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●「酷暑では さすがに弱る 鶏頭も 半ば日陰で 長らく咲いて」
見事と 今年も並ぶ 鶏頭の 鉢に近づき 花に声かけ」、「玄関の 脇に揃うや 鶏頭に 水やる主婦の 満ち足りた顔」、「何事も 世話の出来るは 面白き ペットや花は 夫より後」、「生き残り かけて競うや 生き物は 隙間見つけて 嵌り込もうと」、「愛情は 手間をかけると 同義なり 相手次第で まめになりたし」
●「酷暑では さすがに弱る 鶏頭も 半ば日陰で 長らく咲いて」_d0053294_14515555.jpg
3年前だったか、樫原(かたぎはら)の物集女(もづめ)街道沿いのホームセンターで葉鶏頭の苗がいくつか売られていた。100円ほどで、黄色ばかりで赤はなかったと思う。それが理由ではなく、わが家ではとても葉鶏頭を育てる場所がないので迷いながらも買わなかった。これを書き始める直前、昔毎週購入した合本製本した週間朝日『世界の植物』を本棚から取り出し、被子植物の第4巻「ケイトウ」の項目に載る写真に見とれている。黄色と赤が同じくらいの比率でまだら模様になった「ハゲイトウ」の写真が見事で、高さ1.5メートルに育つとある。写真のものは2メートルはあるように見え、最低でも数坪の土地がなければそこまで大きく、また大量に育たない。したがって郊外か、植物園、あるいは大金持ちしか無理ということだ。筆者は「ハゲイトウ」のカラフルさにも大いに関心はあるが、花の形は「トサカケイトウ」が圧倒的だ。これに勝る大型の奇妙な形の、そして頑丈な花は他にはない。花全体が丸くなる「クルメケイトウ」は豪華だが、その三次元的な形よりも二次元に近い扇型の「トサカケイトウ」の方が圧倒的におもしろく、絵になりやすい。小学生の筆者が母に路傍で咲いているその花の名前を訊ねた時、「鶏のトサカに似ているやろう。トサカケイトウと言うんやで」と教えてもらい、その後何度もそのことを反芻してはその時に見たケイトウのイメージを脳裏に浮かべ、そしてそれをより真実らしく変容させるのだが、脳内に描いては消してを繰り返し、イメージは定まらない。それは実物のケイトウがあまりに圧倒的、つまり完璧で、どう手を加えれば自作と呼べる作品が描けるのかという戸惑いがあるからだ。極端にデフォルメし、怪物的に描くと衝撃的な作品になることはわかっている。そうした作品は案外簡単に作り得るが、それは絵を描く者として卑怯なやり方だ。またそうしたデフォルメは筆者が母に名前を教えてもらった時の鶏頭の花ではない。筆者は真面目過ぎるのだろうか。しかし何か表現することには真面目が基本にあるべきではないか。筆者は家内の前で毎日何度もふざけている。真面目にそうしているのであって、「ふざけ」に通ずる「気まぐれ」や「出鱈目」ゆえではない。そして他人にはふざける姿を晒さないのであれば、真面目に見えるように真面目を意識する。それはどの植物でも同じはずだ。鶏頭は真面目に懸命に咲いて黒い仁丹の粒のような種子を残し、後は運に任せる。その潔さは真面目であることと同義だ。
●「酷暑では さすがに弱る 鶏頭も 半ば日陰で 長らく咲いて」_d0053294_14522807.jpg
 筆者の生活範囲はあまりに狭い。外出は嵯峨のスーパーに行く程度で、その道もほとんど決まっている。その世界の片隅を何乗もしたような微小な世界でも鶏頭は咲いている。毎年咲いている、いや咲かせているふたりの高齢女性がいて、両者はおそらく互いに話をしたことがなく、顔も知らない。また筆者がこうして書いていることも想像もしていないだろう。3,4年前、太秦警察署のすぐ近くの三条通り沿いでさらに高齢の女性が久留米鶏頭を毎年咲かせていた。人の背丈ほどに育ち、見事であった。筆者は写真を撮っている時にその女性と話す機会があった。「毎年見ています」と言うと、「来年もまた育てます」と笑顔で返された。しかしその頃以降その家の前を通らなくなった。自転車で三条大宮まで行く体力、気力がなくなったからだ。それで前述のように嵯峨のいくつかのスーパーを回る時に前を通る2軒となった。