「
次がある この楽しみや あればこそ 明日も賭けると 夢中で駆ける」、「三大の 京の祭りは 見るだけで 参加したくも よそ者は駄目」、「よそ者が 自治会入り 半世紀 されど入り人 京の町では」、「信用は 幼馴染みに 限る人 スマホの詐欺で 大金取られ」
![●「南座を 眺め踊るや 阿国像 雲は多くも 人出途切れず」_d0053294_00183920.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202411/16/94/d0053294_00183920.jpg)
今日の最初の写真は先月27日、寝屋川市民会館での
「京阪アコーディン・コンサート」を聴きに行く途中で撮った。京都の四条通と鴨川左岸の交わる北側にある出雲阿国の銅像だ。今調べると同じものが出雲大社のすぐ近くにもある。鴨川の畔にこの像が建ったのは歌舞伎発祥400年を記念してのことで、20年ほど前だ。阿国が南座を眺める角度で建てられ、三条京阪にある高山彦九郎の座像の御所を向いて拝む姿に着想を得た設置に思えるが、詳細がよくわからなくても阿国を顕彰するのはいいことだ。今日の投稿は出雲阿国がらみではあるが、内容の大半は
先月22日の時代祭で撮影した写真の残りに絡むことで、今年の時代祭について別の角度から書く。時代祭は毎年同じ仕様で「行列次第」書が印刷され、関係者に配布される。筆者はそれを時代祭の当日平安神宮に受け取りに行ったのに、第十一社の代表などの関係者がみな帰宅していなかったことを先日書いた。たまたま出会った権禰宜に必要枚数をもらって帰ったが、翌日代表からもっと多くを届けられたので今年は7,8枚あまった。次第書は行列の順を詳細に印刷してあり、またそれを提示すれば京都御苑内に設けられた平安講社席に座って時代祭の行列を鑑賞出来るので、今年知り合った濁天さんに一部届けようと思ったが、時代祭前日まで3日しかなく、郵送で届かない可能性があった。またわが家に取りに来てもらうほどのものではない。濁天さんは時代祭を見るために自転車で御所まで行き、その近くで行列を鑑賞すると言っていた。筆者は行列の出発とほぼ同じく御所を出て平安神宮まで歩くので、濁天さんに会えるかもしれないと思っていたが、行列が進む道路筋沿いの歩道は人が埋まり、またみな行列を見ているので背中しか見えず、濁天さんの存在に気づかなかった。祭が終わって彼から行列を撮影したデータがいくつか届いた。音声の伴ないに興味を示したようで、届いた映像ファイルは無言で歩く第十一社は省かれていた。これは鑑賞者の立場からすれば重要な視点を提供している。無言でぞろぞろと大勢のおっさんたちが仮装して歩くだけでは関心が持たれにくいことだ。見栄えを言えば若い美人や男性がよく、今回そのことを実感した。今年わが学区から馬乗り役として参加した男性は30代半ばの長身のイケメンで、祭当日の夜のTVでわずかに彼の姿が紹介された。筆者は彼の姿を御所の堺町御門付近で待って見たが、周囲は外国人の撮影者が群がり、追いかけてまでも馬上の彼を連写している西洋人がいた。それほどに武者姿が目立ったのだ。その馬上の武者姿は先月23日の投稿の最後の写真だ。
![●「南座を 眺め踊るや 阿国像 雲は多くも 人出途切れず」_d0053294_00191069.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202411/16/94/d0053294_00191069.jpg)
その日の2枚目の集合写真からわかるように、第十一社の行列は全員が男で、女性は裏方に回るしかない。これに不満を唱える女性が出て来て当然だが、時代行列を審議する学者たちは室町幕府には歴史上目立った女性がいないという理由で女性は行列に参加出来ないことにした。ならば行列の後方に就く40名ほどの裃隊では無理か。そのことを今春の第十一社の例会の直会の席で筆者は平安神宮の前述の権禰宜が隣りに座ったので訊ねたところ、第十一社の代表たちの意見によるとの話であった。代表に訊いていないが、男ばかりの行列であるので、裃隊も全員男であるべきとの考えであるのは間違いないだろう。裃姿で歩く女性は存在しなかったというのがその理由で、それはもっともなことだ。しかし笠で顔が半ば隠れることもあって、各社が裃姿で数十人単位で歩く中に女性が混じっていてもほとんど気づかれないはずで、裃姿の女性があっていいと思う。しかしそのことで今年は驚く光景があった。第十一社の直前の行列は第五社が担当する「織田公上洛列」で、その裃隊の最後にロシアかウクライナ人らしき金髪の若い美女がいた。その日筆者はかなり目立つ洋服姿であったので、行列の出発を待つ間に彼女は近くにいた筆者に何度か視線を送り、目が合った。