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●西国街道、その35
も末と 嘆く余も末 息が切れ はしゃぐ子ら見て こらの声出ぬ」、「知らぬ土地 毎夜の夢で さまよいて 旅行せぬと 決め込むもよし」、「古き道 著名な人の 歩きしの ゆかり偲んで 菫を見つけ」、「地図を手に 街道歩き 面白き 新たに出会う 興味多かれ」
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4月28日は茨木の国立民族学博物館で展覧会を見た後、西国街道歩きをした。京都から神戸までの西国街道の半分ほどは歩いた気がするが、実際のところはわからない。歩いていない道筋を最近全部印刷し、それを一度の西国街道歩きの2時間ほどで歩ける距離の数キロに区切った地図数枚をホッチキスで留めたものが7,8回分はある。年に2回歩くとして、まだ4年はかかる。一方、歩いた後はブログに投稿するために地図画面に道筋を記す作業をまず行ない、それから撮った写真の加工をするが、そうした準備をしながら悩むことがある。それは高槻や茨木市内の西国街道に「飛び出しボーヤ」の看板が多く、後者の写真には西国街道も写っているのに「飛び出しボーヤ」の題名でこれまで投稿して来ているので、西国街道としての投稿では写真が少なくなることだ。同じ写真をそれぞれの題名の投稿で使えば済む話だが、そこまで「飛び出しボーヤ」を特別視する気はない。西国街道沿いのその看板はその街の事情を反映していて、西国街道と比較すれば「飛び出しボーヤ」は重要度は劣る。そのことを示すのが、西国街道沿いのその看板を撮る時は西国街道の際におまけのように存在していることを示していることだ。となれば「飛び出しボーヤ」の題名で投稿せずに、全部西国街道とすればいいようなものだが、そうなると「飛び出しボーヤ」の存在が見えにくくなる。そこで前回の西国街道歩きの投稿でも行なったように、西国街道の投稿とセットで西国街道で見た「飛び出しボーヤ」の写真を紹介することで、今回もそのようにするが、当然写真は撮った順には載せられない。それは西国街道に「飛び出しボーヤ」の看板がある街に限ることで、その看板がない西国街道もある。ただしそれは西国街道近くに小学校がないという理由の場合もあるから、西国街道に「飛び出しボーヤ」がないのでその街が児童に優しくないとは限らない。また目立たねば意味のない「飛び出しボーヤ」は街の景観に影響を及ぼし、地元住民が好まない場合も考えられ、そのことから街の気質もある程度はうかがえるかもしれず、「飛び出しボーヤ」を道路との関係は住民やPTAの性格を考える手立てになるだろう。今回歩いた西国街道は最初はわずかに茨木市だが、その後すなわち西は箕面市が続き、「飛び出しボーヤ」の看板が点在することからは、箕面市は茨木市や高槻市と似ていると考えてよいかもしれない。しかし3市では箕面市が最も高級との印象が共有されていると思う。関西の著名なお笑い芸能人も箕面に豪邸をかまえていることがよく知られ、それは高槻や茨木ではあり得ないイメージと言える。
●西国街道、その35_d0053294_20263835.jpg
 今回歩いた西国街道は前回以上に国道171号線に近く、車の免許を持たない筆者は昔から家内が実家のある高槻の八丁畷の交差点付近を歩くたびに同国道の話をよくすることに意識を払わなかった。去年西国街道を歩いた際、家内が同国道が茨木の北部を横切って箕面に達していると言うことを初めて聞いたような気になったが、その時になぜ箕面の話が出たかと言えば、家内の姪のひとりが結婚、再婚を通じて箕面に住み続けているからで、転居しながら箕面にこだわるのはその姪がキャビン・アテンダントの仕事をしていて、いわば住所にこだわらなければ具合の悪い仕事柄であるからだろうが、箕面も全地域が高級自宅街ということはないはずだ。ついでに書いておくと、家内の中学時代からの友人は結婚してすぐに芦屋に住んだ。それは夫の希望であった。JR芦屋駅にほど近いアパートで、芦屋のイメージから遠い建物であったが、名刺に芦屋と記すことで営業上は便利であったのだ。そういう見栄は受け継がれるのかもしれない。その友人夫婦の長男は早熟で高校生の時に同世代の女性を家に呼び、一緒に一夜を明かしたところを親が布団を踏んだ拍子にその女性の足につまづいたが、女性は悪びれもせずに親が驚いたという。10代半ばで自宅で性交することを親が黙認することは珍しくないとして、筆者も家内も信じられなかった。わが息子にせめてその同世代の旧友の息子の女性をものにする度胸が百分の一でもあればと思ったものだが、ないものは死ぬまでなく、一生童貞で終わる。それはさておき、旧友の息子が成人して会社勤めをするようになった時、金持ち夫人が集まる茶道の会に伝手を頼って入ったということを聞いて、名刺に芦屋の住所を刷ることを望んだ父親の影響を見た気がした。