「
佐賀遠し 京の嵯峨から 西国の 街道百里 さらに西へと」、「目的は 飽きずに生きる ことと知る 老いて広がる 気ままわがまま」、「そのうちに 起き上がれぬと 知りつつも 達磨転がし こうでありたし」、「隠居とは よくぞ言ったと 恥を知り 世間の隅で 目立たず座る」

4月28日に歩いた西国街道については今日が最終回だが、明日は補遺的に箕面萱野駅周辺について書く。さて、西国街道歩きについてはネットに多くの人が書いている。それらに比べると筆者はあまりに遅々とした断続的過ぎる歩行とその報告に過ぎず、西国街道を歩いてみたい人には全く無益だが、西国街道沿いの史跡をもっぱら紹介する教育的な考えを持っておらず、誰かのためになるようにとも思っていない。そのことを示すのが街道沿いで見かける「飛び出しボーヤ」についての投稿だ。また今回は目にしなかった蘇鉄の写真を撮ることでもあって、そのふたつは西国街道とは無関係だが、こじつけしてそれなりに西国街道と関連づけている。「飛び出しボーヤ」も蘇鉄も社寺や史跡に比べるとごく一時的な存在だ。それにグーグルのストリート・ヴューによって全部とは言わないが記録されるので、ブログで紹介するまでもないと言えそうだが、筆者も同様のかりそめの存在であって、気まぐれに一度だけ歩いて目にすることをブログに書くことはたまたまの最たるものだが、それを自覚しての行動であり、結局のところ実際に歩いて何を感じたかが一番大事であることを思う。またそういうことは西国街道を歩かなくても毎日誰しも経験しているが、たまには初めて歩く道ということのみを目的とするのはいいもので、大金を使って外国旅行する必要を筆者はあまり感じない。今いるところが世界の中心でしかも涯てであり、達磨が壁に向かって何年も座禅したことにはそれと同じ思いがあったのではないかとよく考える。話がややこしいようだが、要はこれを書く筆者は偶然であり必然を感じていて、他者がこれを読むこともそうであって、その出会いは刹那に過ぎないが永遠でもあると言いたいのだ。しかしこれを書いている筆者は今ここにいるが、書き終わると別のところにいて、全存在は常に居場所を変え、微粒子としての生命の意思は虚空を移動しながら出会いが稀に起こる。その出会いは幸運といちおう言ってもいい。虚無主義を唱えたところで、絶対的虚無はあり得ず、必ず誰かと結びついて恩や害をこうむっている。壁に向かい続けた達磨は食事を摂り、寒さを防ぐ衣装もなければならず、ならばそれらの食材や布を用意した人たちがいたのであって、何事を成し遂げる人の陰には無数の体と手の動かしがある。そう思っての西国街道歩きだが、もちろん筆者は偉くも何ともなく、達磨のような悟りもない。興味があるのは自分が何に興味を持つかで、その意味で筆者に悟りはない。以上は即興で書いた。今日は画像が4枚あるので最低3段落書かねばならないからだ。

