「
畑とは 人の社会も 同じなり 思い耕し あれこれ穫れり」、「毒のない 話に薬味 効かせたし くすりと笑う 駄洒落入れるか」、「長い列 並べば価値が 増す気して 宣伝過剰 儲けのこつと」、「何事も 薬になると 思うべし 損を感じて 二重の損に」
毒にも薬にもならない話をいつも投稿しているが、毒か薬かの判断は自分ではあまりわからない。毒気に当たってもそれを教訓とすれば薬になるから、考え方ひとつで何でも薬になり得るし、元来毒は薄めて使うと薬になると言われる。また毒を持っている動植物は自衛のためと、自他ともにわからない理由によっているはずで、世の中から毒をなくすことは出来ない。また人間が新たな毒を作り出して来てもいて、その最たるものは爆弾だろう。しかし火薬も使いようで、岩を粉砕することに使えば人力を大いに省けるし、夜空の花火は人を楽しませる。その伝で言えば原子力もそうだが、そこから見えることは大いに便利なもの、すなわち劇薬は毒でもあることで、その意味で人間は世界中にさまざまな毒を撒き散らして来ていて、今はマイクロ・プラスティックが今後どういう深刻な復讐を人間に及ぼすのかどうかは誰にもわからない。便利を追求した挙句、便利店が日本では至るところにあって、マイクロ・プラスティックがどこでも侵入していることアナロジーの関係にあるが、そこから見えることは広義の毒はごく身近にあって、本展開催の意義は大きいと言える。しかし本展は大阪市立自然史博物館でも開催であるから、動植物に存在する毒をテーマにする。それは環境汚染に比べるとごく些細なものに思えるが、環境汚染はあまりに身近な毒であり、また人間の営みに応ずるもので、展覧会を開催しても誰も見ないであろうし、開催に抗議する団体もきっとあるだろう。本展はテレビでの宣伝がとても目立ち、それにつられる形で筆者も見ておこうと考えた。2か月と10日の会期を先月28日に終え、筆者と家内は先月21日に出かけた。さて「毒」と聞くと毒を使った保険金殺人事件が思い浮かぶ。そうした事件を知っている人が、犯人がどのようにして毒を入手し、それをどう使って人を殺したかに関心を抱いて本展を見ても、何ら参考にならなかったはずだ。毒を使った殺人事件で筆者が真っ先に思い出すのはトリカブトを用いたものだ。WIKIPEDIAによると1986年で、三度結婚して3人の妻を保険金目当てで殺していた。事件発覚は91年で、94年に無期懲役が決まり、2012年に73歳で獄中で病死した。よく覚えているのは犯人の顔だ。優しそうであるので知り合った女性はころりと騙されたのだろうが、筆者はその男の顔の奥に何をしでかすかわからない不気味な毒気を感じたものだ。知能を悪行に使った好例だが、睡眠中に性交することが目的で女性の飲む飲料に覚せい剤を入れ、殺してしまった男もいたが、覚せい剤も毒であり、意識を失わせるものはすべてそうだ。
となると酒も毒となる。毎晩わずかに酒を飲むと長寿のための薬になると言われるが、アルコールを受け付けない体質の人もいて、毒の効き目は個人差がある。またそれは毒とされるものの種類による。話を戻して、トリカブト殺人事件の犯人は詐欺師と同じ人種であり、同様の事件は永遠になくならないだろう。一緒になった女に飽きると多額の保険金を受け取るために毒殺し、その金でまた女を釣ることを繰り返したのだが、トリカブトとフグの毒を自宅で研究し、毒殺が疑われてもアリバイがあるようにふたつの毒を調整していた。毒に関する本を読み漁り、植木屋でトリカブトの苗を鑑賞用と偽って大量に買い、またフグも同様に入手して毒を抽出していたのだが、事件を不審に思った医者が遺体の臓器や血液を保存していたおかげで犯行がばれた。一般人が専門家を騙そうとするのは無理な話で、どこかに馬脚を現わす。それはさておき、本展でトリカブトがどのように紹介されるかと半ば期待したが、花の色がすっかり抜けた枯れた植物標本が1点あっただけで、それならネットでトリカブトの写真を見たほうがよほどよい。筆者はトリカブトのカラー写真は20代前半で見て、その紫色がいかにも毒々しいと感じたものだ。花の形が確かに兜のようで、それが連なって開花する様子は夜の軍隊を連想させる。