先月9日に京都高島屋で見た。古九谷については古い思い出がある。20代後半、染色工房にいた時、先生がいろいろと高価な画集を買い揃えていた中に陶磁関係のものがたくさんあった。
それから選んだのか、あるいは誰かの図案をそのまま引用したのか知らないが、古九谷の牡丹文様の皿を名古屋帯の図案にしたものがあった。また、同僚の女性からはある人からもらった九谷焼の壺の価値を見てほしいと言われたこともあったが、筆者は九谷に関する知識も関心もなかったので判断は出来なかったにせよ、どうせ百貨店で買える現代物のようでたいした価値はなかったであろう。数か月前、たまたま石川県立美術館所蔵の『九谷名品図録』を入手した。この図録は以前古書店でも見かけて高価なあまり買わなかったが、結局それと大差ない価格で買った。それはいいとして、この図録には前述の牡丹文様の帯の元図である「色絵牡丹文平鉢」がカラーで掲載されている。牡丹とは思えず、まるで熱帯植物の変わった形の実に見えるが、皿いっぱいに同形の黄色の牡丹を3つ描き込み、一度見て忘れられない特徴的な表情がある。工房の先生は文人画や大和絵など、とにかく日本のあらゆる絵画が好きな人で、自分自身の風神雷神を描くことを夢見てもいた。芸大出ではないので、40を越えていたにもかかわらず、今から芸大に入学したいとも言っていたが、それは絵の勉強をしたいと言うよりも、芸大卒の肩書がないと世間から一人前には見てもらえないことへの口惜しさもあったようだ。だが、工房には京都市立芸大の日本画専攻の学生などが何人もアルバイトで出入りしていて、先生はそういう連中の勉強不足や才能のなさを間近に見ていたから、芸大の実情はよく知っていた。そうそう、思い出した。高慢な20代半ばの金持ち女がアルバイトで来ていた。同年齢の日本画家を目指す主人がいて、彼女が口癖のように語っていたのは、どんな有名な日本画家でもみな大きな経済援助があってそうなっているので、自分の主人も両親がもっと援助してくれさえすればきっと有名になれるのにと言うのであった。筆者はまるでパーティに行くような豪華な格好をして工房にやって来るその彼女とは馬が合わなかった。人を経済力や学歴で見下すところがあったが、こういう格好ばかりの最低女の考える日本画の世界とは、美の真理の追求などとは無縁の、セレブ感覚で排他的自己愛に浸れる飾り物なのだ。つまり、腐っているというわけ。
話を戻して、工房の先生は陶磁器の絵つけについては一家言を持っていて、たとえば小倉遊亀の絵によく富本憲吉の色絵磁器に梅の花を活けた様子を描いたものがあるが、そうした日本画における陶器の絵つけの筆遣いをそっくり模写する時にはその筆致にうるさかった。絵が上手なだけでは陶器の絵つけは出来ないと言い、その意見はそれなりに正しかった。陶器の絵つけは上手過ぎても駄目で、また下手ではもっと駄目という独特のものだが、画集からそんな文様を克明に模写するのがどれほど勉強の効果があった疑問に思う。それはたとえば小倉遊亀が解釈する富本憲吉の心をさらに解釈し直すことであり、事情はさらに複雑なことになる。それなら最初から富本憲吉の磁器を目の前にして模写した方がよい。こうした文様の模写はたとえば線の痩肥や曲線の曲がり具合などに書き手の特徴を見、そしてその精神を感得するわけだが、実際の陶磁器の表面に描くのとは違って、紙では模写し切れないものがあるから、書道のように厳然とした世界とは違ってあまり意味もない。九谷と聞けばそんな古い昔のことをいろいろと思い出すが、今回の展覧会で初めて古九谷の名品をまとめて見た。今まで京都では古九谷の名品をまとめて見る機会はなかったように思うが、それは京都に清水焼があるからでもある。大体百貨店でこうした地方文化紹介の展覧会が開催される場合は観光物産的な思惑が働き、実際今回も会場前には現代の九谷焼作家の商品販売があった。チラシを見ると、主催として加賀市の名前が筆頭に上がっており、市の紹介を兼ねてのものであることがわかる。だが、これはとてもいいことだ。地方が独自の文化遺産を積極的に各地に紹介することで新たな認識が生まれる。名前だけはよく知っているのに本でしか見られないものは多く存在し、実物展示の威力は大きいのだ。今回の展覧会がなければまた当分筆者は九谷焼の名品を見ることがなかった。また今回は「吉田屋」という見慣れない名前が大きく掲げられていて、これも初めて知って有意義であった。そして「浪漫」の言葉の意味も納得出来た。
