「
現実を 示す写真を 加工して 理想求める 美意識が増し」、「鏡見る 時間の長き 自惚れの 薄っぺらな美 本人知らず」、「白黒の テレビに色を ほしがりて カラーテレビで パンダを愛でて」、「映画から テレビになりて 今スマホ いずれ体に 画面埋め込み
4日前の「子どもの日」に神戸に出かけた。今日はその時に神戸市立博物館で見た展覧会について書く。神戸にふさわしい内容の展覧会で、同館の所蔵品も展示された。幕末から明治にかけて来日した西洋人が買い求めたお土産の中に、日本の風景や人物を映した写真があった。高価なものにするために手彩色が行なわれ、また蒔絵の表紙をつけたアルバムが作られた。写真の大きさは現在の2Lサイズほどで、それに筆で彩色するのはハンコを彫るのと同じほどの細密な作業で、いかにも超絶技巧が頂点に達していた明治時代の手作りの商品だ。白黒の写真に彩色してより現実感を表現しようという気持ちは白黒写真が主流であった筆者のような昭和20年代生まれならばよくわかるが、白黒の写真や映像をコンピュータを使ってカラー化する技術は今世紀に入って珍しいことではなくなった。筆者がそうした色づけ写真を初めて実感したのは1982年に生誕100年記念として発売されたストラヴィンスキーの作品集だ。当時日本に200セットが輸入され、筆者はその1セットを買った。アルバムの背表紙が少しずつ色が違うLP32枚が箱の中に並ぶ眺めは壮観であったが、それよりも興味深く思ったのは各アルバムのジャケット写真が白黒写真を色づけしたものであったことだ。今日の2枚目の写真は適当にそのアルバム・ジャケットを2点選んで横並びにしたもので、現在のカラー写真のカラフルさや鮮明さはないが、それが時代を感じさせてよい。82年当時、写真のデジタル加工はまだ行なわれていなかったと思うが、あるいは最初期のデジタル技術で白黒写真を色づけしたのだろうか。筆の跡が見られないところ、その可能性が高い。ところで、このストラヴィンスキーのボックス・セットは91年に22枚組のCDボックス・セットでしかもかなりの安価で同じ内容のものが発売され、筆者はもっぱらそれを聴いているが、廉価でもあるせいか、LPジャケットの写真を一切使わず、指揮するストラヴィンスキーの各CDごとに異なる白黒写真が使われる。LPジャケット写真のあまり派手ではない色合いを最先端のデジタル技術を使ってもっと鮮やかにしてほしかったが、LPジャケットをCDサイズに縮小すればそのままでもLPよりは鮮明に見えるようになったかもしれない。それはさておき、あたりまえのことだが、白黒写真は明度の差しか示し得ないので、元の被写体の色相まではわからない。つまり白黒写真のカラー化は無限のパターンがあって、どれも正しい保証がない。しかしある程度は色相を絞れる場合が多い。
男性が着る袴が真っ赤ということはあり得ないし、若い女性の髪の色が明治では茶色に染めることはなかったから、常識的なところで当たらずとも遠からずの考えから色を定め得る。後は見栄えを優先で、カラフルであれば美しいと思われ、そのことが真実味をもたらす。さて、本展の最初に今日の2枚目の人力車に乗る若い女性を撮った写真を20倍ほどに拡大したパネルがあった。同じことは本館で2年前の秋に開催された
『よみがえる川崎美術館―川崎正蔵が守り伝えた美への招待―』でも行なわれたが、今回は彩色写真であるのでより現実感があった。また元の写真の高い解像度のほかに、無名の彩色人がいかに細かい手仕事が出来たかの迫力を伝えていた。今日の2枚目の写真は本展のチラシ裏面に横3.5センチで印刷されている画像をスキャンしたが、元の写真の緻密さはぼやけてわからないものの、前述の拡大パネルでは女性や車夫の顔の表情がはっきりとわかり、写真の威力というものを感じさせた。昭和半ば以降、写真は一般人が気軽に撮るものとなったが、そうした写真とは格が数段違うのが、明治のこうした写真で、写真の解像度の技術は明治時代に頂点に達していたのではないかと思わせる。これは明治期のネガの大きさが昭和時代の一般人が手にしたフィルムの数倍の大きさがあったからだろう。35ミリのフィルムは手軽ではあるが、仕上がる写真の風格、重みは明治のガラス乾板にかなわない。