もっともそれは毒があることを知っているからで、毒がなければ、リンドウやヒヤシンスの濃い紫色と同じで、ただ美しいと思うだけだろう。若冲がトリカブトを描いたのは、毒を含むことを知りながら、使い方によっては薬となり、花は鑑賞用にはもってこいと考えたからだ。時代劇には毒殺の場面がよくあって、昔からどの植物に毒があるかは知られていた。毒はごくわずかに使うと薬になって、またある毒は別の毒を用いて中和させる話は子どもでも聞いたことがあるだろう。そのため、毒は使い方によるのであって、トリカブトは毒花の代表としても、そのことでその一風変わった形の、見方によっては美しいその花を嫌う必要はなく、庭で開花させたい人は後を絶たないであろう。同じ理由で罌粟がある。これはモルヒネを抽出するために植える人があるかもしれず、個人が罌粟の種子を購入することは出来ず、園芸会社の販売カタログにない。ただし画家が写生したい時は罌粟を育てている施設を訪れればよいと聞いたことがある。それに種子が外部に飛散して野生化している場所がままあって、おそらくトリカブトも山中に自生しているだろう。大麻草を自宅で栽培する人物がたまに摘発されるが、土と水と光があれば成長する植物を人間がすべて管理することは土台無理な話で、本人が知らないうちに大麻が裏庭で茂っていることはよくあるに違いない。植物に詳しい人でも専門が分かれているもので、他の多くの雑草に混じって大麻草があれば、それがただちにマリファナの原料になると気づくことはほとんどいないだろう。
知識のない人が毒を扱うことは危険で、薬局では劇薬は売ってはいるが、身分証明を出さなければならない場合がある。筆者は染色に使う薬品を種々所有し、中には毒になるものも何種類かある。ところが長年使わずに瓶で保管しながらどのように処分すればいいかわからないものがある。染料もその部類で、化学的に製造されたものが数グラム程度ならまだしも、1リットル近い容量の瓶にほぼいっぱい詰まっていると、2,30年も経てば瓶のラベルの文字が剥げ、中に何が入っているかわからないようになるから、使うことがないものは本腰を入れてしかるべき機関で処分してもらうことを考えねばならない。エタノールやメタノールもいくつか瓶があって、下水に流すわけに行かず、さりとて庭に撒けば植物によくないであろうから、やはりどう捨てればいいかわからない。それにエタノールとメタノールはすっかりラベルの文字が読めなくなり、どっちがどっちかわからない。そういうものを置いてある部屋に他人を入れることはほとんどしないので、盗まれて悪用されることはないとは思うが、薬品類を所有していると何となく身近に毒がある気がして、思い出すたびにどうにかしなければと焦る。また話を戻すと、毒を使った殺人事件は、ネット時代になって毒に関する知識が容易に手に入るようになっているので、昔よりも巧妙に考える人物がいるだろう。化学薬品はあまりに種類が多くて管理し切れないはずで、その隙を突いて悪だくみをする者が出て来る。たいていは保険金や遺産目当てだが、怨嗟による場合もあって、憎い存在は消し去ればよいという、子どもじみた考えによる。殺したいほどではないが、飲料に汚物を入れて陰で笑うことはままあって、昔見た映画に、学校の女性の教師が飲む水にチン〇カスを混ぜる生徒がいた。その悪さが発展すると毒を入れることになるであろうから、その映画のその場面は嫌な思い出になっている。またレストランの厨房では客に出す料理に唾を吐く料理人がたまにあるようで、そういう話を聞くと外食は危険という気になる。高級な店ほど安心と思うのはおめでたいことだ。むしろ高級店ほどとんでもないことが裏で行なわれる例をジョージ・オーウェルが書いていた。しかしスーパーで食材を買って来て自炊するにも、今はあらゆる食材が殺虫剤まみれとなり、水も安全ではなくなっている。そこにマイクロ・プラスティックや放射能の汚染が重なり、人体は無数の危険物の混合の実験場となっていて、人間は汚物の塊と言える。ネット時代になってそうした物質としての毒だけではなく、悪口を匿名で書き込む毒も大流行りとなって来て、心身ともに毒に晒される可能性が誰にもある。そういう時代であるから、本展は時機にかなったものであり、おそらく会期後半は連日超満員であったのではないか。
