「
賀状の絵 次は龍かと 思い立ち 龍王祀る 神社を探し」、「服部は 忍者に因み 街起こし 伊賀や甲賀に 漫画と言われ」、「服部の 巨大な緑地 あるはよし あまり知られず それもまたよし」、「境内を 通り抜けるや 地元人 いつもぴりりと 神様感じ」

今日は
先週9日の投稿の続きを書く。「原田しろあと館」を出た後、往路とは違って、スーパーに立ち寄りながらひとつ南の服部天神駅まで歩いた。阪急宝塚線はあまり乗らないが、乗ればこの駅がいつも気になり、かなり昔から服部天神宮に訪れたいと思っていた。ちょうどいい具合にその機会が今月5日に訪れた。昔はこの駅は「服部」のみであったが、いつの間にか「服部天神」と改名された。同じことは京都嵐山線の「松尾」が「松尾大社」になったことと同じで、駅からすぐのところの社寺があれば、その紹介を兼ねた駅名のほうがいいと、該当する社寺から要望があったのかもしれない。阪急はそのほかに同じ例として「長岡天神」、「総持寺」、「崇禅寺」、「門戸厄神」、「清荒神」、「中山観音」、「売布神社」があって、筆者は「売布神社」と「崇禅寺」以外はすべて訪れたことがある。松尾大社や服部天神宮は駅からすぐのところにあるが、上記の社寺はそうとは限らない。となれば駅により近い社寺が文句を言いそうであるし、また社寺名のついていない他の駅ならば、地元の社寺が駅名に使ってほしいとの要望を出すかもしれない。阪急電鉄はそういうことを公表していないが、実際にあるのではないか。豊中市の「服部」の地名は大阪人ならば最初に「服部緑地」で記憶して来たはずで、筆者は20代半ばに一度そこを訪れたが、どのような交通手段で、また何の目的で行ったのかほとんど記憶にない。あまりに広くて何もなかったからだが、最近TVで紹介していたのは、日本の古い茅葺の民家をいくつか移設して展示している区域が園内の北部にあって、それは見たいと思ったが、服部天神駅からはかなり遠いだろう。というのは今回服部天神を訪れて知ったが、街中の神社で、大阪曽根崎の霰天神社を思わせた。霰天神は飲み屋街にあって、服部天神はそこまで賑わいはないが、境内の西端に至ると、その向こうは店舗が並ぶ狭い参道、そしてそのさらに向こうは車がひっきりなしに通る大きな道路で、境内の東端より街中の雰囲気ははるかに濃厚であった。だが、境内の広さは何倍もある松尾大社のように、周辺が静かな住宅地であるのとは違って、筆者はその生活感溢れる雰囲気は好きだ。というのは、自然と一体化した松尾大社とは違って、庶民の生活空間に強引に割り込んでいる感じがあるからだ。それだけ地元住民に親しまれている様子はたとえば今日の3枚目の写真の上から3枚目からわかる。高齢女性が境内の東に向かって買い物車を押していて、境内外の道路を使うよりも近道なのだろう。自転車は禁止でも、乳母車や買い物車は許される。