古九谷は江戸前期に数十年で途絶えた。約120年後の文政7年(1824)、72歳であった大聖寺城下の豪商吉田屋の4代目豊田伝右衛門(1752-1827)が私財を投じて九谷古窯跡の横に窯を築いた。ここから「吉田屋」と呼ばれる焼きものが生まれたが、大名好みの古九谷をそのまま模すのではなく、町人層の文化を反映して大平鉢から額
鉢、徳利などの食器類のほかに茶道具、三具足、文房具など、さまざまな形の磁器を作って同じ図柄は1点もない。だが、わずか7年で廃窯となり、大英博物館やメトロポリタン美術館など外国に多く所蔵されるだけで、あまり大きな光が当たらなかったが、今では江戸後期色絵磁器の最高峰とされる。加賀市には1655年頃に加賀藩の分家である大聖寺藩が肥前窯業の伊万里の技術を導入して領内の九谷村に築いた藩窯跡があって、これが長年「古九谷」の地と信じられて来ている。一方、肥前有田の窯跡からは古九谷の色絵の素地片が出土し、近年は柿右衛門様式に先行する有田の初期色絵のことを「古九谷様式」と呼ぶようになっているが、当時加賀藩や大聖寺藩は肥前磁器を大量に購入する大スポンサーであり、一方で江戸藩邸跡から最高級の古九谷が出土していることから、加賀藩が古九谷の創成に深く関与していることがわかるが、現在古九谷古窯と吉田屋窯跡は「九谷磁器窯跡」として国指定の史跡となっている。4代豊田伝右衛門は吉田屋の3男で、1770年に家督を継いだ。酒造業を営み、藩に火薬を納め、金融調達や本陣役を勤める御用商人であったが、文化8年(1811)、59歳で隠居し、郊外の小庵で遠州流茶道や池坊立花をたしなみ、和歌を詠み文人画を描く風流三昧の生活を送った。文政7年(1824)に古九谷再興を志し、藩に普請許可を取り、20貫400匁を借用して総費用31貫838匁5分で窯を築いて稼働させた。20人の職人たちはすぐに優品を生産したが、雪深くて往来に不便な九谷村から山代に1年あまりで移転して借金を増やした。翌年2月に息子の5代目が亡くなり、その4か月後に76で伝右衛門も世を去った。23歳の孫が6代を継ぐが、家業が傾き、窯は解散となり、翌年に6代も没した。浪漫には残酷がつきものだ。それにしても4代目豊田伝右衛門は見上げた人物であった。
「吉田屋」は陶石に粘土を2分混ぜた独特の鼠素地に古九谷風の釉薬が厚くかかって柔らかい風合いをかもしていて、色絵(五彩手、百花手とも呼ぶ)の古九谷と、そこから赤を引いた緑、黄、紫、紺青の四彩を使用する青手古九谷は、目標の「古九谷」を越えているとされる。これは伝右衛門の文人趣味、釉薬調合に成功した粟生屋源右衛門、岸派で絵を学んだ上絵師の鍋屋丈助の技量や芸術センスに負うところが大だ。今回は古九谷の名品と、それを範として作られた吉田屋の作品がそれぞれ隣同士に並べられて作風の違いがよくわかる構成になっていた。たとえば平鉢では、古九谷は黒呉須の線描が強くてそこに緑釉が全面にかかっているが、吉田屋では黄釉が背景にかかり、海老の文様を紫釉で塗り潰してより洗練された雰囲気を出していた。青釉や緑釉をよく使用する古九谷はペルシア手と呼ばれるが、吉田屋は黄、紫、紺青を主に使用する。平鉢は口径によって名称を分け、1尺3寸以上のものを大平鉢、7寸以上を平鉢、未満を皿、5寸以下を小皿とする。甲鉢と呼ばれるものの展示も多かった。これは口辺を伏せると甲冑の兜に見えるところからそう呼ばれる。今回は古九谷と吉田屋の名品が200点も展示されたので、その図録は筆者がわざわざ高値で入手した図録よりも資料的価値があるかもしれない。だが、筆者の図録には「単に九谷焼といっても、創始期の「古九谷」、再興九谷として最初の「春日山窯」、加賀藩営の「若杉窯」、古九谷についで名声のある「吉田窯」、赤絵細描の八郎手といわれる「宮本窯」、金襴手の「永楽和全」、洋絵の具で彩色金襴手の新しい画風を始めた「九谷庄三」など、時代と窯の移りかわりによって上絵付の作風が変り、それらが今日の九谷上絵の源流ともなっています」とあって、吉田屋のみが古九谷を継いでいるのではないことがわかる。今回はそのことが巧みに隠されて恣意的なものを感じるが、それはチラシに「加賀市役所 吉田屋展推進室」とあるように、現代の作家作品の売り込みが強く絡むからであろう。このように、ある特定団体が本家本流を主張することは他の工芸でもよくある。となると、やはり筆者の入手した図録は古九谷とその後の流れを公平に扱っていることになって、資料的に価値が高いと言える。
