「
作物の 出来のよしあし 運次第 努力で成るは 案外易し」、「大局を 見張り続けて 見失う ことの大きさ 知らずに死す」、「小さきを 自覚し尖る 男ぶり 惚れる娘の 心は広き」、「ちゃっかりと 居座る姿 頼もしき 邪魔に思われ 消されるまでは」
嵯峨のスーパーに買い物に行くルートはほぼ決まっているが、道に迷うほどでもないが、たまに初めての道を歩く。そうすれば必ず新たな発見があり、次回はカメラを持参しようと思う。何年か前に本ブログにある家の玄関前の写真を載せた。日光の下で首を振ったり花を揺らしたりするプラスティック製の小さな人形を20個近く並べた木製の棚だ。筆者はそういう安価な面白人形の類が割合好きで、写真を撮ったのだが、置いていたのが老夫婦であることをやがて知った。夫は90くらいであったと思う。妻とすればやや若い女性はたぶん70代で、ふたりで暮らしているようであった。二三度そのお爺さんの姿を見かけ、一度はそれらの人形を眺めていた。1年半ほど前か、動かなくなった人形が取り除かれ、やがて全部なくなった。そして「売家」の張り紙が出た。お爺さんが亡くなったか介護施設に入ったのだろう。家は数か月後に取り壊され、更地になった。通りがかるたびに、「ああ、この両脇と背後を家で囲まれた小さな土地にあの夫婦が住んでいたのだな」と思う。その夫婦が住む前は別の人が住み、別の家が建っていたはずで、古いものが消えることはごく普通のことだ。しかし嵯峨地区では最近頻繁にそういう空き地を見る。また2,3か月後には新しい家が建って以前の様子を思い出せない。人間も同じで、ある地位にいた人が別人にそれを譲ると、すっかり以前の人は忘れ去られる。芸術家、芸能人も同じだ。後者は没後50年や100年に思い返されることはないが、前者は100年経って回顧されて後、ようやく本当の評価が定まって行く。話を戻して、前述のお爺さんが住んでいた家の空き地に木が最近育ち始めた。今日の最初の写真がそれだ。青桐と思うが、これは成長が早く、よく空き地で見かける。鳥が種子を落として行くのだろう。そのことを青桐は知っているはずで、空き地の場所を感知し、野鳥に運ばせ、そして急成長する。土地が売れて家が建とうとすると根こそぎされるが、そのことを青桐は知っているので必死だ。わずかでも機会を逃さず、種子を残そうとする。それで空き地に青桐が育っているのを見ると筆者はにんまりする。生物はみなわずかな隙、すなわち機会を逃さない。ぼんやりしていては他者に先を越される。そのすばっしこさは人も持っていて、それは謗られるべきではない。必死になって大きくなろうとしなければ別の誰かがそうなる。そういう必死の競争が嫌と思う人は目立たなく生きるが、それはそれでまた競争がある。根拠なき自信、空威張りは嘲笑されるが、地道にしっかり夢見る者はそれをかなえる。たとえごくわずかな期間であっても。