「
忙殺の 日々の合間に 花を愛で たまに無言で 対峙し写生」、 「立ち止まり 他人の庭の 花見つめ 不審者でなし 己に言いつ」、「腰据えて 写生始めて 風強し やがて小雨で 白き紙濡れ」、「今頃か 待っていたよと 花語り 互いに老いて まじまじ見つめ」
15日に書いたように、その日は平安神宮に時代祭の行列次第書を受け取りに行った。10分ほど遅れて到着すると配布場所に誰もおらず、たまたま出会った権禰宜から必要部数をもらって帰った。夜になって代表者からお詫びの電話があり、翌朝次第書を持参すると言われた。権禰宜からもらっているので不要ですと言うと、本来配布すべきもので受け取ってほしいと言われ、16日の昼前には権禰宜からもらった3倍ほどの部数を手わたされた。没にするのはもったいないので早速学区の各種団体の長や自治会長らに配ることにした。嵐山から松尾に広がる地域の地図を広げ、配布すべき家を着色し、どの順序で回れば最短で済むかを思案しながら自転車で走り、16日午後はその作業で潰れた。平安講社の学区代表とはいえ、単なる使い走りだ。そういう作業をこなす気力と体力はもう4,5年が限度ではないかと思ったりもする。さて、今日の本題。次第書を配っていると、年に一度ほどしか歩かない坂道で今日の写真の鶏頭の花を見かけた。葉鶏頭の鉢を含み、鶏冠鶏頭の花は写真に見える量の3倍ほどあって、家の玄関前や側面に並んでいる。これは描かねばと思い、翌日すなわち17日は写生に出かけた。最初の写真の左端の1本を主に描いたが、葉も赤くなっていてきれいだ。高さ1メートル少々で、写生するには上下に分けねば用紙に収まらない。そうなると視線の高さが変わるから、2枚をつなげばカメラで撮った図とは同じようにはならないが、写生は不自然に見えなければよい。また手前からは見えない奥の様子もよく注釈的に描くので、解剖の気分に近い。描いていると坂道を車が何度も降りて来て轢かれそうになり、そのたびに立ち上がるが、運転手にすれば見知らぬ人物が邪魔をしているとの気分だろう。やがてその家の家族が車で帰って来て、主人である80歳くらいの小柄な老人が近寄って来た。「描かせていただいています。」「ああどうぞそうぞ、光栄です。」「これほど多く咲いているのは初めて見ました。」「アメリカにいる娘にしばらく会いに行っていましたが、その間に水やりを息子に頼んでおいたので今年もこのように咲きました。亡くなった家内が好きな花でしてね。それでわたしも毎年植えているのですよ。」すると別の娘さんらしき人も近寄って来て、筆者は鶏頭の種類を話したが、彼女はどこに住んでいるのかと訊く。不審者には見えないと思うが、他人の目はそうとは限らない。家の場所と名前も伝え、また時代祭の次第書があまっているので、それを明日持参しようかとも言ったが、興味はなさそうであった。また写生に没頭し、3時間ほどは一瞬で過ぎる。