「
展開の 予測不能の 試合見て ああ面白き 人生もまた」、「何回も 読みてわからぬ 難解書 何かいいこと ある人はあり」、「絵を見ても 意味わからねど 心地よし 心ほぐすは 絵描きの仕事」、「靴を履く 理屈はいくつ まずは保護 肌のままでは 犬猫笑い」
一週間前に嵐山の福田美術館で本展を見た。同館で去年1月に『芭蕉と蕪村と若冲』展を見た時、本展の予告があった。4月19日から今月3日までの開催で、前期と後期に分けられ、作品の一部は展示替えされた。また同館から少し桂川上流沿いに建つ嵯峨嵐山文華館が第二会場となった。今日の最初のチケット画像の上は第一会場の代表作の部分図、下は第二会場のそれと思えばよい。第二会場の大部分は白沙村荘橋本関雪記念館所蔵の作品で、第一会場は同館、福田美術館、個人蔵が中心となり、京都と東京の国立近代美術館、そして西宮市大谷記念美術館などからも借りられた。六曲一双の屏風が目立ち、二館に分けての展示は関雪画の大作を存分に味わう好機であった。生誕140周年は中途半端だが、10年後に大規模展が東京で開催されるかもしれず、その準備として嵐山で展示したのではないか。風光明媚な嵐山は白沙村荘の庭園とは雰囲気は通ずるところがあり、白沙村荘が全面的に協力したのだろう。コロナ後に外国人観光客がまた急増中の嵐山だが大部分の人は福田美術館に足を運ばない。それに日本の若い世代も関雪の名を知らないか、かすかに知っていても代表作は思い浮かばないはずだ。TVやネットで騒がれないためだが、若冲ブームが20年前にあったように関雪の人気が今後沸騰することがあるのかないのかを考えるに、若冲画と違って関雪は江戸時代の文人画家の血を引き、漢学に関心のない人には絵の内容がわかりにくい。関雪はそれは欠点と思わず、誇るべき最大の特長と考えていたが、戦後日本がさらに欧風化して、漢学主義の絵画は時代遅れに見える、あるいはごく一部の中国文化好きが評価するものとなった。しかし若冲は漢学に深く染まらず、自分の目を信じて描く技術のみを磨き続けたと言ってよく、若冲あるいは応挙もだが、文人画家を敬いはするが、絵画の技術は自己流過ぎていわゆる「下手な絵」と内心思っていたのではないか。そこには文学と絵画のふたつを同時に深く追求することは土台無理な話であるのかという問題が横たわっている。漢詩を理解出来ても新たにそれを作ることはよほど深く古典を学ばねばならず、そうしている間に絵の技術はおろそかになる。誰も描けないはずという自信を深める絵の境地に至るのであれば漢詩を研究する暇はない。画家が漢詩の才能も身につけようとするならば、どちらも下手風の自己流になる可能性が大きい。しかしそれこそが文人画、南画の特質で、長年修行を重ねた職人芸的絵画をむしろ否定する。技術だけが目立つものは駄目で、高い精神性が求められる。
蕪村や池大雅の絵を下手風と評すれば大いに反論されるが、ふたりとも絵も書も達者で、一見してわかる独自の境地に達し、また突然変異のような画風、書風である点でも共通している。一見下手に見える作風であるゆえに、ふたりには大量の贋作が存在し、それだけ人気があったことを示すが、日常的に筆を持つ時代であった時代であったから、模倣しやすい画風であると思われたからだ。しかし蕪村も大雅も大量に描きあた、書くことでつかんだ独自の技術を持ち、絵も書も下手に見えながらも途轍もない上手い。蕪村も大雅も筆の動きが精神の動きと完全に一致し、自由自在に思いを表現出来た。そのため江戸時代の人が模倣する気になったとしても精神性まで真似ることは困難で、贋作はどこか歪、あるいは嫌な雰囲気をまとい、眼力のある人には即座にわかる。だが江戸時代のそうした贋作はまだ味わいがある。筆と墨、硯が日常生活から遠のいた戦後、もはや蕪村や大雅の贋作を描こうとする度胸のある、言い換えれば腕の立つ画家はいない。