蒔絵表紙アルバムの手彩色写真はガラス乾板と同じ大きさのはずで、当時は引き伸ばしはせず、密着の焼き付けしかしていなかったように思うが、となれば35ミリのフィルム写真以上に細部がはっきりと写り、それを手彩色で塗分けるには器用さと根気を要した。2枚目の写真のストラヴィンスキーのアルバム・ジャケット写真の撮影時期はわからないが、本展の人力車に乗る女性たちの写真に比べると、セピア色を基本にわずかに色がついている、つまりカラー写真が褪色したように見える。それはあまり派手な色を使って現実味を演出するよりは、30年ほど前の歴史的な録音という断りを暗に仄めかすためであったかもしれない。その点、人力車に乗る女性たちの写真は外国人が購入するお土産であり、日本の現在の華やかさを誇張するほうが売れ行きには具合がよかった。この写真は左上の木々の合間に見える青空や木々の桜色、それに女性たちのキモノの色がとても派手で、毒々しいと言ってもよいほどだが、拡大パネルを見ていると購入者が帰国して日本を知らない人に自慢しながら説明する際に効果的なところを押さえている。つまり外国人の喜ぶ日本らしさをよく知って彩色をした。これは去年9月に本ブログに書いた
『発見された日本の風景 高野光正コレクション』で紹介された笠木治郎吉の水彩画に通ずるところがあって、外国人が何を求めているかの自覚が明治の人たちにはあったことを示している。
本展は幕末から明治と銘打たれるが、チラシ裏面に掲げられる写真図版は明治もしくは明治中期、後期とあって、幕末や明治初期はない。明治は現在より時代の流れが穏やかであったろうから、初期と中期はさほど変化はなかったと考えられるが、初期に始まった日本の郵便が絵はがきを認可するのが後期で、その間には写真印刷技術の発展があり、情報の伝達が郵便を介して世界中で行なわれた。それから1世紀ほど経っての現在のネット社会で、画像加工の原点が明治の手彩色写真にあったと見れば、本展から浮き彫りにされることは少なくない。手彩色は大いに手間を要するので作品ないし商品が高額になるのはやむを得ないが、デジタル加工技術が簡便になった今、明治の手彩色写真と同様のことを行なう意味がないのかとなれば、そうとは言い切れない。わざわざ白黒写真を撮り、そこに自由な色づけを行なうことで個性を発揮しようと考える立場は大いにあり得るし、そうした手彩色写真が新たな芸術とみなされる場合もある。そこで笠木治郎吉が手彩色写真をどう思ったかについて考えたくなる。笠木の絵は写真を元にしたところを感じさせるが、モデルを理想化している点で写真にはない絵の強みを認識していたことは間違いない。また手彩色写真は元の白黒写真の明度に左右された範囲内で着色するしかないが、絵であれば形も色も自由に選べる。そこで手彩色写真のいわば塗り絵に対して笠木は塗り絵の骨描き線も自分が想像するという画家の矜持を持ったはずで、それゆえ笠木の絵画は同じ明治のものでありながら、無名の手彩色写真とは違って作者名前が記録、記憶されている。つまり手彩色写真は手先の器用な人のアルバイト的な専門職であり、教えられれば誰でもそれなりに熟達し、商品を作り得た。笠木の絵画は写真の理想化でありつつ、自己主張が明確であるゆえに、その才能と作品に惚れられれば収集の対象になるが、同じお土産としても日本の風景や風俗の実態を浮世絵とは違って正確に伝えるものとなれば写真が圧倒的に優位だ。そこに写真家の個性は入り込みはするが、画家のそれとは違って真実に圧倒的に近いという点で、却って絵画よりも歓迎された気がする。それはさておき、手彩色写真の緻密な彩色技術は笠木の細部までびっしりと描き込んだ水彩画に通じ、明治の輸出向けの描画技術の基本であった。それは日本の伝統技術に根差している。手彩色写真が蒔絵の表紙を施して豪華な商品としてのアルバムとしてまとめられたのは、新たな工芸品という狙いがあったためで、日本の伝統的な高額で売買される諸工芸はすべて手の込んだ密な表現を旨として来て、手彩色写真の技術は友禅染に似たものと言える。ただし糸目の輪郭線から染料をはみ出させないように過不足なく彩色する友禅染だが、はがきより少し大きな写真に極細の筆で彩色する行為は友禅よりはるかに神経を尖らせる必要があったろう。
