「
だらけずに 立ち続けるは 根の強さ 今生の花 根性で咲き」、「重力に 負けじと粘る 命かな 死して魂 天に昇るや」、「世話されず 咲いて見事な 鶏頭の 鶏冠に止まる 無頼の蝶や」、「小粒しか 実らぬ時期も あることを 知って備えよ 知恵を絞って」
2年前の時代祭の当日、裃姿の筆者は時代祭の行列担当の大枝学区が手配した観光バスに乗って行列の出発地である京都御苑に向かった。「荒神口」のバス停近くで全員が下ろされ、縦一列になって広小路を御苑に向かって歩いていると、歩道の端に見事に咲く種々大小の鶏頭の花を見かけた。時代祭後に写生に訪れ、そして翌年の開花を楽しみにした。ところが期待とは遠い開花状態で、写真を撮るだけで済ました。今年はとまた思って時代祭の1週間前の昨日、市バスに乗って出かけた。そうして撮ったのが今日の写真で、去年よりも貧弱な花で、鶏冠鶏頭はなく、野鶏頭系のものだけであった。今年の夏の暑さはあまりに異常で、立派な開花が望めなかったことは理解しなければならない。この花の咲く背後の店舗に勤務する人がこまめに水をやることはない。そのことは2年前に写生中に話をしたその店の上の階に住む男性から聞いた。放置状態、自然のままでこれほどに咲くのであるから、ヒユ科の植物はよほど逞しい。2年前とは比べようがないが、全滅するよりかはましだ。このような状態でも開花が毎年続けば、いずれ2年前のように多種多彩な状態が出現するかもしれない。その期待がこの場所に落ちる鶏頭の種子に伝わると想像することはあまりにおめでたい非科学的なことだが、生命の意思は何らかの形で反応し合っているのではないかと思うことがよくある。もちろんこの店舗前の鶏頭は店舗が改装されるなどして全滅する可能性があるし、そうでなくても来年はもっと小ぶりに咲き、2年後には全く花が見えなくなるかもしれない。おそらくその可能性のほうが大きいだろう。そうであれば気に留めることはなく、もっと立派に咲くはずの植物園にさっさと通ったほうが時間の無駄にもならないが、たまたまの出会いを運命的と思いたいロマンティシズムが筆者にはあり、そして世話されずに勝手に咲いているという自然さが好きだ。結局のところ自己を投影したいのだ。作品の制作とはそういうことだ。作品から他者は作者を想う。作者の精神が小粒であればそれなりの作品しか生み得ないし、無限にはない人生ゆえに人は凡作よりも名品に触れていたい。そういう作品に真に出会うには自分が小粒であれば無理で、背伸びして小粒的思考から脱しようとしなければならない。それはいいとして、自宅の庭で咲く鶏頭の花にあまり期待出来ないのであれば、歩いたことのない道を積極的に散歩し、たまたまの出会いで描く意欲をそそる花を求めるしかない。またその意欲をそそる咲き具合は今日の写真のように平凡な形でない場合で、異形を求めていることになるが、それが健全なのかどうか。