江戸時代に描かれた贋作の技術を上回ることは、新たに筆を持つ時代が再生して百年ほど続かない来ない限りは不可能で、時代が大きく変わって日常用いる道具が変わり、精神さえもそうなったと言える面がある。本展は副題的に「入神の技・非凡の画」という言葉があって、関雪の絵の技術が神がかっていることを説明して、漢詩に深く傾倒したことをいわば省いている。しかしチケットとチラシに印刷される関雪画の女と男は中国人であり、関雪の中国趣味を如実に示している。関雪は日本を題材にほとんど描かず、その点は日本やヨーロッパの風俗画をよく描いた堂本印象とは全く違ってファンの層はごく限られたのではないか。関雪はもちろんそのことに頓着せず、自分の絵をわかる人だけに見てほしいという気概はあった。それは絵や書は卑俗であってはならず、どこまでも高尚であるべきとの思いで、その点は蕪村や大雅、あるいは歴史に名を遺すどの画家も同じだが、市井にいても高雅な精神を忘れなかった蕪村と違って、関雪は卑俗な人物とはほとんど交わらず、近づけなかったような気がする。大画家と目される人なら誰でもとそう言えるかなれば、町中でごく普通の庶民的な暮らしをする才能のある人は京都にはたくさんいて、彼らは俗を知りながら、またそれに混じって楽しみながら、それに染まり切らない。蕪村はその代表と言ってよい。関雪は白沙村荘という別天地を自ら造り、そこに君臨して仙人の境地で描くことを目指し、市井に溢れる卑俗さとは断絶しようとした。そのことが作品にそのまま表われている。ここには俗な人と仙人的な人の差がどこにあるかという問題がある。若冲が敬愛した売茶翁な市井に生きながら仙人であった。一方、俗事に追われて高邁な思索を妨げられることはある程度は真実で、関雪が白沙村荘を求めた気持ちもわかる。
両会場とも写真撮影はおおむね許されていたが、特に目につき、ブログに載せようと思った作品のみ撮った。今日の最初の図版は姫路市立美術館が所蔵する六曲一双屏風「諸葛孔明」で、写真では左隻を上、右隻を下に配して1枚にまとめた。この作品は絵巻とは逆に左隻左端から右隻へと視線が誘導される。1916年の作で、33歳であった。作品目録に絹本著色画とあるが、墨画淡彩、もしくは墨画著色とするのがいいだろう。粉雪の降る中、左隻に馬に乗る3人を描き、赤い服を着るのがこの絵の主人公としてよい。それが諸葛孔明かと言えば、右隻に描かれる建物がどういう意味を持つかわからない。筆者は『三国志』に全く詳しくないので、この絵に描かれる故事が何であるかは知らないが、諸葛孔明で思い浮かぶのはまず有名な「三顧の礼」で、劉備が三度諸葛孔明を訪れてようやく会えたというエピソードだ。したがって左隻の赤い服の人物は期待に胸を膨らませる劉備で、その期待がかなえられるのかどうかわからない状態を右隻に静まり返った家が物語っていると考えられる。そのため本作の中心は赤い服の人物で、作品名を「劉備」とすべきだが、あえて諸葛孔明を描かないことで、劉備が三度足を運んで会える人物である諸葛孔明の孤高さをほのめかす。この故事を若い関雪が好み、こうした雪景色の中に劉備一行を点景として置くことで諸葛孔明の頼まれても容易に動かない貫禄を間接的に描いたとして、その大人物ぶりに関雪は自己投影したのであろう。とすれば若いのにかなり傲岸な性質であったことになるが、どういう思想や態度で絵画製作をするかは画家の自由であり、諸葛孔明のような人物を理想として描き続けた結果、「入神の技・非凡の画」と形容されるように現在の評価がある。理想は高く持つべしということだ。そのことを理解せねば関雪画の持ち味はわからないだろう。本作は水墨画風で、3人の馬上人物が描かれなければ明治末から大正初期にかけての文人画にありがちな月並みな作になった。これは逆に見れば、文人画の水墨風景図に特別の意味を持たせるために中国の有名な話を活用したのであって、題名から劉備が諸葛孔明を迎えに行く場面であることを知れば、もう通常の雪景色には見えない。あるいは題名も『三国志』も知らずにこの屏風の前に立った時に何を思うかだが、筆者は題名を見ずに写真を撮り、ほとんどじっくり鑑賞しなかった。そのため右隻右上隅の賛も読まず、これを書きながら「三顧の礼」かと思っているのであって、絵の前に立った時の無視出来ない心の動きが何に由来するのかが今頃わかった。つまり、何も知らないでこの絵を見た人は、小さいが目立つ絵具で描かれる3人が誰で何の用事でひっそりとした大きな家に向かっているのかと訝りながらも心が動いて印象深いのに、意味を解読すればその感動が何倍に増し、関雪の意図に関心する。
