「
暖かき 冬になればと 願いつつ 寒さ頼みの 炭屋に済まぬ」、「大らかな 体と笑みで 人気者 嫌なこと見ず 嫌味を言わず」、「布袋さん 袋に隠す 悲しみは 誰にも見せず 年々増えて」、「布袋像 並べて想う 散歩かな 伏見街道 うららかな日の」
11月5日に家内と豊中の「原田しろあと館」に行き、そこで
461モンブランの演奏会を最前列で見た後、服部天神駅まで歩き、駅のすぐ東側にある服部天神宮に訪れた。それらのことは先月8日と
13,
14日に写真とともに投稿した。数日前、たまたまネットで5日の演奏会のことを調べていると、「とよなか・歴史と文化の会」のサイトの「ニュース」欄にその演奏会の写真が載せられていた。最前列の客席に帽子を被った筆者と家内が並んで写っていて、これはいつ撮影されたか知らないが、その写真から筆者らと461モンブランのふたりをトリミングして、思い出として今日は最初に載せる。筆者と家内が写っているからには、そして他の人は省いたので、たぶん著作権は大丈夫だろう。さて、次の話。服部天神宮について書いた時、迷いながら1枚の写真を省いた。今日の2枚目の上の写真がそれで、布袋の石の座像で、拝殿の際に置かれていた。その置台なのか、461モンブランの山下カナさんが奏でる楽器のコンサーティーナと同じ六角形をした石の板2枚がそばにあるなど、掃除もしくは設置作業の途中のようで、その雑然とした雰囲気のためもあって投稿に使わなかった。それに服部天神宮と布袋像の関係がわからない。人がたくさん集まる神社であり、またおめでたいものは歓迎なので、天神社に布袋像があってもかまわないが、それでもどうも腑に落ちない。この布袋像が寄贈されたものであれば、どこかに置かねばならず、その場所に困っている風が多少感じられる。服部天神宮にはたぶんもう行くことはないので、この布袋像がその後どうなるかはわからないが、先月14日に投稿した4枚目の写真が示すように、境内には「稲荷大明神」が祀られ、伏見の稲荷大社と真似た朱色の鳥居の列もある。稲荷は商売の神様であるから、大きな神社ではたいていその摂社があって、服部天神宮にあることは何の不思議もない。つまり布袋像は稲荷社とのつながりで置かれているのかもしれない。そうなれば一昨日投稿した伏見の本町通りの伏見街道と、服部天神宮のある能勢街道とが直接ではないにしろ、つながっていることがわかる。これは当然のことで、京都や大阪の古い街道はみな宿場町を介してつながっていて、それぞれの地域の産物が相互に移動した。伏見稲荷の総本山の大社は伏見街道筋の社寺では最大かつ最も有名で、同じ本町通りの稲荷大社からわずかに北上した辺りには江戸時代は多くの伏見人形を製造販売する店が並んでいて、現在その面影は唯一残っている「丹嘉」にあり、同店は今でも伏見人形を手作りしている。
2枚目の写真の下は服部天神宮の布袋の座像と同じ格好をした無彩色の布袋像で、本町通り沿いの伏見人形店でかつて作られたものだ。同じ座像ながら服部天神宮のものは右手に軍配型の団扇を持つが、これは何も持たない。それは些細な差異で、布袋像の大きな特徴は破顔だ。立ち姿でもそれが最重要な要素だ。また立像では必ず団扇を持つ姿で象られ、2枚目の写真の背後左の煤で真っ黒に変色した布袋像は、腹の前に団扇を横向きに持つ。この布袋像は稲荷大社前のとある店で製造され、たぶん百年は経っているが、現在もわずかに作り続けてられている。座像の元になったものは東福寺の開山堂にあるもので、それを象った小さな土人形も筆者は所有するが、2枚目の下の写真はそのもっと大きなもので、東福寺から街道をもう少し南下した伏見人形の工房で模造された。それらの店は農閑期に片手間に製造し、伏見街道を往来する旅人に買われ、また舟で全国に運ばれて、各地で同様の土人形が作られるようになった。その原点が東福寺や伏見稲荷大社で、伏見街道は日本の土人形の発祥地だ。「丹嘉」の店内には「土師」と染め抜かれた暖簾が昔はかかっていた。土師氏は渡来人で、日本の土人形は大陸からもたらされた。最初は埴輪にその技術が応用されたが、古代中国では副葬品に小型のさまざまな種類の陶製人形を製造し、その技術がやがて伏見人形になったと考えてよい。江戸時代の屋敷などの発掘の際、彩色が剥げた素焼きの土人形がしばしば出土する。それらの形は現在の伏見人形そのままで、建物や家具調度、それに人骨が消えても土人形だけがそのままの形で発掘されることは古代中国の人々の考えの正しさを伝える。布袋像はもちろん中国から来たものだが、韓国にもあって、また筆者は昔フランクフルトの骨董者のウィンドウでも見たことがあって国際的に知られている。京都では江戸時代に伏見人形の代表として布袋像が無数に焼かれ、「火伏せの神」として主に台所に飾られた。2枚目下の写真の布袋立像が真っ黒になっているのは竈のそばに長年置かれたからだ。今日の3枚目の写真は
3日前に投稿した3枚目の写真の掛軸の下半分だ。絵も賛も生田花朝の父であった南水のもので、布袋の立像を描く。これは伏見人形の布袋像の最もよく知られる型だ。南水の俳画は画題が狭いようだが、独特の優しい眼差しは人格をよく伝える。骨董的価値は掛軸一本で数千円で買えるが、それがまたよい。美術館に保存されずに愛好家が伝えて行けばよい。美術品は本来そういうもので、歴史的には美術館が出現したのはごく最近だ。南水は「百済」の号も用い、伏見人形の始祖が渡来人であったことを思っていたのだろう。また南水が伏見街道を気分よく歩いたことは確実だが、筆者も先月5日は461モンブランの演奏会の後、気分よく豊中の街を南下し、服部天神宮を訪れ、そして同じように今月1日は伏見街道を歩いた。
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