに、あるいは邪魔に思っている様子が伝わった。通行人は稀れで、車も少ない時間帯であったので目立ったのだろう。それは珍しくもない踏切を撮影しているからでもある。道路と交わる踏切は阪急では珍しくなく、嵐山線には何か所もある。車の通行量がもっと増えると線路を高架にする工事が行なわれるが、J地点ではそうはならないだろう。この踏切から南に50メートルほどに走る国道171号線も高架になっていない。「その39」に載せた地図のE地点から北に100メートルの西国街道と交わる踏切の頭上に171号線の高架があるが、ネットの「今昔マップ」で調べると、1970年代にその地点から新たに171号線が西へと延長された。
●西国街道、その41_d0053294_14280809.jpg
 その際、同地点から西500メートルの阪急宝塚線とも交わるため、171号線が双方を跨ぐことになった。踏切にすれば交通量の多い国道では苦情が出たであろうし、国道の上を阪急が走るとなるとその高架工事費用を国が負担しなければならなかった。後に出来る施設が金を出して譲るしかない。171号線の延長によって、「その39」で触れた国道423線が二手に分かれて狭い三日月型の住宅地が残ったが、これはそれと同等ほどの住宅が取り壊されたことを意味し、石橋阪大前駅北側に171号線が東西に延長されたことでその付近の景観は大きく変わった。車の免許のない筆者の頭には道路地図はないが、高架道路の鬱陶しい存在は気になることが多い。目障りなのだ。それに車が頭上を走って騒音と排気ガスを撒き散らすことは公害ではないか。地下を走ればいいと思うが、ガソリン車であれば排気ガスを地上に出さねばならず、完璧な解決策とは言えない。最近空飛ぶ車が喧伝され その36ているが、それは頭上を無法地帯にすることで、高速道路よりも厄介な問題が必ず生じる。車に轢かれるというより、車が空から落ちて来て屋根から部屋に突っ込む自己が頻出するだろう。技術の発展とはいえ、人間はそれのみを拡大視して愚かな部分に目をつむる。さて、2枚目の写真の奥に大きな木が2本見える。左手の木が今日の3枚目に写る。西国街道は踏切を越えてさらにY字路を左手に行き、すぐにまたY字路があってそれを右に向かう。この付近のこれらのわずかな蛇行は踏切が出来た以降のものだろう。踏切やY字路を除くと西国街道は一直線に北東に伸びている。「今昔マップ」を見ると、60年代まではこの辺りが畑であったことがわかる。写真の背の高い樹木はわずかに東にもう2本あり、踏切付近から等間隔にもっと多くあったことを思わせる。社寺がない場所にこの大木は珍しく、それで撮影したが、真ん中の木の根元に「歴史の道 西国街道」と記す直方体の杭があって、箕面市としてこの付近を大事に思っていることが伝わる。3本目の木の幹には「保護樹木」と記した札が下げられていて、グーグルのストリート・ヴューによればクスノキであることがわかる。楠木正成に因んで200年くらい前に植えられたものかもしれない。すぐ際が会社の駐車場になっていて、木が植わる場所は個人の所有と思われるが、神社の神木と言ってよいクスノキ3本であるから、土地の所有者は伐採を好まないだろう。それにこの木は遠目にかなり目立ち、箕面市内の西国街道でも最も印象的な場所と言ってよい。それほどに樹齢を重ねた大きな木は風格がある。切のは一瞬だが、同じ状態に成長させるのに人間の数代もかかるとなれば、樹木は大きくなるに限る。中途半端に大きいと、また成長の早い木であれば簡単に切られてしまう。
●西国街道、その41_d0053294_14283049.jpg
 「その36」に書いた春日神社御旅所では境内は白々しいほど樹木は低くされていた。それは神木があまりに老化して倒れる心配があったためとも考えられる。となれば、これら3本のクスノキの際に車を停めず、根元を傷めない形で保存してほしい。今日の4枚目の写真はK地点で撮った。西国街道の左手すなわち北側に突如現われた。神額に「八幡宮」とあって、奥の境内には先のクスノキよりおそらく背の高い樹木が生い茂っている。先を急いだので鳥居をくぐらなかったが、住宅に挟まれた狭い参道は京都梅津の梅宮大社とそっくりだ。ただし四条通り沿いの騒々しさと違って、ここでは落ち着いた空気が流れている。「今昔マップ」で19世紀末から20世紀初頭の様子を見ると、この神社に隣り合う寺を囲む形で「牧落」という小さな集落があったことがわかる。当時阪急箕面線は有馬電機鉄道で、現在の牧落駅はなかった。神社と寺を核とする集落が拡大することで阪急は同駅を作ったが、それは20年代で、その頃には箕面電気鉄道に名称が変わっている。前述の寺は安養寺だが、西国街道を歩いているだけではその存在に気づかない。八幡宮との間に現在は牧落公園があって、それが元はどちらが所有した土地かは知らないが、明治の神仏分離令に関係なく、昔から寺と神社が共存していたのだろう。安養寺は西国街道沿いの箕面市内であるから、昨日書いた淨圓寺と同じく浄土真宗であることは当然と言えるか。気になったので調べると、安養寺のほうが八幡宮より少し歴史が古く、蓮如による精力的な本願寺再興の動きによって浄土真宗は箕面にも勢力を広げた。八幡宮は石清水八幡宮から勧請したもので、牧落と八幡、淀辺りが近いことを感じさせるが、なぜ伏見稲荷大社の末社とならなかったのか。伏見稲荷は商売人にもっぱら崇敬されている印象があるが、商売繁昌と五穀豊穣のご利益があるとされるので、牧落の住民の大半を占めていたはずの農民とつながりが深い気がするが、八幡の神は武神ともされ、昨日書いたように中世の有名な合戦地に近く、その関係を重視したのかもしれない。的外れを書いているかもしれないが、わずかに知ったことをつなぎ合わせて考えることはそれなりに楽しい。豊中市には服部天神があって、そこは西国街道ではないが、牧落の地に菅原道真が大宰府に向かう途中に休んだという言い伝えがあれば、この八幡宮は天満宮になっていたであろう。またこうも想像する。山の上にある石清水八幡宮は、山手と言ってよい牧落の地からは眺められたのではないか。その親近感から勧請したかもしれない。石清水八幡宮は伏見稲荷大社よりもはるかに近く、わざわざ遠いところに頼らなくてもいいと考えるのはもっともなことだろう。点在する社寺から歴史的なつながりがいろいろと推察出来て面白いが、筆者は全く歴史ファンとは言えない。
●西国街道、その41_d0053294_14285292.jpg


by uuuzen | 2024-06-14 23:59 | ●新・嵐山だより
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