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●「道端に 咲く花はみな 人が植え 勝手に育つ 雑草刈られ」
んこ盛り 御飯残すな 食べ盛り 死神点呼 あるまで食べろ」、「陽だまりに まどろむ猫を 目覚めさす 赤まんまの穂 だんまり顔に」、「雀食う 米はわずかも 分捕るな 農夫納付の 年貢思えば」、「次々に 花咲き並ぶ 嵐山 小春日和の 桂川沿い」
●「道端に 咲く花はみな 人が植え 勝手に育つ 雑草刈られ」_d0053294_17155463.jpg7月20日に祇園にある何必館で見た写真展『荒木経惟 花人生』の投稿で書き忘れたことがある。3階の小展示室の3面の壁にポラロイド写真が隙間なしに縦横に貼られていた。縦方向が25枚ほどで壁3面で横は100枚はあったとして、2500枚ほどか。秋山庄太郎の写真集『和洋花譜365日』は365点の花の写真が1ページずつに印刷される。秋山の同様の花の写真はもっとたくさんあって、筆者が最初に見て感動したチューリップを黒い背景に配した写真はその写真集にはない。つまり写真家は膨大に撮ってそこから選んで発表する。荒木の先のポラロイド写真は大量にあったことと、ポラロイド写真特有の不鮮明さもあって、ざっと流し見しただけだが、2500枚あったとして、それだけの花の写真を撮るのは花屋に通っても数日では終わらない。常にポラロイドカメラを携帯し、街中で花を見かけるたびに撮ったと想像するが、それはそれなりの努力の積み重ねで、荒木は同時に女性その他の写真を撮っていたはずであるから、「花人生」と呼ぶにふさわしい態度、習慣と言ってよい。しかし写真を撮るのは鉛筆で紙に描くよりかは手っ取り早く、同じ種類の花を月日を開けて何度撮ってもかまわないのであれば、筆者でも2500枚のポラロイド写真は1年要せずに撮れる気はする。それをしないのは、撮りためて何かしたいことがないからだが、デジカメに画像を保存するだけならば簡単で、結局は花ばかりを撮り続ける根気がないからだろう。またどの花もそれなりに美しいとはいえ、描きたくなる場合は稀で、こちらに強く訴えて来るものがない場合、写真に撮っても面白いものは出来ない気がする。また描きたくなる花は名前を知らずともその美しさに感動した場合かと言えば、筆者の場合は違う。まず名前を知り、そして何年もその花を各地で見続け、意識の中で存在がしっかりと確保されてから描きたくなる、あるいはその気持ちの何段階か前の気分になって初めて写真を撮るか、実際に描く。つまり重い存在になってからのことだ。その筆者の思いからすれば何必館で展示された無数ともいえる花のポラロイド写真は無名の人々を見かけた途端に撮ったのと大差ないものに思えた。これは昔書いたことがあるが、妹の長男が小学5,6年生の頃のボーイスカウトか学習塾かの、正面向きの白黒の肖像写真を100枚か200枚縦横に並べた写真集を見たことがある。学校の卒業アルバムの肖像写真集とは違って、もっと生々しかった。ひとりずつの顔を見ながら、やがて甥の顔に出会い、そこからまた別人の顔を見続けると、やがて何とも言えない満腹状態になった。
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 家内も同じ意見で、いいものを見たという気が全くせず、むしろその反対であった。花の写真であればどうかとなれば、それは秋山庄太郎の先の写真集が体現している。秋山は花の形と色を見て花の配置を変えて撮った。実物の花を使って写真の構図を組み立て、絵画行為と言ってよい。生け花がそうだ。秋山は生け花の構成美を横長の写真の中で独自に考えた。荒木の花のポラロイド写真は花に出会った瞬間に撮ったスナップ写真で、花の形や色に応ずる構図を計算したものではほとんどない。しかしそう断言すると荒木の写真家としての矜持を無視することになるから、荒木なりにこだわった構図などはあったはずだ。だが秋山の花の写真のように写真スタジオで時間をかけて撮ったものではなく、即席だ。これは即興と言い換えられる。それはそれのよさがあるので、荒木の花のポラロイド写真を秋山のような写真集にすれば見えて来るものがあるだろうが、そもそもそういう立派な写真集に使う気持ちは荒木にはなく、見た瞬間に「あっ、花だ」という反射の感覚であろう。それを何かをコレクションする男の習性のような他愛ない行為とみなして論評を加える価値がないと思う立場もある。先の甥と同じ年齢の子どもたちが同じように前向きで胸から上部を写された写真がずらりと並ぶと、個人の個性が順に伝わってやがて疲れて来ることは、多くの子どもと順に意識、言葉を交わした気分を疑似体験するからとも言える。そう思うと会社の面接官は大変な職業だ。多くの人物と対面してさぞかし疲れるはずだが、そうならない本能が働いて眼前の人物の実相を把握する気分を喪失し、書類と表面的なその場の対面者の態度から判断するだろう。また対面して圧を感じる人物がいた場合、その人物をどう評価していいか戸惑い、面接官はその時々の気分で合否を決定するのではないか。