大阪市立自然史博物館は筆者は初めてと思っていたが、家内は昔筆者と訪れたことがあると言う。その展覧会を思い出せないが、3、40年ぶりくらいのはずで、広大な長居公園の南端を東に歩き、交差点を北に上がって途中で園内に入ってネイチャーホールを目指した。すると200メートルでは済まない人の列で、その最後尾に着いてうんざりした。最後尾を示すプラカードを持った若い男性がいて、「1時間半待ちです」と繰り返していた。実際は1時間ほどで済んだが、それでもどこがネイチャーホールの本展の入口かはさっぱりわからぬまま、青空の下に並んでいると、筆者らの後にさらに長い人の列が少しずつ出来て行った。長い列に並ぶのは誰でも嫌なものだが、京都から1時間半も電車に乗って来たからには仕方がない。それに待っていると少しずつ列は動く。筆者らの数人前に女子をふたり連れた40代半ばの夫婦がいた。それがいつの間には筆者らの直前となった。上の女の子は小学3年生くらいで、夫婦の服装は釣り合っていなかった。母親はそれなりにお洒落な身なりだが、父親は眼鏡をかけ、XLサイズの安物の白地のTシャツに黒のズボンで、妻と娘を優先し、自分は慎ましい姿でよいという雰囲気が露わであった。彼は本展を家族に見せることを一種の薬と信じているのであろう。教育的によいものを見せて学ばせることが父親の役目という自信が垣間見えたが、妻や娘たちによい効果があるかどうかはわからない。筆者はその家族を見ながら、息子が昔世話になった名古屋のNさんを思い出した。Nさんも働き者で大いに真面目であったが、妻は夫とふたりの子を捨てて大学生の男と一緒になって家を出てしまった。お似合いの夫婦に見えながら、妻は大きな不満を抱えていたのだが、その妻が毒婦であるとなれば、何度も話したことのある筆者にはそうは見えず、夫婦にかしかわからない問題があったのだろうと想像するしかない。ネイチャーホールの入口まで10数メートルほどになった時、その家族の子どもと母親はトイレに行くと言って列を外れた。すると筆者のすぐ目の前が父親で、筆者はトイレから戻って来るまでの間に話しかけた。すると彼は本展は名古屋で開催がないので、名古屋から車で来たと言う。そして本展の後は長居公園内の植物園を見て、どこかでお好み焼きを食べて帰るとのことで、なかなか見上げた父親だと思った。高速道路代や本展の入場料など、家族4人ならば1万円では済まない。父親が本展を何で知ったか知らないが、植物園も見て帰ると言うからには、自然科学に興味があるのだろう。肝心の子どもが本展をどこまで記憶するかだが、何もかも忘れても両親と名古屋から見に行ったことは長年覚えているだろう。その父親の家族サービスの思い出だけでも娘に残れば、父親は労苦が報いられたと感じる。つまり人生は先は見えないが、現在が家族が仲よく過ごすことが何よりだ。
遠方からの客は彼らだけではなかったであろうし、筆者が見たところ、普段は展覧会に関心のない、つまり美術展という狭い捉え方だが、そういう美的な教養には無関心であっても「毒」となれば知っておきたい、知っておいたほうがよいと考えるごく普通の家族やカップルが中心であった。その意味では本展は大成功で、金をかけて宣伝した元は大いに取ったであろう。見世物としては、美しいものより毒のあるものの方が庶民には人気がある現実を示しているが、そういうイカモノ性を感じさせる展示ではあっても、自然史博物館らしい展示であることは当然で、毒に関して網羅的にきちんと紹介しようという意気込みは伝わった。また先の話につながるが、毒の知識を仕入れて悪用する大人への対策はたとえばトリカブトの古びた標本で済ますように、毒殺事件に関しては全く紹介はなかったのはあたりまえのことで、毒をどう使うかではなく、毒を含む動植物を知り、それらに近寄らないことの奨励を目的としていた。人間も動物も危険なものを見かけると避ける本能がある。接近しようとする者は自らの毒を自覚するからで、誰でも毒に魅せられるところはある。さて本展の最大の呼び物は巨大な蜂や蛇などの4点の拡大模型だ。怪獣や恐竜好きの子どもが喜びながらも空想の動物でないことを一方で知っているので、恐怖を感じるには最適な展示物であろう。これらがホールに入って突き当りにお出迎えし、人々は遠方から訪れた甲斐があったことを自覚する。