そのどちらの家の女性とも話をしたことがある。去年も書いたかもしれないが、今日の写真の鶏頭は玄関脇の細長い土地に植木鉢がたくさん置かれ、その半分ほどが鶏頭で埋まっている。3、4年前、立ち止まって花を見ていると、筆者より数歳若いか年上の女性が玄関から現われたので声をかけた。そうしないと不審者に思われかねない。話しかけるとこっちのペースで、彼女は「この花はそこの角を曲がった奥にある家のお婆さんからいただいた種子から育てたものです」と言い、もうそのお婆さんが亡くなったことも話してくれた。たぶん見事に咲く鶏頭を見て、彼女はお婆さんにそう言ったところ、いくらでも種子が出来るので持って帰ればいいと言われたのだろう。そして育てるといつの間にか毎年咲き、鉢が増えて行った。彼女が指し示した角の奥に鶏頭は咲いておらず、お婆さんが亡くなった後はもう世話をする人がなくなったことがわかる。そのお婆さんの思い出だけが理由ではないだろうが、今度は彼女が鶏頭を毎年咲かせるようになっている。筆者は先の太秦警察近くの久留米鶏頭は写生する気になれず、またこのお婆さん譲りの鶏頭は背丈があまりに短く、花はよくても全体像を描く気はない。それで見て楽しむだけになったままでいる。筆者が母と一緒に見たのはもっと背丈があって、筆者の目の高さほどのところに花が咲いていた。ということは1メートルほどだ。そうした品種を自分で育てたいのだ。さて、嵯峨のスーパーの途上、毎年いつも見かけるのは嵐電の駅のすぐ近くで、去年は写生し、写真も撮ったが、今年はその気が起こらない。あまりの暑さゆえで、また座って描くには危ない場所でもあるからだが、去年と全く同じように同じ形で咲いていることの理由の方が大きい。その変わらぬ姿はそれなりに立派としても、去年とは違う生長ぶりを見たいのは人情ではないか。とはいえ、自転車で走りながら筆者は必ずこじんまりと咲いているその鶏頭の花を毎回確認する。
●「酷暑では さすがに弱る 鶏頭も 半ば日陰で 長らく咲いて」_d0053294_14524932.jpg 先にスーパーへの道筋は決まっていると書いた。今日の鶏頭が咲く道はめったに通らないが、今年はある理由からもっぱら通ることになった。それは猛暑のため、歩いてではなく、自転車でスーパーに行くことにしたからだ。そうなれば急な坂を上るには、体力減退から一旦自転車から降りることになり、それが面倒で筆者の後方を走る家内は筆者には声をかけずに別の道を進み、100メートルほど先で合流するようになった。家内は「こっちの道は坂が緩やかで降りる必要はないよ」と言うので、筆者もその道を行くと確かにそうであることがわかり、そっちの道を走るようになった。今日の写真の鶏頭はその「そっちの道」沿いに咲いている。その家から50メートルほど南に「餅」の一字を墨書した円形の置き看板のある和菓子屋があって、2年前かに月見饅頭を買ったが、店主が亡くなったのか、置き看板はそのままで店に暖簾はない。家内は何度もそのことを話題にしてさびしがる。高齢になって閉店するのは止むをえない。跡継ぎがいなくてそうなる店は無数にある。和菓子はもっぱらスーパーでという時代になった。安価はよくてもそれなりの味で、日本は確かに便利にはなったが、貧しくなった。時代が進むと何事も便利になって昔の人や暮らしを憐れむ人がいるが、何でも今の時代が最高と思わない方がよい。百年先の人は現在の人の暮らしを不便に思い、憐れむかもしれず、そのことを今の人が知ると憤るだろう。それと同じで、千年前の人でもそれなりに幸福に生きた。そのことをユルスナールが『ハドリアヌス帝の回想』に書いた。人類が最も幸福であったのはローマ時代のハドリアヌス帝の治世下であったというのだが、それは奴隷でもそれなりに処遇されたからには正しいと言わねばならず、今の日本は全員がローマ時代の奴隷並みの暮らしと思えばなおさらそう感じる。筆者がスーパーの途上で見かける玄関脇の実にささやかな鶏頭の鉢を見ればなおのことそうだ。鶏頭もかわいそうだが、何もないよりはましで、その「あまりのささやかさ」は市井の和菓子屋が消えてスーパーの和菓子に代わったことにも表われている。