かくて面接で受かる人物は平均的で無難な人物の集合となる。また甥が混じった写真集に戻ると、その誰もがこれから本格的に開花するといった、すでに一人前の大人の風格が漂っていて、子どもであるのに全員がそのように自信に満ちている顔に写っていることに嫌な満腹感を覚えたというのが正しい。では昭和半ばまでの素朴な顔の子どもばかりの顔であればよかったのかと言えば、たぶんそうだろう。簡単に言えば、筆者や家内の小学5、6年生とは全然違う時代の子どもの顔で、それがいいかそうでないかは世代ごとに思いが違い、筆者や家内は違和感を覚えたというだけのことだ。しかし、現在の甥にたとえば筆者や家内の小学5,6年生のクラス集合写真を拡大し、あるいはその写真から顔だけ抜き出してひとりずつを上下に並べた写真集の形にして見せればどう思うかという疑問が湧く。甥はたぶん全員がいかにも貧相で自信なさげで、栄養も足りていない田舎の子どもに思うだろう。
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 そのことで甥が嫌な満腹感を味わうかどうかは実際に試してみなければわからないが、筆者と家内が甥と同年齢の子どもたちの顔写真集を見たときに感じたことは、全員の生活レベルが平均以上で、みな理屈っぽく、こまっしゃくれて見えたことに対する戸惑いで、その意味かわいさを感じなかった。秋山庄太郎の『和洋花譜365日』はどうか。どの花もその花特有の美しさを秋山が引き出しているか。この点に関して筆者は否定的だ。絶賛したい写真は稀で、大部分はあたりまえのことだが本物の花の迫力にかなわない。きれいにまとめて撮ってはいるが、花はそのようにまとめられるものとは言い切れない。そのことを荒木は知っていて、花を凝視するばかりではなく、見た瞬間に反応することも選んだ。あるいは花に足りないものを他の何か、また自分が絵具などで描き足すことで花を利用した1枚の写真としての絵を作り出そうとする。その点は秋山の方法と同じに捉えてよいが、花を表面的に美しいものとして思っていないことは確かで、美にエロもグロも混在することを示したい思いがある。荒木の花のポラロイド写真は、どの花もいわば誰でも知っている卑近なものだ。無数に撮り続けたそれらを整然と並べて展示することは、一般人の顔写真を並べることと本質は同じだ。また見た瞬間に撮るのであるから、花と人物は異なるとはいえ、先の甥が混じる子どもの顔の写真集と写真そのものを比較すれば荒木の写真は構えの気分が少なく、その分見るほうが気楽に見ることが出来る。またそのことは漠然と見て印象に残らないことの理由にもなっているが、「気楽」や「印象に強くない」は誰しも日常経験していることで、それゆえの親しみが湧く側面がある。荒木が何必館の小部屋に花のポラロイド写真をびっしりと展示したのは、それらの花が日常的で芸術を意識していないことで他の荒木の大きく引き伸ばされた写真とはひとまず一線を画す意識と、無数の即席に撮影されたポラロイド写真の中から何かのきっかけでいつでもより立派な写真になり得る小さな種子のようなものをそれら無数のポラロイド写真のどれもが持っていることを示したかったからかもしれない。そうであるとして、あるいはそれはかなり正しいはずだが、では甥と同年齢の子どもたちの写真集はどうかという疑問がまた浮上する。その子どもたちの多くは無名の平凡な大人になるだろう。そうなった時、世間の荒波にもまれて性格はそれなりに角が取れているはずだが、そうとは限らない醜悪な内面をさらしたままの大人もいるはずで、嫌な満腹感は却って増すかもしれない。そこで思い当たることは写真は撮られる側だけの問題ではなく、むしろ撮る側の意識がより反映するのではないかとの考えだ。もちろんそうだろう。そこにカメラマンの精神性が求められる理由がある。平凡なカメラマンではいくら頑張っても平凡な写真しか撮れないのは道理だ。
●「道端に 咲く花はみな 人が植え 勝手に育つ 雑草刈られ」_d0053294_17171050.jpg 20年ほど前、京都の画廊で画家や職人ばかりを撮る写真家の個展があった。そこで失望したのは、どの人物の顔も月並みに見えたことだ。『こんなおっさん、技術のない職人やろ』、あるいは『この女性画家、自惚れだけが目立つ絵を描くはずや』といった思いが湧いたが、その写真家の内面の平凡さが反映しているたと言ってよい。趣味で写真をやる人の大多数は平凡な思想で満ち足りた幸福な暮らしをしていて、撮る写真もそうなるのは当然だ。それゆえ、秋山や荒木の写真の何がそうした凡人写真家とは違うのかという話になる。また甥の先の写真集に戻ると、その写真家は子どもたちをカメラの前に順に座らせながら機械的に撮って行ったはずだが、どういう写真集になるか、また写真集は顔が比較的大きく、鮮明に載ることを説明したうえで撮影に臨んで子どもたちに自信を植えつけ、またその自信はカメラマンが持っていたものだ。