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●神社の造形―瀧尾神社
鬨を 上げれば続く 雄鶏の 鬨を合わせる けっこうな声」、「本町の 通りを北に 東福寺 やがて瀧尾の 鳥居が迎え」、「京阪の 線路に沿いし 街道の 伏見稲荷に 人の津波が」、「歴史好き 一度は歩け 伏見まで 東山から 二時間ほどを」
●神社の造形―瀧尾神社_b0419387_15125616.jpg
今月1日は京博で『東福寺展』を見た後、東福寺まで歩き、帰りは西門から出て本町通りを北上した。そのことは昨日書いたが、今日はそれに関連したことを書く。本町通りはJRの線路をまたぐ歩道橋で分断されていて、そこは江戸時代の風情は全くないが、七条と伏見稲荷の間はJRと京阪電車が並んで走っていることはうまく設計されたもので、伏見から洛中に至るまでの間はなるべく昔のまま残しておこうという先人の意識が見える。もっともそれは東福寺の境内が本町通りに接し、本町通りの拡幅や、逆に狭めることは不可能であったからでもあろう。江戸時代の伏見は三十石舟を使って大阪天満と結ばれていたので、京都人が大阪に出るには西国街道を歩かずに今の中書島から舟に乗った。若冲もそのようにして大阪に行き、本町通りすなわち伏見街道は皆川淇園や円山応挙など、京都に住む人は誰でも一度は歩いたはずだ。木造の建物はまだ残り、現在の本町通りは江戸時代の空気をかなり保っているだろう。筆者は毎年十日ゑびすの際、四条通りの大和大路から下り、やがて左に建仁寺、そして右手にゑびす神社が見えて来ると、そのまま南下して京博のそばを通過し、東福寺から伏見稲荷、さらに南に足を延ばして中書島で行ってみようかという気になることがある。2時間ほどで歩けるので、遠足気分にはちょうどよい。京阪中書島駅から昔は市電のターミナルでもあって、市電を乗り継いで京都駅まで行ったことが少年時代にあったが、今はバスが走り、また健脚であれば社寺に立ち寄りながら歩くことも出来る。そのように思う人にとっては伏見街道の大部分が江戸時代のままにあることはとてもありがたい。地図を見ると本町通りは確かにJRの上を跨ぐが、新本町通りがその西側に並行し、JRの下をくぐる。どちらにしてもJRの線路のために街道は分断されていて、七条通り辺りがいわば純粋の京都と、その南部の伏見を分け隔てている。これは東海道線の線路を敷く際に歴史的経緯をよく考えての敷設で、東福寺から北に数百メートルのところにJRが立ちはだかる状態は無粋ではあるが、街の境界がはっきりと目に見える形で示され、両地域の文化の差異がより認識されるようになったのではないか。それで筆者が伏見街道で最も好きな区間は伏見稲荷から東福寺の西門辺りまでの間で、これまで3,4回歩いている。東福寺まで北上するとそこからすぐに京阪電車の東福寺駅から乗れるが、筆者はさらに遠方まで到達出来る市バスを利用する。つまり本町通りを伏見稲荷から北上し、JRの線路までは確か一度しか歩いたことないと思う。今月1日はその二度目であった。
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 それが理由でもないが、1日は本町通りを北上しながら東福寺駅前の本町通り沿いのラーメン店で空腹を満たした後、三叉路に着くわずかに手前の東側に鳥居を見かけた。そして撮ったのが今日の3枚の写真だが、境内には入らなかった。家内を待たせていたので拝殿の前に立つ気が起こらず、また詳細は帰宅して調べればよいと思ったからだ。それに夕暮れが迫っていたからでもある。この瀧尾神社の400メートル北東に新熊野神社があって、5年前にそこを訪れたことは本ブログに3回に分けて書いた。キモノの仕立てを頼んでいたTさんがその神社から徒歩10分の山手に住んでいて、ある日、一度は境内をじっくりと見ておこうと思ったのだ。Tさんは3年前に亡くなったようで、はがきを送ると住所不明で返送され、家まで行くと表札が外されていた。Tさんの家の2階が仕立て部屋で、そのとても小さな窓から見える東方に寺の墓地がまともに見えたが、もうその光景を見ることはない。新熊野神社に行くついでもないだろう。それはともかく、WIKIPEDIAによれば瀧尾神社は平安末期に「武鶏之社」としてすでに存在し、応仁の乱で焼けた後、吉坂に移って「多景の社」となり、それが秀吉の方広寺大仏の建立によって現在地に遷座し、秀吉没後1世紀ほど経って「瀧尾神社」と改名された。「武鶏」が「多景」、そして「瀧尾」と変化して来て、どの名前も面白いが、伏見街道沿いのこの付近に滝はないので、「武鶏」がいいように思う。吉坂は舞鶴にあって、そこでは「多景」の名はふさわしかったのだろうが、江戸時代の伏見街道沿いでは多くのよい眺めが得られたのかどうか。JRと京阪電車が走って、江戸時代の眺めは想像しにくい。またこの神社は大丸の創業者の下村彦右衛門正啓が伏見の京町から行商に行く際、毎朝参詣し、大丸と縁が深いとされる。そう言えば今日の3枚目の写真の右端に「大丸」の文字を記した提灯が見える。伏見街道を洛中の中心、現在の大丸百貨店辺りまで歩いて通っていた姿が想像出来るが、それほどに市中と伏見は徒歩圏内として密接につながっていた。彦右衛門正啓の菩提寺は伏見深草の宝塔寺で、大丸は今も下村家一族の菩提を弔っているという。WIKIPEDIAにはさらに興味深いことが書かれる。拝殿の天井に全長8メートルの龍の木彫りが貼りついていることだが、拝殿の間近に行っても夕暮れでは見えなかったであろう。江戸後期の彫り物師、九山新太郎の作で、子孫は代々新之丞を名乗り、一派は祇園祭の大船鉾の龍頭を手がけたという。また大船鉾は2016年に復元され、その際新之丞は瀧尾神社の拝殿の龍を参考にして龍頭を復元した。筆者は2014年7月に大船鉾を見に行き、またそれに搭乗もしたが、その当時は全体は白木のままで龍の頭部も舟の形をした鉾の先端にはなかった。それはいいとして、京都の奥深い歴史がこういう目立たない神社にもある。
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by uuuzen | 2023-12-07 23:59 | ●神社の造形
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