本展は世界最初の手彩色写真についての紹介はなかった。これが残念な点だが、おそらく世界の大都市では同様のことが行なわれたはずで、そのことが写真絵はがきの興隆を招いたのだろう。しかし前述のストラヴィンスキーのLPジャケットの彩色写真の技術からして、精緻に彩色する技術は日本が群を抜いていたことは想像される。浮世絵の木版画は今でも外国人に人気があるが、それは日本の風景や風俗を描く一方で手仕事の極致と言ってよい技術の賜物であるからだ。浮世絵の伝統は大正、昭和になって川瀬巴水に継がれたが、巴水の木版画が欧米で人気があるのは浮世絵とその後の写真を融合させたような画風であるからだろう。その巴水の版画の前哨として手彩色写真がある気がする。本展では風景写真は点景の人物を含む場合が多かったことを想像させたが、たとえば明治中期の『神戸名所写真帳』では現在の神戸市立博物館があった外国人居留地区を海から眺めた写真を含み、彩色は目立たず、悪い意味での虚飾のなさを目指したことがわかる。これは写真によって、また彩色を求める人物の考えによって、手彩色写真が絵画のようにさまざまであったことを示す。今日の3枚目の写真は同じ女性の背面写真の彩色違いを比較するもので、彩色は1枚ずつ行なったので同じ人物が彩色に携わってもヴァリエーションが可能で、依頼者の意向によって派手にも地味にも仕上げられた。明治の外国人にとって日本の髪型やキモノ、帯は驚きであったはずで、染織が多彩のひとつの象徴であり、女性の背面の見どころは帯の色や柄行きであった。そのことを3枚目の写真は如実に示し、この元の白黒写真は後で彩色することを前提に帯を見せた撮影したのであろう。帯の模様は自在な色相を選べるが、赤を使えばより華やぐことを伝える。本展のチケットやチラシに使われた若武者姿の正面向きの写真からはそのことがより端的にわかる。男性の頬は桃の実のように化粧されているように色づけられ、また鎧の組紐はどぎつい目の鮮烈な赤で彩色されて、外国にはない武具のカラフルさをあますところなく伝える。この写真は薄暗いスタジオ内で撮られたもののようだが、外光の下でこうした鎧姿を目の当たりにすると、この写真以上に華やかで、組紐の赤が誇張ではないことがわかる。どういう景色の中のどういう家の中でどういう家具調度に囲まれ、どういう衣装を着ているかを知ることで、外国人はその国の基本的な情報を得る。その役割は白黒写真では不足で、多彩さを示すには彩色する行為が求められた。それでも当時の日本は全体に地味で、風景では富士山の威容や桜の花色を見せるか、人物では一般人はほとんど遭遇しない鎧姿の武者や能の仮面をつけた役者、あるいは掛軸がかかり、行灯のある部屋で手紙を書くキモノ姿の若い女性など、外国人写真家や彼らに追随した日本人写真家の好みによって日本趣味が選ばれた。
「フジヤマ、ゲイシャ」は今でも日本を代表する合言葉として通用しているだろう。富士山を遠景に、朱色が目立つ五重塔を近景にする写真が撮れる関東のとある場所に外国人観光客が押し寄せているようだが、その眺めはあまりに漫画的ないしキッチュながら、浮世絵や手彩色写真から続く典型的な日本の風景だ。実際その景色をもっと風格を増した眺めは京都にはよくあって、幕末、明治に来日した外国人は日本らしさをそうした寺社仏閣と自然が一体化したところに見、それがどうにか京都では部分的にしろ保たれているところに、外国における今の日本ブームがある。キモノの美は外国人にもわかり、京都ではレンタル・キモノ店が流行っているが、江戸時代の影を引く明治では、町中は派手で大きな電飾看板が目立つ現在よりはるかに地味で、それゆえキモノが目立ち、それが驚きの目で見られたことはよく想像出来る。レンタル・キモノは昔のものとは違ってどれも安っぽい色と柄だが、洋服とは違う形によってキモノの基本は保たれ、それを外国人は日本の本質と捉えていることは正しい。背の高い外国人女性が下手な着付けによってキモノを着ている姿を目の当たりにするとがっかりさせられはするが、キモノが元来フレキシブル、言い換えれば自由なものであれば、そういうどこかおかしい着方も大目に見なければならない。