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●「特別な 時の思いを 託すため 物に囲まれ ゴミ家となり」
格得る 試験を経ての 職嫌い 安定なきの 男一匹」、「干からびて 軽くて脆く 人もなり まだ生きている 死んでも同じ」、「ロンドンで 拾った実の名 マロニエと 捨てて十年も 経った後知る」、「マロニエの 落ち葉描くや ゴッホ画を 見て半世紀 吾も落ち葉を」
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花の名前は比較的わかりやすいが、山は生えている樹木となればそれなりに興味を持って学ばねばわからない。何年か前に出会った女性は樹木の名前に詳しく、勉強したと言っていた。彼女は木の葉を1枚見ただけで何の木かわかるだろうか。去年11月16日に家内とアレックス・カッツ展を見に皆川淇園の弘道館を初めて訪れた時、庭の木々や石の配置、また清掃の行き届きに感心した。投稿の最後に載せた写真の左は帰途に就く直前に撮ったもので、上部に家内の足元が写っている。それを写し込んだのはおまけで、狙いは庭の踏み石の配置とその脇に3枚並ぶ落ち葉の対象であった。2枚が裏返り、1枚のみ表を向いている。急いでいたこともあって、上方にあるはずの枝を確認しなかったが、3枚はわざとそのように置かれたのではないかと思わせるほどの絵画的効果で、庭を歩く人へのサービスであるならば、その心尽くしがわかる人でなければ効果はない。たとえば一流の料亭を訪れた時、小さな鉢に入っている料理の少なさに文句を言い、器に興味を示さないような無粋な人を気にしない施設であれば全く問題はなく、弘道館にはそういう人は訪れないだろう。しかし淇園の二曲屏風の前にしばしたたずみ、その賛をそれなりに理解する人は少数派だ。ところで還暦前に死んだ先輩Nはよく働いてよく飲み、月に一度は梅田に出る筆者を食事に誘ってくれたが、梅田のビルの中ある小さな料亭で懐石料理を食べることが多かった。ミニ懐石ならひとり7000円ほどで、酒を飲んでふたりで2万円ほどで済んだ。毎月メニューと器が変わることに筆者は感心し、出て来る器と料理の調和の見事さを指摘してもNはきょとんとしている。織部や信楽、備前と言ってもNはさっぱり焼き物に興味がなく、料理を目で楽しむことを知らない。「おいしかったら一緒やん。容器は気にせえへん」「日本料理は目で味わう部分が大きいで。盛り付けにしても」と言葉を交わしながら、慎ましい雰囲気のキモノを着た高齢女性が次々に出してくれる料理を楽しんだもので、今もその店はあるのだろうか。話が脱線したが、興味がなければ美しさはわからないということだ。同じ料理を出すのに桃山時代の重文級の器とプラスティックの容器とでは見栄えが違い、味もそう感じると思いたい人はそのように生きるし、そうでない人はそれなりに生きて死に、結局何事も本人の自覚による。高齢になれば本人が変わることや他者が変えることは不可能だ。美に敏感な人は子どもの頃からそうで、その積み重ねで風格を作り上げて行く。
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 先の弘道館の庭の話に戻る。庭石の配置は固定しているので、そこに落ち葉を添えるとして、その行為は華道の心得が前提になる。またそれは絵画の構図の理論でもある。前述の写真は歩み去る家内を追いながら、庭石と落ち葉の対象があまりに美しいので慌てて撮ったが、われながらよく出来た写真と思っている。そういう写真は撮った瞬間にわかる。さて、撮影直後に表向けになっている1枚を手に取り、いつも提げている布袋にそのまま放り込んだ。葉はひんやりとしていて、まだしなやかだ。鈍い艶のある深緑地に赤やベージュの小さな円形模様がわずかに生じていて、柿の葉でも同様に色づく。適当にユズリハかと思ったが、その葉は春に新芽が出た頃に落ちるし、もっと細長くて大きい。名前がわからないのは残念だが、さほど背丈を大きくしない庭に植える広葉樹は多くはないだろう。ともかく持ち帰ろうと思って一瞬でそうした。弘道館の庭師が庭を歩く人を感動させるようにそれら3枚をわざと配したのであれば、筆者はその造作をぶち壊したことになるが、そのことに対する懺悔の気持ちが今日の投稿に混じっているのであれば、許される行為であったのではないかと勝手なことを考えるからだ。先のNとよく行った日本料理店ではないが、器に何の知識もない者が利用するのでは、店としてはせっかくのこだわりの甲斐がない。さて、拾って帰った葉はそのまま3階のパソコンのそばに置き、すぐに褐色となって乾き切った。それなりに面白い形なので大事に扱って現在に至っているが、つい先ほどその葉を3階から裏庭を見下ろしながら撮った。今日の最初がそれで、この枯れはを見ながら思い出したのは1977年1月、筆者が初めてゴッホの作品をまとめて見た時の『ヴァン・ゴッホ展』に出ていた「マロニエの葉と豆の莢」だ。ゴッホの死の前年の素描で、筆者はこの絵を忘れずにいる。最晩年のゴッホの絵は特に異様でまた涙を誘い、ゴッホの純真さの前に今はどれほど多くの傲慢で恥知らずな画家がいるかと思う。昨日雀に古米を与えるために裏庭に出ると合歓木の莢状の種子がいくつか落ちていて、そのひとつを部屋に持ち帰った。そうしてつい先ほどBの鉛筆で描いたのが今日の2枚目の写真で、右手に前述のゴッホ展図録の素描の該当ページを開いた。ゴッホと自作を比べたいのではない。筆者なりに身近な、そしていささか思い入れのあるものを取り揃えて描いてみた。名前の知らない葉は裏側のふくらみが面白くてそれを描いた。描き終わった後に合歓木の種子の莢のあることを思い出し、それを描き足したので構図はよくないが、葉は家内、莢は筆者で、どちらも高齢で干からびてはいるが直立している思いを託した。弘道館の庭にそのままにされればすぐにゴミになったはずで、筆者が描いたことは持ち帰りの罪滅ぼしになるのではないか。
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by uuuzen | 2024-10-11 15:54 | ●新・嵐山だより
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