先の名古屋からの家族もこれらの模型の迫力を感じただけでも、ユニヴァーサル・スタジオとは違った、遊びに教育的効果が加味されていることに満足したに違いない。今日のチケットの写真を除いて最初の写真は約100倍に拡大したイラガの幼虫で、これを作った人は実物を忠実に拡大しながら、その自然の造形の脅威に痺れどうしではなかったか。2枚目はオオスズメバチで拡大率は40倍で、放射能による突然変異でこのような蜂が出現すると、人間との闘いは怪獣映画そのものとなる。3枚目はハブが口を開けたところで、30倍の拡大だが、人間を丸のみするのに充分な大きさで、筆者は鰐を思い出しながら、人間が丸のみされる現実を想像し、それはスズメバチに刺されるよりは全身をするりと体内に取り込まれる、つまり出産とは逆の方向の苦しみを帯びた快感で、そういう死に方もいいかもと思った。スズメバチに刺されるとアナフィラキシー・ショックで死ぬ人があると言われるが、それは二度目のことで、筆者は一度刺されたことがあるので、次回はどうなるのかと思う。家内は何度か刺されたことがあるが、ムヒを塗る程度で収まっていて、スズメバチのショックは人によりけりだろう。それが毒のひとつの特徴と思うが、程度の差であって、何の問題もないことはあり得ない。
模型はもう一点70倍に拡大したセイヨウイラクサがあった。これらの模型はこの博物館の常設展示に今後使われるとよいが、前回は東京で開催されたはずで、どこが主に金を出して製作したかで所有権が定まるから、落ち着き先はわからない。せっかく作ったものではあっても、置き場所に困るものであるから、保管の問題から粉々にされてゴミになる可能性もある。それはともかく、こうした拡大模型は細部を知ることによく、人間が感じる恐怖の拡大化は物の大きさがよりものを言う現実を再確認させる。そこから連想することは、若い女性が背の高い男性を好む傾向だ。それは大きい男は逞しくて頼り甲斐があるという幻想に基づくが、裏返せば大きなものは怖いという現実で、人間も百倍に拡大すればゴジラのようになって恐怖は増すだろう。そのことを日常的に蟻が感じているはずで、人間が現在の大きさになって来たことは、人間より小さなものは扱いやすく、大きなものに対しては知恵を絞って抑え込めると考えた結果であろう。小さなものが毒を持っていても、それは体の大きさからしてごくわずかであり、さほど心配するに及ばない。また人間より大きな動物はそう多くはなく、道具を操れば負けることはない。毒を制しながら薬を見出し、一方で道具を発展させてもはやどのような動物にも恐れを抱く必要はなくなったが、目に見えないウィルスは今後も未知のものが出現して来るので、それらに対抗する運命は動物である限り、また動物が生存する限りは永遠に続く。本展はウィルスについての説明はなかったが、毒の元となる成分を含有する鉱物の展示もあって、自然界の多様な毒の一覧としてはおそらくこれまでにない規模の展示であったろう。拡大模型の刺々しさからわかるが、一方では毒を持つカエルや魚、キノコ類など、色合いがけばけばしい動植物は毒が持つと言われなくても何となく毒性を感じるものだ。人間はそのことを刺青やファッションに応用している。大阪のおばちゃんの定番とされるヒョウ柄の着衣は染めた金髪や金のアクセサリーと相まって毒気のひとつの典型と言ってよいが、そこには毒を一種のユーモアを混ぜた美に変換させる思いがある。毒のあるものに近寄りたくはないが、毒には独特の魅力もあって、怖いもの見たさで近寄りたいと思わせるところもある。女性はそうした毒の効果を本能的に知っていて、男を惑わすことも毒気の効果と言い換えていいのではないか。詐欺師やホスト、やくざや芸能人といった人種も女性のそうした毒をわずかに感じさせる美意識を共有し、無垢な女性を参らせる。前述の名古屋からの家族の父親のファッションはセンスが気がかりで、いずれ妻はもっと格好いいと思える男に心を寄せるのではないかといらぬ心配をした。女が毒のある男に魅せられる、あるいは毒を感じさせる男に女が関心を抱くのは古今東西真実ではないだろうか。
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