「
続編を 待ち焦がれつつ 満ち足りて 夢想楽しみ ハッピーエンド」、「見えぬのに 在ることを知る 満月や 雨雲の奥 どこにて光る」、「順序よく 記憶並ばぬ 脳の中 腐敗の速度 新旧問わず」、「長生きし 特に大事な 記憶なし こだわることの 無意味さを知り」昨日は阪急嵐山駅前の「喫茶らんざん」で平安講社第十一社の代表者と会計のふたりから、5月下旬の春の例会のために第十一社の帳簿を見せてもらいながら説明を受けた。例会で筆者が監査役として発言するためだ。代表も会計もいかにもそれにふさわしい人柄で、40年近くはその役職を務めて来ただけはある。筆者も人前では割合きちんとしているつもりだが、とてもかなわない。これまで上役に気を遣うことなく、好き勝手に生きて来たため、貫録がまるでない。貫録は自然と出るものだ。今さらどうしようもない。1時間ほどの説明が終わって小雨混じりの曇天の外に出ると、らんざんのマスターが筆者らを窓越しに少々見ていたようで、声をかけられた。その理由や話の内容はいつか書くことがあるかもしれない。密かに考えていることがあるのだが、筆者のみではどうにもならず、まずは全面的にマスターの考え次第だ。それはさておき、マスターとのわずかな立ち話の後、久しぶりにFさん宅に行った。このFさんは「風風の湯」に常連の嵯峨のFさんとは違い、年齢も4,5歳上だ。Fさんは地元の情報通で、マスターとの話の内容を話題にすると、いい考えだと言われた。しかし自分ひとりでやることは時間さえ費やせばどうにでもなるが、他人を動かすことはそうではない。第十一社の今春の例会の監査役がどういう手順で決められたのか知らないが、例会で簡単に発言するだけで誰がなってもよい。その意味で筆者が断れることが出来るかと言えば、そんなあまのじゃくはまずいない。それで言われたままに動くが、これは組織としてはごくあたりまえのことだ。何らかの利害で結びつく間柄では説得力と相手の理解力から物事は決まり、理解を得るのに真剣に説得しなければならない。その真剣さは商売では互いの利益に対してだが、説得する側が何の経済的見返りもない場合は、より真剣に受け止められると言えば、そうとは限らない。相手が商売人であれば、何の見返りもない労力というものが理解しにくく、何らかの魂胆があるのではないかと思われるからだ。筆者は平安講社の学区代表を去年から頼まれたが、頭を下げる場がよくあり、また時間は取られ、出費もあるのになぜと言われるかもしれない。代表の肩書を誇示する場はなく、またそんなものはどうでもいいと思っている。60年もっと前に小学校の遠足で大阪市内から平安神宮に行き、その後の図画工作の授業で大鳥居の絵を描いたといった縁を感じることが、代表としての煩わしさに対して我慢出来る理由になっている。先月に続いて今日も満月は見えず、写真はない。
