人気ブログランキング | 話題のタグを見る

●当分の間、去年の空白日に投稿します。最新の投稿は右欄メニュー最上部「最新投稿を表示する」かここをクリックしてください。

●西国街道、その40
の字を 見つめて想う 伊勢海老の 威勢はよきや 曲げ腰のふり」、「行き止まり 犬が顔出し 息止まり 熊なら死んだ ふりして伏せて」、「書くことの 何も浮かばぬ ことあれど 真面目一徹 何か書き出す」、「知らぬ土地 歩いて犬を 見かけぬも 坊や飛び出し 蘇鉄に蹉跌」
●西国街道、その40_d0053294_13133480.jpg 10日歩いた西国街道の2回目の投稿。昨日と同じく最初に地図を掲げるが、左下のE地点は昨日のEと同じだ。今日の最初の写真はF地点より少し南の四辻で、左端の電柱に「この先幅員狭小」とあったので撮った。電柱に巻かれたこの注意書きは箕面市による作成だが、四辻からGに至る250メートルほどの西国街道は池田市と箕面市の境界線になっていて、電柱や家の壁面に貼られる住所表示は池田と箕面の双方があった。道路の真ん中が境界であれば2枚目の写真の左端の電柱は池田市にあることになるが、グーグルのマップでは両市の境界線は道路の中央とは限らず、この四辻では電柱のある場所は箕面市に含まれている。狭い道路の両側で市が違えば住民の意識はどうなるか。向かい同士で仲よくなることはあたりまえにあることだが、市が違えばゴミ出しその他、いろいろのことに違いがあり、親しくなることの頻度を下げる。それはよい住環境とは言えない。同マップを仔細に見れば、この道の両側は大半がマンションやアパート、介護施設で、名称に「池田」か「石橋」がつき、また横文字であるところ、どれも新しい建物であろう。となれば住民も若い人がほとんどで、親しくなるとしても同じマンションやアパート内がもっぱらで、同じ学区内の住民同士となる。つまり道を挟んで両側の住民は互いに関知していないのが現状だろう。それはさておき、昨日書いた紫色の扉のガレージを見つめている間に背後から黒い服を着た若い女性と、そして白シャツの40歳くらいの男性が筆者を追い越した。西国街道歩きでは珍しいことで気になった。彼を追う形で四辻に至り、写真を撮っている間に彼らはさらに北に去って行ったが、地図を除いて今日の最初の写真は彼らを写し込む意図もあった。歩きながら思った。真昼間であるからいいものの、夜の10時過ぎならこの道は怖いかもしれない。250メートルほどの、そして脇道のない一直線の道で背後から足音が聞こえると誰でもいい気はしない。女性は特にそうだが、男も金目当てで襲われる。そういう意識がこの道を挟む両側の住民に共有されているだろう。そのことによってなおさら両側の住民の交流は乏しいはずで、そのことが何となく感じられてこの区間はあまり心地よくなかった。誰とも会わねばその思いはなかったかもしれないが、筆者らを相次いで追い越して行った女性と男性が振り返らずにどんどん先を行ったことは、彼らも足早にこの道を通り過ぎたいと思っていたからではないか。しかしそれは考え過ぎか。
●西国街道、その40_d0053294_13140811.jpg
 白シャツの男性の後を追いながら、彼がどこまで筆者と同じ道を行くのかと気になった。するとG地点で左に折れ、橋をわたってさらに西に行く姿が見えた。それでG地点では何となくほっとした。本格的な西国街道が東に向かって始まるからだ。それは道に迷う心配のないことでもあって、退屈と言えばそれはかなり当たっているが、古代からの街道は地形に左右されるとはいえ、わざと曲がりくねることはないはずで、地図を持たなくても道に迷うことはないように出来ているのが普通だろう。2枚目の写真はGで撮った。比較的大きな、また新しい一戸建てとアパートが混じる地域で、G以東は箕面市に属する。大きな街灯が見えるので夜は先の狭い道よりは安心のようだ。玄関前の道路沿いにプランターが目立ち、黄色や白の百合が咲いていた。広い庭のある家の有無はわからないが、たいていの家は庭にすべき土地をガレージか、あるいは植木の世話をしなくても済むように石やコンクリートで埋めているのではないか。とはいえ、そこは趣味の問題だ。緑を愛する人はいて、庭木は当然ある。そのことはわが地元の嵐山からもわかる。