最初の地図はh
「その35」に書いたように当日歩いた道筋の西3分の1で、西国街道は国道171号線により接近し、箕面萱野駅近くでは重なっている。171号線は一般には西国街道とも呼ばれるそうだが、171号線と重なる地域があるのは筆者がこれまで歩いた西国街道では今日の地図のK地点辺りの200メートルほどが初めてではないないかと思う。家内の実家が高槻にあって、八丁畷の交差点をよく知っているが、K地点は同じ雰囲気がある。国道沿いはどこもそうだろう。全国にチェーン展開する大型店舗が目立ち、また田畑や古い家も点在して簡単に言えば殺風景の代表だ。地図を除いた今日の最初の写真は地図のI地点で撮った。この辺りから西は市販される「飛び出しボーヤ」や写真左端に見える「飛び出しボーヤ」に代わる車の減速を促す看板はあっても、小学校区の親たちが率先して手作りした看板はない。それは小学校からかなり離れていることもあって児童がほとんどいないためかとも思うが、家庭は国道沿いであっても存在し、児童はどの地域にも万遍なくいるはずだ。そのため、最初の写真の「スピード落とせ」の看板が児童を描かないことが不思議だが、差別というのではなく、やはり何となく児童がたくさん住む地域から離れているからではないか。I地点から西の西国街道は大きな家はもちろんあるが、国道がすぐ近くでもあるため、半田舎ののんびりとした風情が欠け、工場や会社がある地帯に特有な雑然として空気が漂い、あまり楽しくない。箕面萱野駅は40年ほど前から駅がいずれ出来ると言われて不動産業者が宣伝をしたというが、40年前のK地点辺りはほとんど何もなかったのではないだろうか。新駅が出来たのでこれから住宅が増えると予想するが、一戸建てよりも大型マンションが多いかもしれない。箕面在住の金持ちはおそらく171号線よりかなり北の山手に多く住んでいるだろう。そのことは西宮や芦屋、神戸からもわかる。箕面市はそれに倣っているはずだ。となれば西国街道沿いは古くからの農民か新参者が主体であろう。2枚目の写真はJ地点で撮った。その理由は前方50メートルほどに中年男女がこっちに向かって歩いて来ることを認めたからだ。当日西国街道で会った唯一の歩行者で、その珍しさから撮っておくことにした。間近であれば「勝手に撮影するな」と言われそうな雰囲気を感じたふたりであったので、相手に撮影がわからない距離を確認した。やがてふたりと擦れ違うと、予想どおりにパチンコか居酒屋帰りのようなカップルであった。写真の奥の頭上に見えている交差点を示す青い看板から、箕面萱野駅が近いことがわかった。3枚目の写真は地図のK地点で撮った。高架の線路に電車がたまたま駅にゆっくりと向かっていた。ここまで来れば西国街道歩きは終わりで、後は駅周辺を見物して、1日乗車券を使って帰途に就く。

西国街道歩きの写真は1枚も没にせずに全部使っているが、「その35」に書いたように今回歩いた道の最初の3分の1で撮った写真は全部の半数であった。ということはモノレールの豊川駅に近いほど魅力ある道筋と一応は言える。また箕面萱野駅が豊川駅と同じほど古くなれば、前者に近い西国街道も雰囲気が豊川駅付近に近くなるかと言えば、それはない気がする。その理由は先に書いたように西国街道と国道が接近し、やがて一致するからで、筆者が西国街道に求めるのんびりとした昔の風情は国道の騒々しさによって台無しになっている。言い換えれば国道沿いは人の住むところではなく、歩きたいとは思わない。筆者は6,7年前からスーパーへの買い物は嵯峨に行くようになった。それまでは松尾橋をわたって梅津に長年通っていた。それは車の往来の激しい四条通りを歩くことが強いられることで、そのことに嫌気が差して来た。嵯峨のスーパーは三条通りか丸太町通りにあるが、前者は道幅が狭くて車は速度を上げない。後者は四条通りと同じほど道幅が広いが車の往来は10分の1ほどだろう。車に乗らない筆者は大通りを避けて歩きたいのだ。そのことは筆者の深い意識や人生と関係があるはずだ。大通りを車でびゅんびゅん運転するのを好む人はおそらく多くの人に好かれ、有名人になる夢を見がちではないか。筆者はもっぱら裏通りを歩き、見知らぬ人と擦れ違うことも好まない。子どもの頃から引っ込み思案な性格とよく言われた。それは大人になっても変わらない。西国街道歩きをすることは歴史好きと思われそうだが、筆者は全くそうではない。気になることは常に湧いて来て、それについての本をよく買うが、筆者の関心事や知識はみなどこかでつながってはいるものの、あまりに断片的で充分に育っていない。世間ではそれを雑学と呼ぶが、雑学を自認する人ほどに知識は多彩ではない。そういう自分をよく認識しながら、時になぜ自分はこのことに興味があるのかと自問する。「飛び出しボーヤ」や蘇鉄を見かけるたびに写真に撮るのはブログに投稿するためだが、なぜそうしたものに興味を抱くかの理由はこれまで書いて来てはいるものの、もっと深い理由を突き詰めてはいない。それは人がミニカーの収集をするのに似て単なる収集癖と言ってもよいが、それだけではない。収集する根本の精神は何か。たくさん収集すれば何かに気づくことはある。今回の西国街道歩きでは箕面特有の「飛び出しボーヤ」をたくさん見かけたが、蘇鉄は街道沿いにはひとつもなかった。そうしたほとんど誰も注目しないことから何かが見えると思うが、見えたところでどうでもいいことで、自己満足でしかない。筆者にとって面白い他者はきわめて珍しい。ほとんどいないと言ってもよいが、興味を引く何かはある。その何かから人を見ている。これは作られたものから人の精神を知ろうとすることで、存命の作者に面白い人はいない。

