「
せしめらる 土地を返せと 諍いを 永久に続けて 国境はあり」、「何事も 放置のままで 衰えり 使わぬよりも 使うほどよし」、「五や七を 指折り数え 短歌詠む いろはカルタの 自己流目指し」、「建てたまま 廃墟と化した ビル聳え 子どもの胸に 虚しさ焼き付き」

嵐山の鵜飼いはどれほど有名なのだろう。筆者は昔3,4回乗った。猛暑でも夜の川面はとても涼しく、一度は経験しておくとよい。嵐山の鵜飼いは嵐山通船が毎年ポスターを作っている。鵜飼い船は9月末までで、最大3隻と思うが、外国人観光客の急増によって乗船客も彼らの割合が多いのかどうか。渡月橋界隈の店は午後6時に閉まり、その1時間後に始まる鵜飼いを楽しむ客は嵐山に宿泊する場合が多いだろう。20年ほど前は大人は3500円ほどであったと思う。近年は4000円から5000円の間ではないか。川べりから無料で見られるので、それで済ます人はいるだろう。これを書きながら近藤浩一路の代表作とされる鵜飼いを描く水墨画巻を思い浮かべているが、別の記憶が蘇る。息子が1歳頃の40年ほど前のことだ。家内の母が真夏に高槻からやって来て、すっかり日が沈んでから中ノ島公園に散歩に出かけた。息子を家に寝かせておいたのか、あるいは乳母車に乗せていたかは記憶にない。渡月橋の上から上流を見ると鵜飼い船が篝火を焚いてゆっくりと動いていた。家内は母親を鵜飼い船に乗せようと言った。家内は財布を持っていたはずだが、大人3人では1万円ほどする。家内にその持ち合わせがあったのかどうか知らないが、筆者は中ノ島に散歩に出かけただけであるし、渡月橋の上から遠目に見るだけでいいのではないかと言った。家内は親孝行したかったのだ。嵐山はどの店も閉まっていて、娯楽は鵜飼いしかないからだ。家内と筆者が諍いを始める気配を察したのか、「大山さんの言うとおりやで、もう帰りましょ」と義母は筆者に気を使い、また娘を諭す口調も交えてつぶやいた。筆者の経験では鵜飼い船3隻はほぼ同時に出て途中から乗船出来ない。そのため、渡月橋の上から篝火を見た時はもう乗ることは出来ず、どうしても言うのであれば翌日にするしかなった。家内は筆者にそう言われると納得しただろうが、その時は母親をなぜ親切にしてくれないのかと不満であったろう。確かにそうだ。鵜飼い船が出る桟橋まで歩き、そこで乗れない事情を確認してもよかった。しかし筆者は高齢の義母をそこまで歩かせたくないとの思いがあった。それに渡月橋の中央辺りから上流の鵜飼い船を見ることは、当時は近藤浩一路を知らなかったが、彼の絵のように美しい。義母はその後わが家を訪れることなく70代後半で亡くなった。今日の写真は今日撮った。最初の写真は左端が渡月橋に至る中ノ島内の道で、奥の山が嵐山だ。写真中央の取り壊しされる鵜屋の囲いの奥に渡月橋があるが、昨日書いたように完全に視界を遮っている。2枚目は下流を向いている。

