「
ふたりとも 道を知らずに 歩み行く スマホあっても 先はわからず」、「ワンと鳴き そうかお前は 一番か あるいはひとりか 吾は友なり」、「元気出せ 蘇鉄立派に 葉を広げ 吾に語るや 聞こえぬ声で」、「悪夢から 目覚めてしばし 気は沈み 無意味に気づき いつもの元気」
今日の最初の2枚の写真は4日前、3枚目は3日前に撮った。出歩くとたまに蘇鉄に気づき、カメラを持っていると必ず撮影する。持たない場合はたいていいつまでも覚えているが、比較的近くであっても何かのついでがない限り、その場所に行くことがなく、長らくそのままになる。そのため、シリーズ化している蘇鉄の写真のこの投稿は、目撃した順ではなく、埋め草的にたまに思い出しては撮りためた写真を使う場合がある。筆者にとって投稿の順序は割合どうでもよく、それで過去に遡っての投稿がある。また投稿の際に写真を撮った時のことを中心に、どこでどう行動し、何を思ったかについてはよく覚えていることがほとんどで、投稿が仮に一年遅れても、書いている時の気持ちは一年前と同じと言ってよい。またそういう感覚を身につけると、時間の推移をさほど感じなくなり、タイムマシーンに乗って過去のどの時刻にも飛べる気がする。もちろん月日が経つと経験が増えるので、ある日に投稿すべきことを1年後に思い出して書くと、そこに時間の推移による齟齬が入り込むだろうが、過去に遡っての投稿はその過去の気分になって書くので、齟齬は自覚出来ない。筆者が有名人であれば、あるブログの投稿がその日に書かれたものではなく、かなり月日が経ってのものという理由を文章の細部や他の投稿との不整合さから見破るだろうが、そういう熱心な読者を持たない筆者は何年でも遡ってその日の気分で文章が書ける気がしている。これは見方によっては成長せずに数年前からそのまま止まっていることを意味するが、たまに自分が10数年前に書いた文章を読むと、まるで今書いたような気分がすることがあって、筆者の成長はかなり昔からストップしたままなのだろう。退化しているとは思いたくないが、さりとて成長はごくわずかであるはずで、ちょうど蘇鉄のそれになぞらえ得る気がしている。蘇鉄のいいところは成長がとても遅いことだ。辛気臭いと言えばそうだが、ごくわずかずつでも成長が確実にわかる植物は何となく頼もしい。しかし蘇鉄はとても大きく成長するので、貧乏人向きではない。筆者はついに経済的な成功を得られなかったので、蘇鉄のことを思えばすまない気持ちになる。それで大切に育ててくれる人があればもらってほしいが、生きている間はそばに置いて眺めたく、譲るタイミングが難しい。これは抱えている多くのモノを処分することもそうで、家内はもういい年齢になって来たので長年捨てずにため込んだものを少しずつでもどうにかしろとうるさい。そこに蘇鉄も入っているだろう。
さて、最初の2枚は東福寺とその近くの喫茶店の前で撮った。2枚目は店の主の蘇鉄好きがわかる。これほど葉を広げると扱いに困るが、他の植木鉢はそっちのけで、堂々と伸びさせている。こうなれば意識しない人にも心の中に蘇鉄は入り込み、この店を思うと蘇鉄も意識に浮かび上がる。どんな植物にもそういう力があるが、蘇鉄はきれいな花を咲かせない分、無視されずに案外記憶されやすいのではないか。もっともそれは植物に関心のある人に限り、その伝で言えばあらゆるものがそうで、人間は関心を持ったもので意識を形成する。しかし無意識が必ず一方にはあって、その中に蘇鉄は場所を占めやすいと筆者は思う。3枚目の写真は嵯峨のスーパーの途中の民家で、以前から見かけながらようやく撮った。そのため以前に投稿したかもしれないが、そうであっても以前の写真と比較出来る利点がある。どうでもいいことを書いているついでに話を進めると、この3枚目の蘇鉄から100メートルほど離れた民家に70代後半の眼鏡をかけた黒髪の男性が住んでいて、
以前に書いたことがあるが、2年ほど前から数か月に一度顔を合わせるようになった。サラリーマンを勤め上げたようなそのごく普通の男性は、玄関の外にしゃがんでいつもたばこを吸っていて、筆者らが通り過ぎる時に軽く会釈するようになった。筆者も即座に軽くお辞儀して通り過ぎるのだが、ある日の夕方、40代半ばらしき娘さんがちょうどやって来たところに遭遇した。男性は筆者らを見ずに、「ああ、〇〇子か、帰って来てくれたんやな」と小さな声で言いながらふたりで家の中に消えた。家には表札がなく、名刺サイズの紙片にその男性の名前を書いて扉にくくりつけてあり、生活感は乏しい。ひとり住まいであろう。やって来た娘さんはかなり不機嫌そうであった。それから男性の姿を何度か見て、以前と同じように会釈し合っていたが、最近姿を見なくなり、家の中に灯りがついていない。氏名を記した紙はそのままで、入院したのか、別の場所に移住したのか、家の前を通りがかるたびに気になる。男性は筆者と家内がいつもふたりでスーパーに向かっていることを手提げ鞄から知っていたはずで、仲のよさそうな姿に何となく親しみを覚えていたのではないかと想像する。玄関前はすぐに道路で、植木鉢のひとつもなく、あまりに殺風景で、内部も同じようにがらんとしているのだろう。男のひとり暮らしではそうなりがちで、せめて植物を毎日愛でる趣味があれば生活に張りが出たのではないか。だが家が道路際ぎりぎりに建っているのでは無理か。モノをほとんど持たないミニマル主義者が今は格好いいとされているようだが、筆者はさびしくて耐えられない。とはいえゴミ屋敷になることだけは避けねばならず、その程度が難しい。筆者も家内も掃除下手であるからだ。それで至るところに本が置いてある。
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