「
真実味 なきこと信じ 詐欺に遭い 川面の鴨の 地味なこと知る」、「片隅に 今年は咲いた 一花のみ 目立ちはすれど 邪魔にならずに」、「鶏頭の 花うなだれて 種子落とし 地より這い出て 虚空で孤高」、「動物は 動き回るも 伸びて枯れ 植物見れば 人生悟り」
2年前の今頃に嵯峨のスーパーへの途上で見かける鶏頭の写真を3枚載せた。最初の2枚は去年も今年も同じように咲いた。3枚目の群がって咲く様子は今もデスクトップ・パソコンの壁紙に使っているが、咲いていた場所が舗装されぬままに駐車場に使われ、去年も今年も同じ豪華な開花は望めなかった。それがわかっているのに、通りがかるたびに、また車がない時はなおさら、何もない地面を見てしまう。軽の車で、地面後方はわずかに空きがあり、そこで咲いてくれまいかと淡い期待を抱くからだ。しかし当然その気配はなかった。鶏頭にしても車が出入りして危険な場所に咲こうとは思わないはずで、さりとて種子は咲いていた場所付近にしか散らばらず、咲きようがない。そう思い込んでいたところ、1週間ほど前、今日の写真の開花を知った。狭い前庭の車が停められる場所の片隅だ。写真が示すように玄関ポーチのコンクリートの柱と玄関に通ずるモルタルの床が交わる箇所のすぐ際の地面で、車に押しつぶされる心配はなく、人の出入りの邪魔にもならない。鶏頭はそのことを知ってここにわずかに一輪だけ開花することにしたのだ。植物にそういう意思があるはずはないと思う人は簡単に言えば馬鹿だ。動物と同じく生き物であり、命のあるものは生きて子孫を残すことに必死だ。この写真の鶏頭は久留米鶏頭系の背丈の低い矮小性の品種だが、この小さくうずくまる姿のために、人からは邪魔と思われず、ひっそりちゃっかりと咲いている。もっと背丈があればそれなりに愛でられ、大切にされる可能性が高いかもしれないが、邪魔と思う人もある。それはともかく、意外な場所に一本だけぽつんと咲くこの花を見かけた時は驚いた。1週間に一度は通りがかる道であるから、もっと以前から開花に気づいてよさそうなのに、2年前に群がっていた中央辺りばかりに目が行き、そこから離れた場所を注視しなかった。あるいは前回筆者が通りがかった時はまだ咲いていなかったかもしれない。いずれにしろ、この地面には種子がたくさん落ち、そのうちのわずか一粒がこのように咲いた。それは2年前の群がる花の数からすれば数千分の一の可能性だろう。そのわずかに賭ける鶏頭の意思は凄まじい。あるいはそれほどに立派な花を咲かせ、種子を残すことは稀有な確率で、人間が生きていることも同じく奇跡と呼ばねばならないのではないか。2年前に比べるとあまりにさびしいわずか一花だが、それゆえに味わい深い。この一花が多くの種子をつけ、そこからまたいつか群がり咲く鶏頭の王国を築く可能性がある。そこに何の意味がある? もちろん美ではないか。

