「
難ありと 言われて直す なんなりと はんなりとした 華ある人は」、「後戻り 示す矢印 見て合点 元の広場に 復す工事や」、「建てるより 潰すはやすし 子でも知る 今の家屋は 建てるも簡単」、「簡単に 生まれて死ぬと 思うなよ 産みの苦しみ 想像しろよ」

今日の写真は一昨日撮った。解体された鵜屋の瓦礫は全部運び出され、砕石砂利を運び入れて地均し作業をしている。今日の2枚目の写真は手前に迂回を示す矢印看板をあえて入れて撮った。矢印が左向きは座標で言えばマイナス、後退で、鵜屋が建つ以前の何もない広場に戻す作業と符合している様子が面白い。鵜屋とは全然関係ないが、この矢印の看板をそのまま大きく描いた知り合いの現代美術家がいる。実物は見ていないが、畳1枚ほどの大きさで矢印は右を向いていた。逆さにすれば左向きで、絵画と言われなければ矢印の看板と見分けがつかない。そういう現代美術は、市販される男子用小便器に題名とサインを書き込んで展示したマルセル・デュシャンから始まった。矢印だけを描いた絵画を芸術と称されるまでに昇華させるには、同様の絵を何百枚と描き続ければいいかもしれないが、画家はそのことに耐えられるだろうか。思いつきを実行することは決断が伴ない、矢印を畳1枚に拡大して描くいわばアホらしい行為をそれなりに面白いと思う人はいるかもしれない。そこには芸術を嘲笑する、よく言えば貴族的、平たく言えば甘えの態度が見え透く。もっと言えば『お前らにこの芸術がわかるか?』という「上から目線」だ。そういう手合いは相手にしないに限る。その矢印絵画に比べて今日の写真の本物の矢印看板は本来の役割を果たし、使用されて来た歴史すなわち汚れや傷を含めてそのままで現代美術作品として展示出来る。つまりわざわざこの看板を真似て描く必要はない。デュシャンが言いたかったことはそうだろう。しかし人間は目と手があって、描きたい本能を失わない。何もかもあらゆる方法で描かれてしまったと早合点する、思慮の浅い、根気のない画家はアイデア勝負とばかりに人を食ったアホらしい作品を描きたがるが、それは嵐山の鵜屋と同じく、使われぬままに破棄される定めにある。存在はしてもただそれだけというものは見方によればすべてと言えるが、存在しているだけで尊いと思えるものは確かにある。残念ながら嵐山に建った鵜屋はそのようにみなされなかった。それは用の役目をなさなかったからだ。鵜飼い小屋として使うには欠点があり、動物園の檻として機能させることも出来なかった。建物全体で現代芸術と謳えばまだよかったかもしれないが、そのコンセプトから建ったものではなく、現代芸術家の手で改造することも難しかった。もったいないことをしたが、工事を請け負った業者が潤ったからには完全な無駄とは言えないか。建ったまま使えない高層マンションが中国にはたくさんあるというから、鵜屋の規模ではかわいいものだ。

