「
逆撫でる つもりはなきに 意見して 皮肉言うなと ずぶりと刺され」、「出会いとは 若さ優先 自覚せよ 老いは黙って 座席温め」、「わが顔は 左右反転 鏡では まともに見るは 他人の目のみ」、「片隅を 中心として 息をして 中心にいて 片隅自覚」

メールのアドレスはもっぱらひとつのみ使っている。今はメールはLINEが主流のようだが、これがよくわからない。スマホを持たないからだろう。だがパソコンでもLINEが出来ることを知ってそれを取り込み、息子とのみごくたまにメールを交わしている。知らない人から、簡単に言えば主に詐欺目当てだが、LINEメールが届くらしいが、どのようにしてアドレスを知ったのか、そのこともさっぱりわからない。普通のメールでも知らない相手からメールが届くが、たいていは迷惑メールのフォルダーに分類される。それで開かないままにゴミ箱行きにするが、LINEメールは迷惑メールの検知機能が劣っているのかもしれない。筆者はメール・アドレスを公開しているので、コンタクトを取りたい人を頭から拒否していないが、筆者に関心を抱く人はごくごく稀で、未知の人からの連絡はほとんどない。また名前や住んでいる場所などを公表しているが、未知の人は筆者が相手の情報を何ら得られないままにメールを送って来るから、不気味、不安な思いが湧く。相手が若い女性らしい場合は嬉しいが、文章だけではどうにでも装えるので、男性かもしれないという警戒心は残しておく。まあそうしたメールも数年に一度あればそれはそれで日常のスパイスで楽しいと思うことにするが、未知の人物からの連絡はほぼ絶無だ。さびしいとは全く思わない。ネット社会は双方向を大きな特徴とするが、前時代的な人間の筆者は一方通行的にネットを使っている。これは発信はするが、その反応はどうでもよいとの考えだ。何事も発信は誰かに受信され、好反応の期待が前提にあることは理解する。しかし嫌悪を催す人がもっと多いことを想像しておくのがよい。TVはその代表的なものだ。こっちが好んでいないのに顔を見るのも嫌な人物が勝手に画面に連日溢れている。その押しつけがましさを根底に持つTVが今の若者に嫌われて来ている理由はなんとなくわかる。嫌なら画面を見なければよいが、TVは不意に画面に嫌な人物が顔を見せる。それはたとえばネット・ニュースで同じで、TVよりネットから情報を得ることがよいという意見には賛成しかねる。TVがネットに移っただけで、本質は同じだ。みんないかに顔を売って憧れの存在になり、気楽贅沢な暮らしをしたいと日夜考えていて、有名人とはしょせんその程度の軽薄な連中ばかりだ。そのように思っている筆者に未知の人から連絡がないのは当然で、筆者の発信は徒労の代表と言えそうだが、それを言えば人間の存在自体が無益と言う立場もある。筆者はまだそのようには思わないようにしているが、老化と厭世気分は相性がよさそうだ。
メールの話に戻すと、ツイッターにもその機能がある。それをダイレクト・メールと呼び、やはりごく稀に連絡して来る人がある。お互い顔を見せない関係は他のメールと同じで、ダイレクト・メールの利点が何かを考えたことはないが、ネットのあらゆるメールは手紙と違って即反応に特長がある。ゆえにメールを送って応答がなければ、相手の気分を害してゴミ箱行きにされたと思うのが普通だろう。しかしそうでない場合が当然ある。筆者は普通のメールは毎日確認するが、LINEは月に一度以下の頻度で開く。ツイッターはほぼ毎日ブログの投稿と連動してその題名とURLを投稿するが、使い方を知悉していないこともあって、投稿が済めば後のことにはほとんど無関心だ。「いいね」のハートマークがごく稀につき、誰がそうしたかを確認するが、未知の人物である場合、筆者の投稿がどこで間違って見られているのかと少々疑問に思いながらもすぐにそのことを忘れる。つまり他者の反応に無関心だ。そのためもあって、ダイレクト・メールが届いていても気づかないことがある。今日はそのことが本題だ。今日の写真は4年前の12月29日に投稿した
「嵐山中ノ島の鵜屋、その1」の最初に使った写真だ。その投稿を3年経って見た毎日放送の記者がダイレクト・メールを送って来たが、長らく気づかなかった。記者はその写真を記事に転用したかったのだ。メールは同じ文面で2022年の8月29日、31日、9月5日の3回送られて来た。筆者が気づいたのは翌年すなわち今年2月27日で、すぐに使っていただいてかまわない旨を返信した。しかし記者が使用したいと思っていた頃から半年ほど後で、使われないままになったはずだ。双方向の通信に利点のあるツイッターをいかに筆者が一方通行にしか関心がないことを示す出来事であった。ある人から聞いた話だが、普通の電子メール、LINEメール、ダイレクト・メールを用途に応じて使い分けていて、最も重要なものを普通のメールとしているという。これは発明された順序にしたがっていて、普通の電子メール以上に郵便の封書が位置している。自筆の手紙を受け取ることが最も親密度が高いことは当然だ。筆者は郵便全盛時代の人間で、紙の手触りや重みが全くない電子メールを軽いものと思っているが、郵便を利用しない世代でもそれは同じではないか。しかしスマホを手放さない者はそのあまりの軽さゆえに重宝しているであろうし、またそうなるとますます通信を交わす双方が軽くなるかと言えば、これは断言出来ないかもしれない。郵便時代でも見知らぬ人の文通は互いに肉体関係が目当てということはあったし、それがネット時代にもっと手軽になっただけの面はあるし、ネット上の交信が軽さから重みを持った関係に発展することはあり得るだろう。しかしそれはあまりに淡い期待に過ぎないと、これまでの経験から厭世的に思う。人間は会ってなんぼだ。