その意味でその写真集はカーテンで仕切られた街中の自動撮影機で撮ったものとは全然印象が違い、より人間くさくなったが、同じ品種の花を何百と用意して順に一本ずつ撮影して写真を並べても、甥のその写真集のような嫌な満腹感が生じるかと言えば、それはわからない。スーパーで売られるキュウリやトマト、カボチャはどれも差異は乏しいが、その理由は機械で製造したかのような画一化が求められる時代になり、曲がったり、傷があったりするものは商品棚に並べられないからで、自然な状態ではもっと多様だ。話があまりに多方面に広がって収拾がつかないので本題に入るが、写真家と絵を描く人との対象に寄せる思いは違い、後者は荒木の花のポラロイド写真のように瞬時にたくさんの枚数を描くことが出来ず、何をどう描くかに関しては慎重よりになる。もちろん荒木のポラロイドもそういう慎重さを即時に決定するが、瞬間に見ることの質の差はあって、千載一遇的な場合と漫然の意識が根底にあってシャッターを押す場合とでは写真に盛られる何かは大いに異なるはずで、そこに絵画を対比させるとまた双方の利点も欠点と言えるものも浮かび上がる。瞬間、即興で撮った写真が時間を費やして描いた絵より味わいがあるとは言い切れず、絵は絵なりに上手下手が必ず生じ、そのことは写真でも同じだ。そこで花三昧、花人生といった言葉を持ち出すと、表現者各自の花に対する思いが付与され、つまるところは美とは何か、また生活の中での花がどういう意味を持つかという考えが作品から見えて来る。荒木の花のポラロイド写真は植物園でまとめて撮ったものは1枚もないはずで、どの被写体もたまたまの出会いだろう。ごく普通の日常の中でのさまざまな花は野生からイメージされる状態は遠いが、人間とともに生きている点では現代社会をよく反映し、どこにでもいるような普通の人の姿と同様、それなりの非芸術的な面白さはあるし、またそれが芸術とみなす立場もある。
●「道端に 咲く花はみな 人が植え 勝手に育つ 雑草刈られ」_d0053294_17173860.jpg さて、今日の写真は10月30日に撮った。家内の誕生日を10日ほど過ぎ、秋の好天の午後、嵐山を観光客に混じって散策し、その足で嵯峨のスーパーを梯子することにした。渡月橋を北にわたってすぐに左折すると桂川沿いをさかのぼって福田美術館方面に向かう。今日の花の写真はその手前のホテル内の植え込みで、歩道沿いから次々に現われる秋草が楽しかった。どれも人工的に植えたもので、また歩道に大きくはみ出さないように管理されているので、植物園の花のようなわざとらしさがある。秋草は雑草とともにあるのが風情があっていいが、そういう場所は嵐山はまだあるとしても、都会にはない。それでホテルは嵐山の自然の豊かさを演出するために歩道からよく見えるように秋草を植えたが、どれも有名な植物で、花の名前をよく知る者にとってはありがたい反面、月並みに感じ、『まあ何もないよりはましか』の気分だ。今日の6枚の写真は見た順で、桔梗、ホトトギズ、ツワブキ、まだ色づかないマンリョウ、そしてフジバカマにカリンの実で、荒木のポラロイド写真とは違って花のみクローズアップに捉えず、隣りにある植物の葉などをあえて取り込んだ。これはそのような植生によってにぎやかさを演出していることを知るからで、その意味ではこの歩道に面した植え込みはちょっとした林や森のような雑然とした、それでいて美しさを演出した庭師の考えがあらわになっている。撮影から20日ほど経った現在、もう桔梗の花は写真のようには咲いていないはずだが、代わってほかの秋の花があるかもしれない。この植え込みに鶏頭やヒガンバナがあればもっと目立つが、赤い花はこの渋い趣を持つ庭の雰囲気を壊すかもしれない。そう思う一方、春はどういう状態であるかが気になる。わが家からは10分ほどで到達出来るので、毎日でも確認出来ないことはないが、渡月橋から上流はめったに歩かない。ホテルが歩行者にわずかに見せる歩道沿いの庭の植え込みは、ホテルの演出によって見せてもらっているもので、歩行者はそのサービスをどう捉えてよいのか戸惑う。秋の日本の古典的な草花は平安神宮の神苑に区画が設けられていて、そっちのほうが気分よく鑑賞出来る気がする。それでもこのホテルの植え込みは花好きには目に留まり、秋たけなわの風情を感じるにはとてもよく、さまざまな植物を見栄えよく植えて育てるのはさすがの庭師で、写真家や画家のような美への感覚を持っている。親子連れがこの歩道を歩きながら、小さな子どもが桔梗の花を見て「このお花は何ていう名前?」と聞いた時、若い母親は答えられるだろうが、全部となればどうか。「そんなことどうでもいいから、さあ前を向いて歩きなさい」と注意されると、その子は母親のような大人になるだろう。何にどう興味を持つも持たないも自由で、どんなことでも、誰でも、出会って記憶に留まることは何らかの魅力を感じるからだ。
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by uuuzen | 2023-11-22 23:59 | ●新・嵐山だより
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