「
写すなら 今のうちだよ お前さん 二度と見られぬ この眺めだよ」、「パビリオン 嵐山にも 建てられて さらのままにて 更地にされて」、「物事の 裏を探りつ 鵜呑みせず 吐かせた魚 じっくり調べ」、「鵜の小屋を 有耶無耶にして 無茶苦茶に 誰が得した 謎々だらけ」
去年5月のムーンゴッタの投稿に写真を載せたが、嵐山の中ノ島公園内にあった鵜飼い用の鵜を飼育展示する小屋に、秋篠宮を批判する貼り紙が現われた。そのことについて自治会内のFさんに会って事情を聴いた。込み入った話で半分ほどしかまともに聞かず、秋篠宮が批判される理由がよくわからなかった。眞子さんの結婚のことで秋篠宮は大いに批判され、それが収まっていない状態だが、筆者は宮家に関心はなく、また世間は騒ぎ過ぎだと思う。Fさんによれば、中ノ島に鵜屋を造るために嵐山通船の前の社長が京都市長、秋篠宮、それにもうひとり誰か忘れたが、3人に5,60万円の真珠のネックレスを贈って建築許可の根回しをした。当初の計画どおりに鵜屋が機能しない現状でも、3人はネックレスを返却する義務はなく、得したことになるとのことだが、Fさんのその話がどこまで本当かわからない。気になるのは秋篠宮が一業者に利用されたことだ。また秋篠宮と嵐山通船とをつなぐ人物が介在したはずで、その人物が真珠のネックレスを受け取ったもうひとりだろうか。60万円として3人分で200万円に満たない。その程度の費用で中ノ島公園に鵜屋を建てることの許可が出たとすれば、建設費が1億円ほどかかったようであるから、かなり安いものだ。以前に書いたと思うが、嵐山通船の会社の建物はわが自治会内に以前はあった。事務所として使っていたのでごく小さな建物であったが、地蔵盆の時は毎年1万円の寄付があった。筆者はその社長と話をしたことがないが、Fさんは昔から懇意で、たまにFさんからいろんな噂を耳にした。嵯峨に豪邸があると聞いたこともあるが、嵐山通船の売り上げは夏場の鵜飼い以外に何があるのかよく知らない。保津川下りの権利も持っているのかもしれないが、渡月橋から南、松尾橋に至る桂川での漁業権を持っているはずで、鮎釣りをするにはその許可を得るのに一定の金額を支払わねばならない。会社がいつ頃設立されたかはネットで調べればわかるかもしれないが、大昔から桂川では漁業が行なわれて来ているので、京都市の歴史とは比べものにならず、同じような会社を創設することは不可能なはずで、嵐山通船は嵐山の舟にまつわる事業を一手に担っているのではないだろうか。あるいは住み分けがなされているか。鵜飼いの舟に接近して食べ物や飲料を売る舟があって、それは嵐山通船とは無関係の個人の経営と想像する。あるいは嵐山通船に営業許可を取っているかだ。こういう営業権はおそらく江戸時代の河村瑞賢から続いているのではないか。その末裔がいなくても、近い人が生きていると思う。

中ノ島には渡月橋のすぐ際に屋台があり、中ノ島小橋付近にも一軒ある。前者は景観を損なっていると言えるので、営業禁止にすべしと考える人もあるはずだが、やはり京都市が誕生する前から地元の親分の管理下にある。彼らの生活がかかっていることもあって、京都市は見て見ぬふりをするしかない。今は外国人観光客目当てに天龍寺前の商店街に多くのテイクアウト店が出来たが、それらがさほど目立たなかった頃からその屋台はあって、小腹が空いた観光客には好評ということも出来る。今は法律を盾に物事を考え、行動することが常識とされるが、法律が出来る以前から地元の商売上の仕来りはあり、それが現在の法律に抵触する場合でも、例外は設ける必要がある。新興住宅地とは違って千年以上の歴史のある京都では特にそれが多いと言っていいだろう。中ノ島は桂川の中州だ。長年の間に地盤が固まった土地で、誰の所有かとなれば右京区と思うが、中ノ島で細々と観光客目当てに営業して来た茶店は今はたぶん京都市に固定資産税という形かどうかわからないが、それなりの場所代を支払っているのだろう。Fさんからは新規の開店は出来ず、代々商売の権利を所有している人からそれを譲り受ける必要があると聞いたことがある。それは本来身内間での譲渡であったのが、他人でもよいことになっているようだ。しかしそうであれば大金を積んで営業権利を買う人が、たとえば東京にはたくさんいるのではないか。