「
デジャヴ感 あれば疑う 認知症 この道いつか 来た気を消すや」、「どの道も よき思い出と ふと気づく わが部屋で飲む 茶の香り」、「脈絡のなき 出来事綴り 意味探る わが関心を 貫くものの」、「小説を フェイクと知りつ 感心し 贋情報を 謗るは不思議」

先月28日に大阪モノレールの豊川駅から、開通したばかりの北大阪急行の箕面萱野駅までの西国街道を西へと歩いた。その様子を断続して投稿しているが、今日はその半ばだ。歩いた距離は3キロほどで、途中で休憩はせず、1時間は要さなかった。箕面萱野駅が存在しなければもっと西の阪急宝塚線の石橋駅まで歩かねばならず、距離は3倍にはなった。筆者ひとりであれば歩く気になるが、終始不平を言う家内と一緒では無理だ。それに、それほどの長い距離になれば撮影すべき場所が増え、筆者のカメラの記録媒体では無理だ。西国街道歩きはいつも家内にはそののことを言わず、展覧会を見た後に足を延ばす。家内は西国街道がどこをどう続いているかの知識がなく、地図も持たないので、騙された気分になることに加えて、どれほど見知らぬ地域を歩かされるのかさっぱりわからない。それに必ずと言ってよいほど筆者は道に迷うから、不安に不満が重なって文句を言いたくなる気持ちは当然だ。今回の歩きは、家内が「風風の湯」の玄関を入ってすぐ左手に常に置かれている阪急電車の情報誌「TOKK」を毎月必ず1部を持ち帰ることで大阪モノレールと北大阪急行、それに阪急が協力した1日乗車券が1200円で期間限定で発売されることを予め知り、それで筆者は密かに計画した。つまり家内がその記念乗車券の発売を知らなければ西国街道の箕面を歩くことを先延ばししたかもしれず、家内は知らない間に西国街道歩きの計画に協力したことになる。それにしても開通仕立ての箕面萱野駅を利用するのは気持ちがよく、野次馬根性が旺盛であればその駅だけを経験するために出かけるだろう。筆者はそうした鉄道マニアではない。それに「ついで主義」すなわち「合理主義」つまり「ケチ」であるから、国立民族学博物館での企画展を見るついでに西国街道歩きを計画した。計画というほどのおおげさなものではないが、他者が関わらない限りは思ったとおりに事を運ぶのが筆者の信条であるから、結果を言えば今回もそのようになり、そしてこうして撮って来た写真を元に思いを書くことが出来る。他者が関係すればたいていは思いどおりにならない。厳密に言えば家内は他者だが、筆者は思うように動かしているので、家内の思いは無視する。しかしそれなりのサービスは考えている。見知らぬ街を歩くことは不安も疲れもあるが、遠足気分の思い出となって後日には嫌な記憶は消える。と、そう家内の思いを推し量る。それに今回は終着が箕面萱野駅であることを告げていたので、新駅とその周辺を見る楽しみがあった。また道筋は一直線に近く、道に迷う心配はなかった。