豊中市内に天神社があるのはなぜかと思うに、菅原道真が大宰府に左遷されて赴く途中でこの場所でしばし休んだからで、駒札にその旨が書かれていた。休んだだけで祭神として崇められるのかと腑に落ちないが、WIKIPEDIAにはその説明がある。この神社は道真から4世紀前の5世紀初頭に起源があり、京都太秦と同じく渡来人の秦氏の集団が住みつき、薬の神様「少彦名命(すくなひこなのみこと)」を祀ったとされる説と、秦氏ではなく伊豆の麻羅足尼が当時の天皇からこの地を賜り、彼らの祖神が「少彦名命」であったとする説があるが、いずれにしても「少彦名命」は外来の神で、帰化人が関係していたことは確実だろう。その後道真の百年前に道真と同じように大宰府に左遷された藤原魚名は「川辺荘」で病に臥したとあるが、「川辺」の川がどの川かわからないものの、現在の服部であったはずで、遺体が天神を祀る路傍の祠に葬られた。その墓は現在の服部天神宮の境内に残っているとされるが、筆者は見なかった。魚名が死んで百年ほど経って道真が大宰府に向かう途中、脚気から歩けなくなり、天神祠と魚名を祀る五輪塔を拝むと病が治り、また旅立つことが出来た。道真の没後、天神信仰が高まり、そして道真を合祀して「服部天神宮」と呼ばれるようになったとされる。最初に薬の神を祀ったので、道真の脚気が治ったことは理にかなっているが、道真の治癒から、「足の神様」として信仰を集め、それで現在の境内には今日の3,4枚目の写真が示すように、人の背丈以上の下駄のオブジェや下駄の絵馬が「下駄回廊」と命名されて境内中央にある。駒札の説明にあったが、この神社は能勢街道の宿場町として江戸後期には門前が栄え、旅する人が多かった。となれば歩くしなかった当時は足を痛める人もよくいたはずで、その治癒を祈願してこの神社にお参りする人も多く、神社としては経験上手であった。能勢街道は大阪中津から北西に伸び、能勢の妙見まで続き、これは現在の阪急宝塚線の池田駅や次の川西能勢口駅から北東に伸びる能勢電鉄とほぼ同じルートであろう。また池田駅からひとつ大阪寄りの石橋駅で西国街道と交わるが、道真は京都からどの道を利用して服部天神まで着いたのだろう。庶民ならば西国街道を歩くが、貴族は舟が利用出来る場合はそれを使ったはずで、淀川を下り、大阪湾から瀬戸内海を舟で進んだと思っていたがどうやらそうではない。となれば西国街道を石橋まで歩き、そこから能勢街道を南下して服部天神まで行き、その先は三国で神崎川を舟で下って大阪湾に出たかもしれない。石橋から服部まで下れば、石橋から西国街道を西進し、門戸厄神から西宮神社を経て兵庫津まで行く道筋よりも遠回りになるからだ。これは道真にまつわる他の話を調べるべきだが、江戸時代に大阪湾は大きく様変わりし、明治に淀川も流れが変わったので、古地図を参照しなければならない。

妙見山は一度訪れたいと思いながらそのままになっている。西国街道歩きでさえ、京都から神戸までの間をおそらくまだ半分も踏破しておらず、能勢街道や伊丹街道に関心を抱く気持ちの余裕がない。それでも西国街道がらみでおぼろげに知っていた点と点が少しずつつながって来ている。焦らずに寄り道しながら思いを遂げればよく、今後の西国街道歩きによって何を発見し、何に新たに関心を持つかは自分でもわからない。服部天神宮が「足の神様」として知られるからには、西国街道歩きをしている筆者にはちょうどよかった。筆者は車に乗らず、割合よく歩いているつもりだが、70代半ばは体力の分かれ目という話を聞くたびに、それがどれほど正しいのかと心の片隅でおののきはする。梅津の従姉は夫婦でよく嵐山まで運動のために歩いていたのに、それをぱたりとやめたのが60代で、その後移動手段は夫が運転する車となった。そうなると体力の衰えが早かったようで、70歳頃に両足が膝のところで外側に湾曲し、一歩ごとに体を左右に揺するようになった。若い頃から車移動があたりまえになっている女性は60代でそのような姿になっている場合を見かける。男がそうならないのはホルモンの関係か、子どもを2,3人産んだ女性は骨の劣化が早いのだろう。梅津の従姉は70代前半でほとんど歩けなくなったが、そうなってから「若い頃にあれだけたくさん散歩したけど、何の役にも立たなかった」という言葉を聞き、筆者は「それをずっと続けるべきであったのに」とは言わない。従姉の言葉は全くの間違いとは言えないからで、同じ年齢に達してみなければわからない問題だ。健康維持に毎日一万歩を歩いている人も、歩き過ぎで足を痛めることは大いにあり得る。高齢者が脚力を維持するのに歩きはいいとしても、その限度は個人差がある。誰でもいつかは歩けなくなる。そう思うと近場ではあるが、西国街道歩きは気分転換によく、新たな発見があって精神の若さを保つにはいいだろう。筆者は見知らぬ街を歩く夢をよく見て、目的地がわからず、あるいはぼんやりわかっていてもそこに絶対に到達出来ないままに目覚める。それは筆者の現実の生活を反映しているようで、何を目的に生きているのかと考えさせもする。誰でも生きている限りは実際に歩く、あるいは思いがそのように彷徨い、憧れのみで最終の目的地を目指しているのではない。あるいはその目的地がたとえば長年気がかりであった服部天神であったとして、そこに着けば家に帰らねばならず、そこからまた新たな目的地がいくつも出現する。最終目的地が死であることは誰でも知っているが、まさかそこにすぐに到達したい思いは、元気と意欲がある間は誰にもない。曲がった腰で買い物車を押す老婆でも、神社の境内を横切る時は生や足の神に感謝する。

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