嵐山と似ていると感じる点はこの西国街道の南100メートルほどに平行して阪急箕面線が走っていることだ。また線路のさらに200メートル南に国道171号線が平行していて、交通の便から抜群の住環境だ。171線と阪急の線路の間の地域よりも線路の北側の西国街道沿いのほうが古い情緒を残しているはずで、西国街道を歩いていると171号線が近くにあることを感じない。グーグル・マップを見ると西国街道の200メートルほど北に箕面川が東西を流れ、その一帯や以北は2キロほど先の山まで民家が密集している。それらはいわゆる山手の大きな家ばかりかとなると、阪急の駅や171号線から遠ざかる分、環境は静かにはなるが交通に不便で、邸宅もあれば小さな民家もあるだろう。それはともかく、この西国街道沿いは落ち着いた上品な空気が漂っていて住むのはよさそうで、アパートやマンションが目立つのはそのためだろう。旧家はどうかだが、戦前の古い木造の屋敷はほぼなかった。古くからの住民は現代風の家に建て替えているだろう。それは相続のためでもある。以前に何度か書いたが、筆者が京都に最初に住んだのは梅津の旧四条通り沿いの江戸時代から続く庄屋の離れであった蔵の2階であった。そこに2年だけ住んで転居したが、それから30年ほどすると家主夫婦が亡くなったのか、確か3人いた男女の子孫が遺産を分けたようだ。立派な平屋の屋敷や広い庭は消え、4,5軒の小さな家が建った。箕面市内の西国街道沿いにも同様のことが多々あったろう。今も昔の庄屋風の建物をかまえているのはよほどの商才があって成功しているからだ。学校を創設するか宗教法人を作るか、あるいは政治家になって広い人脈を築くかという道もある。
●西国街道、その40_d0053294_13143094.jpg
 3枚目の写真は地図ではHのわずかに手前で、右手に黒塗りの木造住宅が見える。赤い「消火栓」の文字のある電柱の向こうに白く見えるのは白百合の植木鉢だ。それが黒い建物に柔和さと色気を付与し、家主の人柄が垣間見えそうだ。写真ではわからないが、家の間口はとても広く、代々続く家であるのは間違いない。一方、道路の向かい側はよく手入れされた庭木や現代的な大きな建物で、同様に地元に長年住む家柄であることが想像される。GからHまではこのふたつの家に比する大きな家が目立ち、土壁の蔵もあった。おそらく箕面を代表する旧家はこの辺りに集まっているだろう。その意味で箕面市内で最も西国街道らしい地域ではないか。3枚目の写真の奥左手に火の見櫓のような塔が見える。近づいて確認すると、すぐ際が地元消防団の建物であった。昔は火の見櫓であったのだろうが、今は人が上り得る塔ではなさそうで、てっぺんに滑車らしきものがついた防火用水の井戸か消化ホースを干す施設に見えた。消防団の建物があることはこの辺りが地域では最も古くてまた重要であることを意味している。グーグル・マップには街道沿いの北側の広い駐車場が「瀬川宿跡」と記されている。写真は撮らなかったが、箕面市教育委員会が建てた「むかしの瀬川・半町」と題した石造りの説明書きが道路沿いに建てられていて、グーグルのストリート・ヴューによって全文がよく見える。それによるとこの付近が中世から歴史上有名であることを知る。あたりまえと言えばそのとおりだが、歴史に残る人物がこの道を往来したことに改めて想いを馳せると、阪急の線路や国道171号線が西国街道そのものを拡幅して敷設しなかったことのありがたさを思い知る。これは歴史上重要な場所はそのままで保存しようという考えの賜物だが、時代によって権力者の考えは異なる。西国街道を跡形もなく潰して高速道路を造ろうと言い出す独裁者があり得た、あるいは今後あり得る可能性は、「瀬川宿」が「跡」となって駐車場に変化したことからもなくはない。瀬川と半町は地名だ。グーグル・マップを見るとこの「跡」から南の阪急線路沿い南側に「瀬川中公園」と「半町中公園」が西と東で隣り合っていて、保育園や幼稚園、小学校、生涯学習センターが囲んでいる。「むかしの瀬川・半町」の説明書きは、「中世」の前段と「近世以降」の後段から成り、前者は『太平記』から引いて、鎌倉末期の1333年に後醍醐天皇の軍が瀬川宿に陣取った六波羅探題軍を打ち破った「瀬川合戦」が、鎌倉幕府滅亡の2か月前にあったことと、1336年に足利尊氏の軍が後醍醐天皇に反旗を翻して戦った「豊島河原合戦」について記し、「豊島(てしま)」が猪名川の東から瀬川までの地域と推察している。この地域で楠木正成や新田義貞などの軍勢が足利尊氏軍と戦ったことは血生臭さを連想させるが、河原とはだいたいそういう場所であろう。