要はどのようにして人を感心させ、経済的成功を得るかで、それには高級な街に住み、高級と思われている人物に近づくことだ。そうして金持ち連中の間には虚飾の交際が常態化する。以前にも書いたが、20年ほど前、神戸のあるマダムに呼ばれて芦屋に出かけたことがある。ある人物を紹介したいというのだ。その人物は芦屋住まいで、70代後半でとても恰幅がよく、よい仕立てのジャケットを着て、どこからみても良家の出であった。筆字の名前を堂々と印刷したその人の名刺を今でも持っているが、何百枚かの1枚として埋もれている。20分ほど談笑し、援助のようなことをいつでもする用意があるといったことを言われたのに、一度も連絡しなかった。パトロンになってくれたかもしれないが、芸術を理解するタイプではなさそうで、ただ若い人と会いたかったのだろう。前述の家内の旧友の夫やその息子なら喜んですぐに連絡したはずだが、それくらいの身軽さでなければ金は手に入らない。しかし金持ちとの人脈を築き、同じ人種になることが人間の本道であろうか。
●西国街道、その35_d0053294_20270311.jpg
 西国街道歩きは自動車でなら1日で京都から神戸まで短時間でたどれるが、徒歩と電車に頼る筆者は西国街道が最寄り駅からあまりに離れていると家内と一緒に歩くことを躊躇する。それは茨木市内の西国街道歩きでは顕著であった。阪急やJRの茨木駅から西国街道は北に数キロ離れている。ところが富士正晴の生家が西国街道のさらに北にあって、その周辺を一度は見ておきたかったので、どちらがついでかわからないが、西国街道歩きと富士の生家周辺を歩くことを同時に実行出来た。また茨木市図書館に移設された富士の書斎もようやく見ることがかない、茨木市内の西国街道歩きはよい思い出になった。それを終えた頃、あるいは西国街道を歩くことを決めた頃からと言ってもいいが、茨木から西の西国街道歩きはさらに厄介である気がしていた。最寄り駅がそれなりにあるにはあるが、予定したコースを歩き終わる地点にそれがないからだ。となれば2,3キロではなく、その倍か3倍は歩いて鉄道の駅に着く必要がある。そうなれば展覧会を見た後のついでではこなせず、西国街道歩きのみで朝から出かける必要がある。それはしたくない。一度に歩くのは4キロ程度、1、2時間が最適で、それ以上となると日暮れの早い秋なら真っ暗になる。道に迷うこともあるうえ、西国街道のみ歩く時間では済まないからだ。それが理由でもないが、箕面市については後回しにしようと思っていた。ところが2月のTVニュースなどで意外なことを知った。大阪メトロの御堂筋線は千里中央駅から北は北大阪急行という別会社が運営しているが、40年ほど前から計画されていた延伸が先月23日についに実現し、新たに駅がふたつ出来た。その北側すなわち箕面萱野駅が西国街道のすぐ近くにあり、それを利用すれば茨木市内の場合のように西国街道から離れてたくさん歩く必要が全くない。しかも延伸記念として阪急と北大阪急行、それにモノレールが提携した1日乗車券が1200円で販売された。阪急は京都線と千里線、宝塚線のみ利用可能で、北大阪急行は箕面萱野駅から千里中央までだが、西国街道歩きにはそれで充分だ。モノレールにも乗れるので民族学博物館のある万博公園にもバスを使わずに行くことが出来る。西国街道歩きには降って湧いた幸運で、記念の1日乗車券が販売されている間にさらに西国街道歩きをするつもりでいる。さて、今回は「みんぱく」で展覧会を見た後、訝る家内を騙しながらモノレールで豊川駅まで行った。そこから東方向の西国街道歩きは去年11月下旬に実行し、「その32」から「その34」として3回投稿した。今回は同じ駅で降りて西を目指し、終着は箕面萱野駅で、ほぼ直線の2.5キロほどだ。その程度なら家内が文句を言い出す頃には着く。歩いた道筋の地図をいつものように用意したが、撮った写真と見比べると、半数の写真を全体の最初の3分の1ほどで撮っている。
●西国街道、その35_d0053294_20272970.jpg
 全道筋で万遍なく撮影したのであれば全ルートを青線で記した地図を1枚だけ掲げればいいが、今回は最初の3分の1とそこから西の3分の2という2枚の地図に分ける。当初は全ルートを3分割するつもりでいたが、それでは載せる写真の枚数に多寡が出来過ぎる。これもどうでもいいことだが、デジカメの記録媒体は全部で100枚は撮れず、しかもその媒体に長らく保存している写真があって、西国街道歩きの際には多くても40枚ほどしか撮影出来ない。それでフィルム・カメラのように吟味を心掛けているが、歩き始めはうきうきしているので割合よくシャッターを押し、終着地に近づくにつれて残り枚数が気になるので撮影枚数が少なくなる。グーグルのストリート・ヴューを見ればこうした投稿とは比べものにならない多くの情報が得られるが、筆者が実際に歩いて何に目を留めて何を思ったかが大切だ。それは地図やストリート・ヴューの画面では絶対に得られない。