明治期に洋服を着た日本の男性が外国人から珍妙に思われたが、何事も慣れれば気にならなくなり、そこから新たな創造が生まれもする。さて今日の4枚目の写真は「フジヤマ、ゲイシャ」のゲイシャと言ってよい「太夫」で、この写真はチラシやチケットでも最も目立つ場所に大きく配された。この女性から感じることは、百年ほど経っても美女の基準がさほど違わないことだ。こうした若い女性の写真は外国人には特に人気があったのではないか。この写真の太夫は知性が感じられ、また他の明治期の女性の写真の顔とは一線を画すほどに違うように見える。太夫がそれほどに選ばれた女性であったと思えば納得が行くが、一方で一世紀単位で国民の平均的な顔立ちが生活習慣や食べ物の違いから変化して行くことを思えば、美しい顔の基準も少しずつ変わって行くだろう。その一例は現在の漫画やアニメで描かれる美男美女で、必ずと言ってよいほど顎が鋭角に尖って小さい。そこから宇宙人ないし遠い未来の人間も同様の三角形の顎になると予想されているが、ほっそりした顎は軟弱、脆弱の徴でもあって、日本人絶滅の兆しが漫画やアニメの主人公の顎に予告されていると言えないこともない。それはともかく、現実にはない鋭角に尖った顎の人物をよしとする漫画やアニメに感化されて人間が同じような顔に整形手術を求める風潮が盛んになって来て、その美の追求の元に「フジヤマ、ゲイシャ」と同じ記号的、紋切的な考えが横たわっているのではないか。
本展の最後の方のコーナーに、手彩色写真で使われたカラー・インクや筆が展示されていた。彩色の絵具は写真が登場する以前から日本にもあったが、そうした顔料ないし植物染料は白黒写真の彩色には適さなかった。顔料は不透明であるから、白黒写真の元の明度の差を見えなくしてしまう。植物染料は全体に地味で、また不安定であったのでやはり使いにくい。そこで化学的に作られたインクが登場し、それで紙幣を印刷することにもなったが、そうしたカラフルなインクはいち早く日本にもたらされ、それを使って写真を彩色することが思いつかれた。たぶん高価で誰でも簡単に手に入るものではなかったと思うが、インクは水で薄めて使えば濃淡は自在に表現出来る。先の若武者の鎧の組紐の赤はほとんど原色のインクを使ったであろうが、頬の薄紅は本当の人間を化粧するように何度か塗り重ねたものであろう。また基本的には彩色の濃淡はさほど気にする必要はなかったのではないか。下地としての写真がすでに濃度を決定しているからだ。同じ明度の同じ色をたとえばキモノ全体に塗っても、元の写真の陰影がそのインクの下から見え透き、立体感を意図する必要はない。また同じ写真を何枚も置きながら、同じ色は同じ人物が担当して分業で彩色した可能性が大きい気がする。筆を持ち替える手間を省けることは賃金仕事としては重要なことで、また分業に頼るほうが仕上がりは均質性を保つ。何をどう使って色づけをするかは印刷の技術と相まって変化して来た。手彩色写真は写真技術の一方で発明が続いたカラー・インクがあってのもので、その点でも明治の産物であることを証明している。化学染料が発明され、日本に輸入されてからは友禅染もそれを使うようになったが、写真技術がデジタル技術と手を結んだ結果、染料をインクジェットで吹き付けて布を染める方法が出現した。シルクスクリーンの技術でTシャツを染めることは今でも行なわれているが、画像のデータがあれば版を起こす必要なしに布地に原色で印刷が1点から可能となった。あらゆる画像が手軽に見られ、また印刷出来るようになって、1世紀前の手彩色写真を模倣した画像は簡単に製作出来るだろうが、先の若武者の鎧の組紐の赤は筆跡が露わでそこには彩色者の息吹がある。それは見方によっては雑な仕事だが、手仕事の温かみも無視出来ない。ではその手作業の温かみをいいことに雑さに無関心になればどういう仕事になるかを考える必要もある。人間は機械の精確さにはかなわない。それでも最大限の精確、精密を目指したい本能もあると筆者は思っている。インクジェットの技術でどんな画像でも精密に再現出来るようになったと思うのは錯覚で、数か月要して描いた絵、染色したキモノをぱっと見は同じように見えても、インクジェットで仕上げたものを手にすればそれが上辺だけのものであることがわかる。しかし今は上辺重視の時代だ。