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●西国街道、その36
心が 揺らぐ震度の 7に耐え ここは絶対 意思を貫き」、「古き道 たどれば古き ことを知り 新たな興味 気を若くさせ」、「往来の 人を眺めつ オーライと ためつすがめつ 目立つ子吟味」、「街道の そばに線路と 大道路 情報溢れ 過去に学ばず」
●西国街道、その36_d0053294_01253624.jpg
昨日の続きを書く。今日は使用する写真からして「神社の造形」のカテゴリーに投稿すべきだが、神社以外のことにも触れる。昨日の3枚目の写真の坂を上り切ると右手すなわち北側に神社の境内がある。春日神社の御旅所で鳥居も敷石も玉垣もみな新調仕立てのようで、樹木は大幅に枝が刈られていて明るい境内だ。これは空き地に新たに造った御旅所かと一瞬思った。そういうことはないとは限らない。というのは京都三条通りの西大路と千本の中間辺りの天神通り角に北野天満宮のずいき祭の御旅所があって、そこも同じように玉垣や鳥居が新しく、古風な雰囲気は全くないからだ。しかし神社が古風というのがいいのかどうかとなると意見が分かれるだろう。前述のずいき祭の御旅所、正しくは「駐輦所」が新しくなる前はどうであったか、また同じ場所に昔から同じ規模で境内があったのかどうかについては知らないが、古びることは汚れることと重なるところがあって、神社は常に真新しいことが理想のようなところがある。朱塗りがやや色褪せ、部分的に塗装がはげている風情を筆者はそれなりに好むが、やはりぴかぴかに新しいほうがよい。そう思う人が多かったので、前述の「駐輦所」が新しく建て直されたのではないかと想像する。また、古びることは劣化でもあって、木製であればそれを免れ得ず、見るに堪えないか、倒壊の危険性が露わになれば建て替える必要がある。西国街道沿いのこの春日神社御旅所もそのような理由ですべて一新されたのだろう。そうであるとして、その費用を誰が負担するかとなれば箕面市のことであるので経済的に裕福な人たちが資金を出したのではないか。今日の最初の写真の左端に駒札が写っているが、それを読まず、また今もネットで調べていないので何が書かれているかはわからない。2枚目の写真は境内に少し入って撮った。社の前の一対の石燈籠の前にある石の台が目を引く。これは神輿を載せるものとのことで、その神輿は普段は春日神社に保管されているのだろう。そう思ってグーグルのストリート・ヴューで確認すると、この御旅所から南西500メートルに春日神社はあって、新しい住宅に囲まれた高さ3メートルほどの台地に樹木に囲まれた境内がある。境内の北中央の石段を上ったところに鳥居があるが、石垣や玉垣、ずらりと並ぶ石燈籠はこの御旅所と同じく建って間もないようで、神社と御旅所をほぼ同時に改修したのだろう。春日神社は京都の西院にもあってそこもなかなか立派な境内で、奈良の春日大社から物理的距離が大きくなるほどに春日神社がどのように規模が小さくなるのかは興味深い疑問だ。
●西国街道、その36_d0053294_01255317.jpg
 この御旅所を過ぎてすぐ右側に地蔵を祀る祠のような建物があった。賽銭箱に白い卍の字が目立つので地蔵の祠かと思ったが、地図には「楠水龍王」とある。「楠水」とは何かと思って調べると、かつて井戸があって、楠木正成が湊川の戦いに京都から赴く際に立ち寄ってその水を飲んだという言い伝えがある。祠の背後に古い家柄を感じさせる民家があり、そこが祠の世話をしているのではないだろうか。「楠水」は「なんすい」と読まずに「くすすい」と読むようで、これは「水を掬って吸う」を連想させて覚えやすい。楠木正成ゆかりの地はすでに歩いた高槻の三島郡の桜井にもある。正成が息子と最期の別れをした土地とされ、対座する親子の銅像がある。つまり、700年ほど前、正成は京都から高槻まで息子を連れて兵庫に兵を率いて西国街道をたどり、箕面の祠の際で一休みして水を飲んだ。楠水龍王の祠の存在を知って正成がこの道を行軍したことを改めて実感する。西国街道に因む人物として最初に想起されるのが楠木正成と思うが、筆者までの世代だけかもしれない。中学2年生の時に東京に修学旅行に行き、皇居で楠木正成の騎馬の銅像の写真を撮った。同じ銅像は数年前に訪れた湊川神社にもあるが、関西だけかどうか、楠木正成は人気が高く、時代祭では右京区がその上洛の列を担当している。話を戻して、祠の前の石燈籠には金毘羅大権現の文字が刻まれる。そのことから箕面が奈良京都と四国の間に位置し、人の往来が多かったことを想像してもみる。また祠の前に道標の石碑もあって、「左ふしみ道」と彫られている。左はこの場合は東で、筆者が歩いて来た方向だが、「ふしみ」とあるのが面白い。これは箕面から見て京の玄関が伏見であったことを意味する。西国街道は山崎から向日市、そして久世から九条へとたどって京都につながっているが、江戸時代の人々は山崎から淀、そして伏見に入ったようだ。地図を見るとそのほうが京都に至るには近い。山崎と伏見は桂川を挟むが、船の運航が盛んで、橋がなくても容易に双方の土地が行き来した。そのことは昔山崎在住の伏見人形の研究家から聞いたことがある。現在は山崎は阪急電車、伏見は京阪電車が走り、分断されている雰囲気があるが、戦前はそうでもなく、双方の地から互いに嫁いだそうだ。となれば、淀や伏見と箕面はとても近かったと言ってよい。電車を利用すればわざわざ大阪まで出て遠回りする必要があるが、歩けば日帰り出来る距離であった。また箕面は伊丹と隣り合い、西国街道は酒の流通路でもあったのだろう。そのことを暗に示すのが「楠水龍王」だ。その井戸水がおいしかったとされるのは、伏見や六甲山系の水が酒に利用されて来たことを思えば当然と言える。もちろん山崎もそうで、それでウィスキーの蒸留所が造られるようになった。サントリーのその工場の前の道も西国街道で、数年前に歩いた。
●西国街道、その36_d0053294_01261349.jpg


by uuuzen | 2024-05-04 23:59 | ●新・嵐山だより
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