それはともかく、貧富の差が大きくなって来ている日本では都心に広い庭を持ち、そこでカラフルなそしてさまざまな品種の葉鶏頭を育てる人はいるであろうし、いなくても経済力でそれは可能で、そういう人は王族気分の幸福をかみしめる。それは昔も同じで、今は同様の立派な花園は公立の植物園に行けばよいとの意見がある。つまりその意味で今はその気があれば公共施設で金持ちと同じ贅沢気分を味わえ、昔より幸福な時代とは言えるかもしれない。しかし幸福は個人の感情に留まり、昔や未来の人よりもそれが大きいかどうかは客観的には誰にも判断出来ない。それで結局自分の幸福を追求して、つまり自己満足して生きて行くしかない。
●「酷暑では さすがに弱る 鶏頭も 半ば日陰で 長らく咲いて」_d0053294_14532186.jpg
 今年の鶏頭に関して筆者は全く自己満足出来なかった。猛暑のせいにして充分育てられなかった愛情不足を忘れようとしているが、せめて今日の投稿のように目に染みる鶏頭の花の赤を提示してブログを華やかなものにしたい。久留米鶏頭は鶏冠鶏頭の究極の進化形と『世界の植物』の「ケイトウ」の項目に書かれる。それは素人でもわかることだ。先に鶏冠鶏頭を二次元的と書いたが、鶏冠鶏頭は久留米鶏頭の断面と言ってよい形だ。久留米鶏頭はブロッコリーのようで、では鶏冠鶏頭的なブロッコリーの品種を造れば売れるかとなれば、同じ手間をかけるからには食べる部分が多い方がいいに決まっている。しかし鶏頭の花は面白い形に見どころがあって、食べるものではない。鶏頭の花は変な形で、頭頂部がなぜくねくねとした襞状なのか。襞は普通は広げるものを畳んでいる機能を持つが、久留米鶏頭や鶏冠鶏頭の花の襞は引っ張っても広がらない。ではなぜそんな窮屈な状態を作るのか。鶏冠鶏頭の種子は花の下部の扇型の両面に密集する。種子は花が終わった後に出来るから、鶏冠鶏頭の花の重要部分は襞の部分ではなく、目立たない下部の平たい両面ということになる。実際そうで、扇型の両面に無数の小さな花が密集して咲き、そこを目当てに虫が飛来する。今年のわが家の鶏頭はシジミ蝶が毎日飛来した。小さく育ったので、小さなシジミ蝶はしみじみと地味に釣り合った眺めであったが、鶏頭の花は虫を呼び寄せる何かを風に運ばせていたのだ。わが家の今年の鶏頭からはまだ一粒も種子を採っていないが、たちまちのうちに花は枯れて種子は見えない。それはいいとして、花の頂部の襞は何の役割をしているのか。幼少の筆者が鶏頭の花に目を留めたのはその赤い襞であった。それは花弁と言ってよく、厳密に言えば花の中心ではない。虫から目立つように花弁を襞状に進化して来たとすれば、虫はその襞を「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」と認識し、長い迷路に迷い込む気分でやがて蜜を吸う代わりに花粉を身につけるのか。しかし虫の視力は人ほどでもないだろうし、襞を目の前にしてその上のくねくねを歩き回りたいとは思わないのではないか。実際そのような虫の行動を見たことがない。虫に対しての何かを発散しているのかもしれないが、そういうことは『世界の植物』には言及されない。鶏冠鶏頭は効果を狙ってその形に進化して来たはずだが、花穂頂部のくねくねは合理性があるようには見えず、謎めいている。またそのことが鶏冠鶏頭の最大の魅力になっている。筆者がこうして書く文章は鶏頭のそのくねくねした襞のように仮に他者の目に留まって無益のものと言える。では無駄な行為かと言えば、鶏頭が納得しているからには、そして筆者もそうであるからには、それでいいではないかとつまりは「自己満足」的に思う。
●「酷暑では さすがに弱る 鶏頭も 半ば日陰で 長らく咲いて」_d0053294_14534770.jpg

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by uuuzen | 2024-09-08 23:59 | ●新・嵐山だより
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