ちょうどその頃、第十一社の行列の関係者と言葉を交わして教えてもらってところ、彼女のすぐそばにいた人が持つ町名を記した何かを掲げていて、太秦のとある地域から参加していることを知った。それから3時間ほど経って平安神宮内の広場で第十一社の裃2名の到着を待っていると、当然一足早く「織田公上洛列」が到着し、また金髪の彼女を間近で見た。すると年配の裃姿の男性がその女性に近づき、握手を求めながら笑顔でこう言った。「また来年も頼みます。」その美女のそばに若い男性がいて、美女とは夫婦かもしれない。それはいいとして、女性が裃姿で行列に参加してよいなら、第十一社でもそれはあってよく、そうなると来年以降筆者は女性を勧誘出来る。それはともかく、御所近くの歩道で濁天さんは撮影し、その映像の中にしっかり「織田公上洛列」の末尾の先の美女がアップで映っていた。それほど目を引く女性で、それはそれで祭としてはよかった。さて、平安神宮まで歩く筆者はもっぱら第十一社の行列の前後を行くので、まだ行列の最初から最後までを通して見たことがない。御所内の平安講社席から全部見てから追いかけても筆者のほうが早く平安神宮に着くはずだが、勉強のために一度はそうしなければならない。今日の2枚目以降の写真は撮った順で行列の順ではない。女性に目が行くのは第十一社にはいないこともあるからだが、歴史上の有名な女性をどのような現代人が扮装ているかを確認することは楽しい。それは馬に乗る有名な武士とは違ってまだ見るに耐えるからだ。
![●「南座を 眺め踊るや 阿国像 雲は多くも 人出途切れず」_d0053294_00193959.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/202411/16/94/d0053294_00193959.jpg)
織田信長や豊臣秀吉、また楠木正成とはあまりにほど遠い顔つき、体つき、しかも馬に乗り慣れないのでいかにも不安定で、兜が半分ずり落ちている場合も珍しくない。市民参加の仮装行列であるから、役柄にふさわしい人物を厳選することは不可能で、それは女性にも言えるかもしれないが、化粧でかなりごまかせる女性はだいたい演じることが上手で、違和感はあまりない。「江戸時代婦人列」では和宮、蓮月、玉瀾、中村内蔵助の妻、吉野太夫、出雲阿国などが、京都市地域女性連合会が人選を行なっているので、全員ふさわしい女性がそれなりに選ばれているだろう。しかし明治に近い和宮はともかく、蓮月や玉瀾の名前とどういうことを成した女性であるかを知る人はかなりの少数派だろう。最近TVの外国人にインタヴューする番組で、ある西洋人の若い女性は蓮月の書が大好きで収集していると語った。蓮月の書の味わいは、その文字が読めなくても魅力が伝わることを思い知ったが、教養とは何かを考えるに、日本の平均的な若い女性のその低さは目を覆いたくなるものと言ってよい。玉瀾の名を聞いて即座にその絵と署名が明確に思い浮かぶ女性はたとえば芸大美大を出てもまあほとんどいないだろう。そう考えると、時代祭の「江戸時代婦人列」はとてもよく考えられた人選で、動く絵巻と呼ぶにふさわしい。しかし歴史に残る有名な女性とはあまりに癖のある人物でもあって、現在の女性が演じるとそこに前述の馬上の武士のような滑稽さがある程度滲み出ることは仕方がない。今日の2枚目左は誰に扮したか知らないが、その美女ぶりに目を引いた。右は市役所前に設置された児童生徒招待席で、馬がやって来るたびに歓声を挙げていた。3枚目は上が牛車を引く黒牛、その後方にやや小型の牛が終始鳴き声を上げて歩いていた。これは前方の牛が歩けなくなった時の代わりか。4枚目は上が三条通り沿いの古い家の前に置かれた植木鉢で、黄色のハイビスカスの満開具合が目を引いた。下は神宮道に入ってからで、3人の若い女性の先頭は出雲阿国で、後方のふたりは「弟子」だ。去年出雲阿国は筆者と目が合った途端、
刀を両肩後方にかけて笑顔でポーズを作った。その堂に入った身振りに出雲阿国に成り切っていると感心したが、観衆へのそのようなサービスは素人では出来ない相談で、演劇関係の女性かと想像した。今年の筆者は傍目にかなり派手に見えたようで、男女ともに4,5人に声をかけられた。三条大橋で写真を撮るために待っていると、前にいた60代らしき女性3人が振り返って筆者を見ながら写真を撮っていいかと言ったので、断る理由がないので撮らせた。またある女性とは10分近く話をし、着ている服のブランドの話になったりもした。御池通りでは3,4人の中年女性が振り返って筆者を見つめながら話題にしていたが、目立つ格好で出かけた理由は
先月23日に書いた。