「三顧の礼」は江戸時代の文人画に作例があるかもしれない。とすれば本作の見どころは描写力となる。大画面に密に描き込む集中力は若さならではだが、本作は3人の人物を省いても鑑賞に堪える。それは前言の「月並み」に反するようだが、本作は人物を小さく描くことで自然の雄大さを強調している点で風景画と言ってよい。となれば『三国志』を知らない人でも充分に楽しめるし、関雪はそう企てたのではないか。そして知識や経験が増すたびにこの絵の魅力がよりわかるように仕組んだのであろう。ついでながら、本作は3人が川べりを進み、右隻ではその川が建物で途切れているように見える。この全体の眺めは渡月橋上流の福田美術館や嵯峨嵐山文華館のある北側からの眺めを思わせる。それに気づくと赤い服の馬上の人物は筆者で、福田美術館に入ってこの絵の前に初めて立ったことの意味が「三顧の礼」に重なり、関雪がようやく筆者に微笑んでくれた気にもなれる。次に2枚目の写真は
去年9月15日に初めて白沙村荘を訪れた時の感想を本ブログに書いた時、その入場券の写真に部分図が使われた六曲一双屏風「木蘭」の全体図だ。同作は白沙村荘ではせせこましい部屋での展示で、かなり後ろに下がっての全体図の鑑賞は出来なかったが、本展ではそれが可能であった。それで筆者は右へ左へと何度か往復しながら写真を撮ったのは、六曲屏風特有の構図を確認するためだ。写真は右隻右端から撮り、最も奥に木蘭が物思いに沈む。手前の白馬に乗った人物は木蘭を探しているのだろうが、彼と木蘭の間には太い木が立ちはだかり、また木蘭の背後にも同様の樹木が2本描かれる。久しぶりに故郷に帰った木蘭は木立に囲まれた土地にいることになり、それは馬上の人物がいる辺りとは全然違う世界で、それほどに木蘭は心を閉ざしている。つまりこの屏風を見るのに最適な場所は筆者の撮影位置だ。それは絵巻で言えば巻頭で、視線は右隻右から左隻の左へと移る。となれば先の「諸葛孔明」も右隻から左隻へと目をやるのが正しいとすれば、主役は建物の中にいて姿の見えない諸葛孔明で、3人の人物は建物のアーチのある門から屏風の一扇を隔てているだけで、門を叩くのは間近というように見えるはずだ。「木蘭」を反対に左隻左端から右隻を眺めたところ、木蘭の姿は見えず、構図はあまり意味を持たなかった。となれば関雪は六曲一双屏風を絵巻と同じように右から左へと時間が進むように描いたことになり、「諸葛孔明」の主役は題名どおりに家の中で劉備を待つ諸葛孔明で、劉備の赤い服は劉備の心よりも諸葛孔明の思いを反映しているとも考えられる。こうしたことは屏風の全面を平らに広げて撮影した写真図版からはうかがえない。屏風絵は実際にそれが鑑賞のために設置された状態、つまりジグザグと折れ曲がった状態で見なければ画家が工夫した構図、物語はよくわからない。