ネット時代になって文章よりも写真や映像の力が増したと言えるが、見れば満足かと言えばそうではない。人間は視力だけではないからだ。ところが今は視力が万能に思われている。筆者は西国街道を地図を片手に歩くが、それでも道を間違うことがあって、地図は現実の歩きとは全然違う。実際に歩くことは天気や路面の状態、周囲の建物、擦れ違う人や車など、地図にはない経験を多くする。それは普段はあまり歩かない地元の道でも同様と言える部分はあるが、全く初めて歩く道の場合は特に印象深い。ただ歩くという目的であるから、無駄話と同じようなものだが、無駄話と思えるものにも味わいはあり、時に得難い印象ももたらす。それは睡眠中の夢でも言える。筆者は特に見知らぬ道を歩いて目的地に着かない夢を毎夜のように見るが、到着場所を予め決めている西国街道歩きでは次に何が眼前に現われかわからない期待と不安の混じった気分は心地よく、終着に近づくにつれて達成の喜びがあるのに対して、夢では問答無用に場面が変化し続け、制御不能にただただおののき続ける。また西国街道は筆者が写真で紹介するまでもなく、実在し、誰でも歩けばそれなりに見て感じることがあって筆者の感想を一部でも共有出来るが、夢に見たことは個人の中にのみ存在し、その夢の映像や出来事を絵や文章で表現することは他人を限りなく騙すことにほかならない。他者が「あんたのその夢の映像はどうも嘘っぽい」と意見しても、その証拠を突きつけられないからだ。幻想絵画と呼ばれるもののつまらなさはそこにある。話を戻して、西国街道は歩く人によって感じ方が違うが、そうなると現前の街は夢と同じようなものという理屈が生じる。誰が見ても街道沿いの同じ建物、同じ道の坂、曲がり具合であるのに、感じ方が違うのは芸術作品と同じで、夢の映像を持ち出して煙に巻くような表現をする必要はない。
●西国街道、その35_d0053294_20275129.jpg
 今日の画像の説明をしておく。最初の地図はAがモノレールの豊川駅だ。2枚目の写真はそこを降りてすぐ西の西国街道から東を向いて撮った。3枚目は歩き始めて間もない頃で、右手前方にビニール傘が一本道路際にあって、よほどそれを拾おうかと一瞬思ったが、雨になりそうな気配はなく、見過ごした。なぜビニール傘を拾おうかと思ったかの理由を書くと、去年11月中旬、家内と大阪に出て461モンブランの演奏を福島の公園で聴いた後、北浜の適塾に行くまでの間、雨が強まり、コンビニで700円のビニール傘を一本買った。それをほとんど使わないままに小降りになり、天神橋筋商店街で買い物をした後、天六駅で阪急に乗ろうとした際、切符売り場で置き忘れた。電車に乗ってからそのことに気づいたが、700円はほとんど役に立たない結果になった。それでビニール傘が落ちていれば、またそれがきれいであれば拾おうかという気になった。さて、次とその次に撮った写真は明日の「飛び出しボーヤ」の投稿に使うとして、今日の4枚目は日本中どこにでもある生活道路沿いの眺めで、西国街道という古風な雰囲気は全くない。豊川駅から近いので地価は高いと思うが、高級住宅地というほどの建物ではなく、たぶん半世紀前は田畑が広がっていた地域だ。北大阪急行の新駅にしても40年前は不動産業者がいずれ鉄道の駅が出来ると宣伝して土地を売ったそうだが、予想に反して長年延伸工事は進まなかった。それがようやく先月実現したが、箕面萱野駅も豊川駅と似た高架で、半世紀前は付近にほとんど何もなかったと想像する。となれば箕面の高級住宅地がどこかという疑問が湧くが、前述したお笑い芸人の豪邸がどこにあるかまでは調べる気がない。5枚目は昭和時代の門がまえの大きな家で、最初の地図のAとBの間のどこかの南側にあった。木材を象った縁取りの門柱の上に「言わざる」と「聞かざる」のおそらく陶製の置物が固定してある。「見ざる」の像もあるのだろうが、門柱を3本建てることはない。またこの家の主は「見ざる」は否定し、その点が前述したネット時代の現在にかなっているようで暗示的だ。目撃しはするが、言わないし聞かない。となればこうして目撃したことを公言する筆者はその主の考えに反することになる。それはともかく、この門柱の上の猿の像からしてこの家の主はかなりの変わり者と言える。あるいは面白がりで、好感が持てる。自己主張の強さは感じられるが、たぶん何も置かない門柱ではつまらないので、適当に猿を置いたのだろう。つまり他愛ない遊びと見たいが、家相としては好ましくないと評されるだろう。では猿ではなく、別のものとなると何があるか。こうした門柱のてっぺんには球体の石を置くのが西洋では普通だが、それでは面白くない。狐なら稲荷神社のようになるし、狸なら地面に置く。猿なら置かざるを得ないか。

by uuuzen | 2024-05-02 23:59 | ●新・嵐山だより
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