そうなればたとえばマクドナルドが出来ることもあり得るが、景観条例から、また地元業者から反対があって、そこは節度を守るという暗黙の了解があるだろう。ただし時代が変わってその暗黙の了解は難しくなって来ていることが想像出来る。中ノ島は現在以上には広がらず、店舗の数も増えようがないので、店が変わっても問題はほとんどないが、中ノ島から下流の河川敷が耕地になっていることはどうだろう。筆者の知り合いに桂川の下流で畑を借りて作物を育てている人がいる。借地代を支払うのは当然とはいえ、河川敷であるからそれは国交省のものだ。桂離宮近くの河川敷では「耕作禁止」の立て看板が昔はあったが、今はどうなのだろう。禁止するのであれば松尾付近でも同じではないか。国交省としては、勝手に耕すのは黙認するとして、耕作の道具などを収容する倉庫を建てることは問題であると考えているだろう。洪水で流されても役所は関与しないのはいいとして、その倉庫が下流で何かに被害を及ぼすことは大いにあり得る。一方、めったに氾濫しない桂川流域の肥えた河川敷を作物を育てないままに放置するのはもったいないという考えももっともなことだ。しかし長年土地を耕作している者が一部を他人に費用を取って貸すことは、役所が介入出来ない昔からの決まりがあるのだろうか。こういうことは地元に代々住む人でなければわからない。

Fさんは戦争から戻った父親が別の場所から嵐山に来たが、当初は地元住民に無視されたそうだ。それはともかく、桂川のすぐそばに大昔から住人はいて、彼らの仕来りが今もそれなりに生きていて金が動いていることは確かで、中ノ島の鵜屋の建設とその取り壊しにも同じ裏事情がある気はする。嵐山に住んで40年ほどの筆者にはよくわからず、また知りたいとも思わないでの、鵜屋が建った時は鵜が間近に見られると喜んだが、いつまで経ってもそのままで、雑草が繁茂し、やがて秋篠宮批判の貼り紙が出て驚いた。今日の写真は嵯峨のスーパーに家内と行く途中で一昨日の午後に撮った。工事用のシートで覆われた正確な日は知らない。建設より取り壊しは簡単で、数日で作業は終わるだろうが、今日は「その1」として投稿する。一昨日辺りからネットやTVでこの鵜屋取り壊しのニュースが出始めた。それを読むと筆者の知らないことばかりで「灯台下暗し」を実感するが、この鵜屋が世間でどれだけ関心が持たれているのか疑問だ。嵯峨のスーパーに行くには必ず中ノ島を通って嵐山に至るので、嫌でも鵜屋は目についていたが、中ノ島小橋をわたって中ノ島に入った時、鵜屋が視界を遮ってすぐには渡月橋が見えない。更地になるとすっきりするが、一生に一度の嵐山訪問の人にとっては鵜屋があればそれはそれでよい思い出になったはずで、宇治にある鵜屋の模倣でよかったので、まともな建物であってほしかった。コロナも心配だが、毎年のように生じる鳥インフルエンザを思えば、もっと頑丈で他の鳥が接近出来ない構造にすべきであったのだろう。ならば設計段階でなぜそれがわからなかったのかという疑問が湧く。その点は嵐山通船の責任になるが、設計図を見たはずの京都市はどう対応したのか。建設許可を出したのであれば京都市の責任もある。一昨日のニュースによれば京都市が取り壊しをしてその費用の1000万円を嵐山通船に請求するそうだが、社長が変わっていてその点で揉めている。前の社長が引退した後に前述の通船の事務所の建物は右京区の三条通り西端辺りに新しい建物に移ったが、桂川近くの便利な場所に移転出来る資本があるのだなと思ったものだ。また前の社長と現社長との間で揉めているならば、会社の内部はうまく行っていなかったことが想像出来る。それはどうでもいいことだが、前社長が動いて中ノ島に鵜屋が建った事実は、中ノ島に何かを建てる権利を有しているか、あるいは有力者に真珠のネックレスを贈ったことで権利を得たのか、どっちにしろ嵐山のことを思っての行動ではあったと思いたい。とすれば、いつかまた構造が違う鵜屋が建つ可能性はある。現在は鵜をどこで飼っているのかという疑問があるが、昔は渡月小橋南詰から西50メートルほどの川岸に鵜を入れた籠が2,3置かれていた。当夜の鵜飼い前の仮置きで、籠に入れる直前はどこにいたのかは知らない。