3枚目の写真は上が関雪、下が現存の南画家の模写で、2作は少し離れた場所に展示されていたが、比較しやすいように1枚の写真の上下に並べた。この作品は掛軸で、題名は覚えていない。「諸葛孔明」の習作の赴きがあって、同じ雪景色に馬に乗った3人の人物を描く。関雪は普段はこういう作をたくさん書いていたはずで、普通の民家に飾るには六曲一双の屏風は大き過ぎる。筆者は関雪の燕子花を描いた著色画や書の額を所有するが、そうしたいわば小品を量産するかたわら、大画面の大作を描くことで名声を広めた。一般に美術愛好家は関雪らしい作風があれば小品でも充分満足するし、保管もうやすく、よほどのかけ続けることがなければ劣化の心配もさほどすることはない。本展は個人蔵としてそうした作が二会場合わせて20点出品されたが、どこにどういう小さな優品が眠っているかは誰にもわからず、今回の個人蔵は画商を通じて所有者がわかっているものから選ばれたのだろう。さて、3枚目の作品だが、雪景色の山水図に馬を添え、関雪らしい特質が出ている。雪の白は関雪が好んだ色と言ってよく、馬だけではなく、白い猿や猫、犬をよく描いた。三島由紀夫の『仮面の告白』には汚れたものを何もかも覆い尽くす雪のことが書かれるが、雪から連想することは三島に限らず、日本では誰でも同じ思いを抱くのではないだろうか。雪は純粋の象徴でありながら、雪解け時は汚れたものが一斉に顔を覗かせ、雪を愛することは、汚れから目を背けたくなる思いをあえて隠す気持ちが混じっている。それは自己の内部にもそうした穢れがあることの自覚でもあって、またそうであるからこそ清くありたい気持ちはさらに熱烈になる。関雪が白い馬やその他の群れずに狷介で孤独な動物を描くのは、一種の自画像のつもりであったろう。それらの動物画は孤独を感じさせるよりも、充足して気高い。「木蘭」には二頭の白馬が描かれ、一頭はもう一頭の白馬に乗る男に手綱をつかまれているが、木蘭が乗っていたはずのその一頭は草を食んで木蘭の思いを妨げない。つまり馬に乗った男が木蘭のほうに向かうのをやんわりと静止している。この馬の気持ちを描いた関雪からして、他の動物画も人の思いを代弁していると考えてよい。関雪がどの動物を最もよく描いたかとなれば、代表作に限れば断然馬のはずで、そこでひとつ疑問に思うことがある。3枚目の写真に描かれる馬は人の背丈よりかなり低く、よく南画に登場する小型で、騾馬と言ってもいいだろう。その点は「諸葛孔明」でもほぼ同じように描かれるが、これは競走を得意とせず、自転車代わりの能力があればよいという考えに立った馬の図だろう。そこでたとえば「木蘭」に描かれるように古代の中国人がどういう馬に乗っていたかの疑問が湧くが、関雪もその点は悩んだであろう。
関雪は兵馬俑の発掘を知らずに死んだが、もしその数多い馬の俑を見たならば、自作の馬を描く図に大いに参考になると喜んだのではないだろうか。あるいは三彩の陶製の馬像は見たはずで、そこからも諸葛孔明時代にどういう馬が走り回っていたのかをおおよそ想像出来た。関雪の真に迫った馬の絵がどこでどういう品種が写生されたものかとなれば、すでにサラブレッドは日本にいたから描くには困らなかったが、たとえば有名な汗血馬とサラブレッドがどのように違いがあるかは研究家でもわからず、結局見栄えよく、格好のいいように描くことを優先したはずだ。それはともかく、関雪画と南画家の模写は胡粉の吹き付けによる雪の表現に大いに隔たりがあり、また馬の細部はやはり関雪のほうが断然上手い。それに画面全体から漂う密度の高さは関雪は圧倒的だ。さて次に嵯峨嵐山文華館に移動して最初に撮ったのが4枚目の3点の作品だ。上は大津絵を真似た「大黒楫舟図」で、こういうくだけた絵を描いたことは幅広い絵画を研究する過程で得た成果で、また大津絵そのものに見えながら関雪の画風を感じさせるところが面白い。大津絵風に描いて敬意を示す態度は、無名の絵師ならではの面白い味わいが連綿として受け継がれて来ている伝統を思うからであって、その伝統は素人であっても手慣れの技を見せることにあり、関雪がそうした技術を重視したことを示す。写真下の2点のうち左は「酔筆琴高仙人」で、賛は「関雪漫士 酔筆」とあるので、酒の席で描いたことがわかる。四条円山派の画風だが、関雪は応挙の写生とは違う近代感覚がある。ただしそれが百年や二百年後にどう見えるかとなれば、応挙の弟子とみなされるほどに江戸時代の絵画に近いと評されるかもしれない。