「
激震の 予感が湧くは 怖がりか 平穏無事の 今を噛みしめ」、「馬鹿ですと 自己証明に 嬉々として 恥捨てるほど 名も金も得る」、「紅白の 饅頭のミニ 令和かな ないよりましで 感謝もミニか」、「ひとりずつ 主役のセリフ つなぎつつ 巣立ちの歌の 響く講堂」今日は地元の小学校で卒業式があって、
去年9月下旬の50周年記念の式典を思い出した。その日は出席した自治会長に紅白の饅頭が配布されなかったが、今回はさすがにその手抜かりはなかった。正装した父兄が同様に体育館の後方に並び、スマホや小型カメラで卒業して行くわが子の撮影に余念がなかった。さらに後方の壁面には去年9月に披露された児童制作の学区のイメージ風景の壁画が額に入れられてしっかりと固定されていた。筆者の席は前方に向かって右手で、卒業生と5年生が並ぶ中央区画を斜め横から眺めるように椅子が置かれていた。校長は50代の女性で、今日はベージュ色の上下を着てスカートは踝まで長かった。式が始まる前の会議室での集まりで高齢の交通安全委員長の男性が校長に、「どこの皇族かと思いますね」と冗談とも本音ともつかない言葉を発した。校長は笑顔を返したが、筆者はそういう揶揄めいた言葉は絶対に口にしない。思い返せば30年ほど前に筆者は同じ体育館で卒業生の父兄を代表して奉書に自書した文章を読んだ。それから校長は5,6人変わったが、記憶に強く残る人は少ない。昔は自由に小学校に入って花壇の花を写生したし、校長がその様子を間近に見ながら児童に見せてやってくださいとも言ったりしたが、小学校に乱入して児童を殺める事件があってからは常に門扉は閉まっている。また会議室に掲げられる創立以来のPTA役員の写真額を見ると、筆者の息子が小学生時のPTAや自治連合会の会長など、ほぼ全員が今は地元にはいない。それはさておき、今日驚いたのは、卒業生と5年生が全員が短い言葉を次々に規律して大声で発したことだ。その詩文は先生が指導したのだろうが、ひとりも言い間違えをしなかった。その送辞と答辞ともに10分の長さはあったと感じたが、実際はもっと短かったかもしれない。その規律正しい「演技」は見事であったものの、学校とはそういう全員一致の規律を教え込む場であることを再確認し、児童の才能の見事さとは別に大人の指導の徹底さを感じて何となく怖くなった。筆者は学校否定派ではないが、規律規則があまりに厳しいのはどうかと思う。そういう強制性に本能的に拒否感を覚える子が登校拒否になっているのではないか。しかしそれは簡単な問題ではなく、学校の教師は昔以上に困難な立場にあるはずだ。先生のなり手が少なくなっているようだが、小学校の先生はただ優しい心根を持った人になってほしい。また年齢を重ねるほどに児童はかわいいと感じるもので、筆者は先生向きであったのだろう。紅白のミニ饅頭は帰宅直後に頬張った。昔はもう少し大きかったと思いながら。