九谷焼はその独特な色合いのために、人によって好き嫌いが分かれると思うが、最初に述べた「色絵牡丹文平鉢」に特徴的に見られるような、黄、緑、紫の三彩で単純な文様を力強く表現したものは、さすが古九谷と思わせる風格がある。それらは後の古九谷を模したものより荒々しい仕上がりで、そこに着眼すれば吉田屋の緻密で端正に仕上げられたものに軍配を上げる意見が出るのもうなづける。だが、焼きものの魅力はそうした丁寧な仕上がりだけには宿らない。絵が上手であってもそれだけで陶磁器の絵つけがうまく出来るとは限らないところが面白いわけで、結局吉田屋が表現したものは古九谷より120年も時代が下がった時の趣味を反映したものに過ぎず、古九谷を越えているかどうかは人によって判断が異なる。時代が進めば何事も以前のものをあらゆる面で凌駕するかと言えばそんな単純な問題ではない。むしろ芸術ではその逆のことがしばしば起きる。九谷焼に好悪の感情を抱くとして、嫌う人はたとえば古九谷はよくても、その後のより精緻になった吉田屋に対してであるようにさえ思える。古九谷にはなかったような文人趣味も、いいと思える人もあればその反対もあるのではないだろうか。江戸後期の文人たちは黄檗宗の僧侶などを通じて明時代の文化に影響を受けたが、吉田屋も京都を経由して入って来た中国の文人趣味を作風に大きく反映させた。それは『史記』の伝説を題材にした「蜃気楼図平鉢」、明末期の交趾香合の「獅子香合」のうち、持遊びや手遊びと呼ばれる小振りの香合を手本にした「獅子香合」、あるいは「唐人物図徳利」「楼閣山水図大平鉢」「龍宮図大平鉢」「花鳥図甕」などに歴然としていた。こうした文人趣味は京を中心に活動した頴川、木米、仁阿弥道八、永楽保全らが、明の青磁や白磁、景徳鎮の古赤絵、古染付、祥瑞、そして福建省璋(本当はさんずいへん)州窯の呉須赤絵、交趾三彩など、200年前の古典を手本にしたことにつながるもので、やはり京都からは一地方の焼きものにしか見えないところがある。
補足しておくと、古染付とは17世紀初めに日本の茶数奇数奇者たちの需要に応じて作られた景徳鎮民窯の青花磁器で、桃山時代の織部スタイルを踏襲して茶道具や懐石器を作って人気を博した。加賀では江戸前期に若杉窯で古染付の写しの磁器が盛んに作られたが、吉田屋では色絵を使って華やかな器を生んだ。交趾は元来ヴェトナ南部を指すが、近年の研究によって福建省の璋州窯とされている。さて、吉田屋の山代の窯場のその後は、窯元や職人、作風を変えて宮本屋、九谷本、九谷陶器会社と受け継がれ、現在に至っている。九谷陶器会社からは竹内吟秋や初代須田青華などが輩出し、北大路魯山人は青華窯で陶芸の手ほどきを受けた。また、粟生屋源右衛門は伝右衛門の没後約20年の弘化3年(1846)に松屋菊三郎を指導し、その息子の松本佐平、初代徳田八十吉(佐平の弟子)らに古九谷、吉田屋の色は受け継がれた。源右衛門は嘉永元年(1848)には大聖寺藩窯松山窯に招請され、青手様式の九谷焼を制作したが、この窯からは北出宇与門(北出窯)などが輩出した。北出窯の3代目北出塔次郎は富本憲吉に色絵の技術を教えた。その富本憲吉の作った捩じりの大振り色絵徳利を小倉遊亀は大切にして何度も描いた。たとえば昭和50年(1975)に描かれた「巨匠を偲ぶ」は、この徳利をふたつ並べ、その傍らに小さな青磁花活けに紅梅の一枝を指してある。富本との交わりは遊亀が女学校の教員をしていた昭和一桁時代以来で、学校の近くに窯があって、窯出しの時はいつも案内を受けていた。同時期の遊亀には「古九谷鉢葡萄」という作品もあって、その色絵磁器好みがよくわかる。さて、最初に書いたことにつながるが、何事も師弟関係の流れがあり、そのどこにつながっているかで評価されもするから、あまり自分の才能に自信のない人は芸大美大を出ていつまでもそれを看板として自慢する方がよいし、そうでない人は言われなくてもどんどんと創作をするだろう。