●西国街道、その40_d0053294_13145213.jpg
 説明書きの後者は平和になった江戸時代について説明する。「瀬川宿は、公用の人馬や荷物を継立てる役割があり、瀬川村と半町村がともに行っていました。また、参勤交代の西国大名らが利用する本陣と庶民が利用する旅籠などがありました。…」本陣は瀬川に1軒のみであったのが、後に半町にも出来たとあって、旅人の往来は現在の比ではなかったであろう。本陣の建物が残っていれば観光資源として活用出来たと思うが、茨木のそれは見物客が少なくて閉館同然の状態で、西国街道に観光客を誘致する積極性は乏しい。NHKの大河ドラマで取り上げるにしても西国街道そのものは主役にはならず、また楠木正成ブームを新たに起こそうとなると天皇が絡んで賛否がある。それはともかく、筆者は豊島河原合戦のあった猪名川辺りの西国街道は未踏だが、阪急の石橋阪大前駅から西に歩く時に経験することになる。今日の4枚目の写真は「瀬川宿跡」のわずかに東で見かけた石碑で、「蓮如上人御由緒地」とあったので撮った。また際の「飛び出しジョーヤ」は小学校が近いこともあって西国街道には他にも設置されているが、どれも市販製品だ。撮影位置からは見えにくいが、正式には何と呼ぶのか、寺が庶民に仏教の教えを示すための文言を記す掲示板がある。背後は蓮如が関係する浄土真宗の「淨圓寺」だ。室町時代の1496年の創建とされ、これは石山本願寺と同じで、最晩年の蓮如がいかに勢力を拡大していたかの証左だ。蓮如については四半世紀前に京都国立博物館で展覧会があった。筆者が関心を持つのは石山本願寺を建ててそこに住み、やがて信長と戦ったことだ。その一点だけでも蓮如が桁外れの大人物であったことがわかる。石山本願寺が現在の大阪城のどの辺りにあったかについては大阪歴史博物館の常設展に説明があったと思うが、難波宮跡の礎石を利用して上町台地の北端から西へ下る坂に建てられ、交通の要所であった。上町台地から西は埋め立て地で、南海トラフ大地震があれば全部水没する可能性が大だが、逆に言えば石山本願寺から西は見晴らしがよく、眼下には未開拓の湿地帯以外にほとんど何もなく、攻め込まれた時に籠城しやすかった。その点からも信長は石山本願寺の土地をほしがり、後に秀吉が大坂城を建てることになった。そう考えると現在の大阪城は蓮如あってのこと、もっと言えば親鸞がいたからこそとなるが、後醍醐天皇と足利尊氏の戦いの後に真宗の門徒と武士の戦いがあったことを思えば、天皇や宗教アレルギーを示す人がいることは理解出来る。筆者が設計コンサルタント会社に勤務していた時の上司の次長は定年後に日本の歴史について学び直し、改めて今に残る天皇崇拝を嫌悪するようになった。それは後醍醐天皇のことを詳しく知ってのことではなかったかと思う。しかし難波宮を造ったのも天皇で、日本の文化の基底に天皇がある。
●西国街道、その40_d0053294_13151187.jpg


by uuuzen | 2024-06-13 23:59 | ●新・嵐山だより
●西国街道、その39 >> << ●西国街道、その41

 最新投稿を表示する
 本ブログを検索する
 旧きについ言ったー
 時々ドキドキよき予告

S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31
以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
言ったでしょう?母親の面..
by インカの道 at 16:43
最新のトラックバック
ファン
ブログトップ
 
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  ? Copyright 2025 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.
  👽💬💌?🏼🌞💞🌜ーーーーー💩😍😡🤣🤪😱🤮 💔??🌋🏳🆘😈 👻🕷👴?💉🛌💐 🕵🔪🔫🔥📿🙏?