さて、豊川駅から箕面萱野駅までの西国街道を三分し、今日はその中間の路程を青線で記した地図まず載せる。
「その35」以上に赤いアルファベットをたくさん記した。その半分は「飛び出しボーヤ」の撮影地点で、その写真は明日の投稿で紹介する。今日の最初の写真は地図には記していない。「その35」のCと今日のDとの間のどこかで、大きな家が並んでいる。落ち着いた街並みで、車も人影もなく、よそ者の筆者らを訝る顔に遭遇しなかったのがよい。昼間に地元の歩行者の姿を見かけないのはわが地元でも同じと言ってよい。平日であれば子どもは学校、大人は会社にいて、出歩く人が少ないのはあたりまえだろうが、筆者らが歩いたのは日曜日だ。子どもが外で遊ぶなりして声が聞こえるのが普通と思うが、もっぱら大きな家が立ち並ぶでは家の中で騒いでも声は洩れて来ないか。今日の地図からわかるように、北を同じように東西に走る国道171号線は近いところでは西国街道から50メートルほどで、並ぶ家の間から国道を走る車がちらちら覗いていた。車社会であって、子どもは親と一緒に車で一直線に目的地に行き、家の前で立ち話をするといった昭和の風景は特に高級住宅地と言われる箕面では見かけられないのだろう。高級住宅地とは言えないでわが地元でもそれは同じで、道を歩いているのは観光客ばかりだ。しかも繁華街と同じほど多い。箕面には山手に有名な紅葉で有名な滝があり、おそらく箕面人は嵐山に無関心と思うが、繁華街には憧れがあるかもしれない。箕面にはそれがないか、あってもごく小規模で、梅田の繁華街の空気を吸うには全く便利な北大阪急行の新駅が出来たので、箕面の山手はますます人気の住宅地となるのではないか。今日の写真について説明しよう。2枚目は地図のG地点で、西に向かって右手すなわち北側に新しい鳥居がいきなり現われて驚いた。扁額が真っ黒で文字が読めないが、グーグルのストリート・ヴューでは「勝尾寺」の文字が確認出来る。寺であるのに鳥居の存在は神仏習合の時代では不思議ではなく、大昔から西国街道沿いのこの場所に鳥居があったのだろう。写真を撮りながら奥を見ると寺社らしき建物が見えない。勝尾寺は山手にあって、この写真の位置から北に4キロほどだ。昔の人はそれをさほど遠方と思わずに歩いた。もちろん今でもそういう人はいるが、寺の近くまで車で一足飛びが現実ではないか。勝尾寺はその名前から昔から勝負に賭ける人の参拝を集めたとされ、筆者がその寺の名前を確実に記憶したのは家内の長兄の言葉による。10年ほど前、家内の兄弟姉妹と一緒に箕面の山手のホテルに二度宿泊したことがあり、阪急箕面駅から送迎バスでホテルに向かう間、長兄は運転手にこう言った。「この道の少し東に勝尾寺がありますな」長兄は大学相撲で全国優勝したことがあり、おそらく勝尾寺にも行ったことがあるのだろう。

西国街道沿いにこの大きな鳥居があることは、大昔から勝尾寺に参拝に行く人たちがこの街道から北上したことを紛れなく説明し、筆者が歩いた時とは違って街道はもっと人の姿が目立ったであろう。その様子を想像すると、家内と歩きながら1,2台の車以外は誰とも擦れ違わなかったことはさびしい。人口も家も増えたはずなのに人は歩かずに車を利用し、また信仰も薄れて勝尾寺を訪れる人は昔より減ったのではないか。あるいは歩いて訪れないだけで、団体客がバスで参道を寺まで向かっているか。今後も勝尾寺を訪れることはないと思うが、天気のいい日にこの鳥居をくぐってひたすら北進してもいいかもしれない。箕面萱野駅からでは往復10キロほどで、高齢者には無理か。さて、鳥居を過ぎると西国街道らしい狭い道となり、両脇に家が立ち並んで視界が閉ざされる地域がしばらく続き、やがて大きな四辻に差し掛かった。豊川駅から西進して二つ目の交差点と言ってよい。右折すると50メートルで171号線に出る。この付近から西方はさらに西国街道と171号線の距離は狭まる。3枚目の写真は地図のH地点だ。左側に石垣と言うより、岩垣がしばらく続く。水が落ち続けている場所があり、また洞穴で音が鳴るような響きがしばし聞こえ、異様な雰囲気があった。「箕面ペット霊園」の文字も目に入ったが、20メートルほど後方を歩く家内が大声で叫んだ。「横は大きな墓場やんか! こんなとこ歩くのは嫌や!」岩垣の高さは3メートルほどあって、霊園は土盛りして造られたのだろうか。地図には「箕面公園墓地」とあって、グーグル・マップの航空写真を見ればびっしりと墓が並んでいる様子がよくわかる。周囲を樹木で囲い、また周辺の宅地からは3メートルほど高い土地で、区画整理されているので比較的新しいものではないか。元が丘であれば、西国街道に接する北辺は切り通ししたことになるが、それはないはずで、やはり平たい土地に土盛りしたのだろう。あるいは昔は丘が小さく、西国街道に接するまで墓地を拡張する必要が生じたので、北辺は岩垣、その他は石垣を築いたのかもしれない。ともかく、西国街道に接して巨大な岩を250メートルほどの長さに積み上げた様子は凄みがあり、筆者は初めて見た。写真の右手に大きな工場らしき殺風景な建物がある。これは有名なスーパーの背面だ。前方に陸橋が見えるのは171号線から公園墓地に入る専用道路だ。ストリート・ヴューで確認すると、171号線からは墓地の出入口は見えるものの、墓石は全く見えない構造になっている。人々の視界から墓を見えなくすることは、死を間近に意識したくない思いからはわからなくもない。しかし数年前に京阪の大和田駅から東方に見かけた生活道路沿いのかなり細長い塀のない墓地に比べれば、住民の金持ち意識の反映を見るようで感心しない。