下2点の右は「山姥」で、これは蘆雪にそっくり同じと言ってよい絵があって、おそらくそれを参考に描いたのだろう。しかし画面左上の賛に「蘆雪」の名はなく、蘆雪画の「山姥」を下敷きにしながらの自由模写すなわち自作との考えがあったのだろう。あるいは蘆雪「山姥」を当時実見出来ず、その写真か模写を参考にしたこともあり得る。ともかく京都に長年住む間に四条円山派の画法を身につけたことは間違いがない。またそうしなければ京都では作品が売れなかったであろう。関雪のハイカラな感じの画風は神戸生まれであることから説明出来るだろうが、日本の絵画の伝統を学ぶには京都に住むのが一番だ。そして関雪は南画家が標榜する「万巻の書を読み、千里を旅する」を実行するために中国やヨーロッパを旅し、古代ギリシアの陶器を集めるまでになった視野の広さが絵画に反映しているが、古代中国への関心を考え合わせると、伝統の革新を目指したと端的に言ってよい。新しいものは古いものがあって生まれて来るから、古いものを知らねば真に新しいものは生まれない。
第二会場で最も目を引いたのは「前田又吉追善茶会画巻」だ。その全図を7枚に分けて撮影し、歪みはあるが横長の1枚に加工した後、4段に分割したのが今日の5枚目の図版写真だ。最上段のみ自然色に近く、他は照明の当たり具合で色が全体に黄色っぽく写っている。1901年に描かれたので18歳の作となるが、細密描写はすでに大人のもので、いかに関雪の画力が早熟であったかを伝える。又吉は1830年に大阪に生まれ、93年に死んだ実業家で、京都ホテルの前身を開業し、現在の京都ホテルオークラ開業130年の2019年に、昔からあった又吉を顕彰する石碑の前に又吉とそして親交のあった伊藤博文の銅像が建てられた。又吉は神戸でも事業を展開し、関雪と知り合いになったのだろう。そして又吉の七回忌に自宅で開催された追善茶会の様子を又吉の子孫が関雪に絵巻に描くことを依頼した。有名な実業家と親しかったことから、関雪の絵画がどういう人々に購入されたかが想像出来る。金持ち相手に高額で絵画が取り引きされる有名画家は今も昔も同じ割合でいるかとなれば、今の富裕層は資産を増やすことを考えて海外のオークションで海外の画家の作品を買う場合が多く、明治の日本の実業家のように若い画家を育てる思いはほとんどないだろう。戦後は画家が有名になるにはマスメディアによく露出して顔を売る方法が現われた。「気宇」が死後になり、「神技」という言葉もすっかり忘れられたか誤解され、顔が世間に知られているというだけで肝心の作品は過大評価される。その点関雪は幸福であった。俗気のある人物を寄せつけず、ひたすら画技を深める研鑽に没入し、古代から伝わる人間の香り高い精神に同化しようとした。6枚目の写真は1918年の六曲一双屏風「閑適」で、やはり黄色っぽく写ってしまった。右隻中央に描かれる後ろ向きの人物は李白や杜甫のような詩人を思えばよい。この人物像はチケットやチラシに使われ、その椅子として使われる枝か蔦の複雑に絡み合った造形が見ものとなっているが、その複雑に絡み合った奇妙な椅子はこの人物の左手に置かれる太湖石と呼応して文人趣味を表わしている。左隻に一羽の鶴が描かれるので「林和靖図」と考えていいだろう。関雪の時代、林和靖のような「閑適」な生き方がどれほど可能であったかとなれば、白沙村荘で暮らせば十分可能であったろう。喧噪を嫌い、豊かな自然の中で一生暮らして詩作することが中国の知識人の理想であった。それは今も変わらないはずだが、それには経済基盤が欠かせないという世知辛い声が聞こえて来る。今は若くしてリタイヤし、悠々自適の人生を送ることを望むことを「FIRE」と言うが、小人が暇を持て余すとろくなことはない。それで一生あくせく働く運命にあることは案外幸福であり、たまには美術館で美しい絵を目の当りにしてせいぜい心を洗えばよい。
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