「
使い手の よくなきことも 利点あり 注意と工夫 する気起こさせ」、「人と物 生まれし時の 色を帯び やがて懐かし 珍しきかな」、「さびしきや 空き家の扉 開かぬまま 人の出入りの なきまま廃れ」、「わずかでも 言葉交わして 気の晴れる 気持ちよき人 指折り数え」
今月5日に豊中市の「原田しろあと館」に家内と出かけた。阪急の曽根駅で降りて北西に10分ほど歩いた山手にある。それで461モンブランの演奏会があったことは先日書いた。筆者らがほとんど一番乗りで、演奏の前に館内を見て回って写真を撮った。古い和洋折衷の家屋で、昭和30年代の映画に出て来そうだ。しかし広い庭があって大阪市内では当時これほどの広い家に住んだ人は住吉区や平野区辺りくらいしかなかったのではないかと思う。あるいは天王寺区や阿倍野区も含めてよいが、地主で古くから代々住む人に限られたはずだ。部屋数の多い家に住むことが金持ちの象徴と普通は思うだろうが、贅沢なのは手入れをされた庭の広さで、この「原田しろあと館」と命名された施設は写真からわかるように廊下から庭が見え、その向こうに別の家はない。これは原田城跡に昭和12年に建てられた家で、家主は住友系の会社役員の羽室廣一であったが、彼の一族がどういう経緯でこの建物を手放し、豊中市が管理することになったのかその経緯は知らない。城跡の中に土地を購入して家を建てるのは、市を代表する大金持ちであったと言ってよいが、百年経たずに誰も住まなくなった。継ぐ者がいなくなればそうなるし、相続税の関係で市に物納したとも考えられる。市のサイトによれば2009年に改修工事を終え、「NPO法人・とよなか歴史と文化の会」に委託されて現在に至っている。「NPO」は「利益なしで活動する組織」の意味で、「原田しろあと館」は地元のシニア世代がボランティアで活動しているはずで、またそれはある程度時間と金にゆとりのある人々が携わっていると見てよい。話は変わるが、10年ほど前、ネット・オークションで若い姉弟と知り合った。京都市内在住でふたりは品がよくて育ちがよさそうで、弟とは何度か会って言葉を交わしたことがあるし、また無料で美術出版社刊『巨匠のシリーズ』や昭和30年代の美術全集をわが家に届けてくれたこともある。彼らはNPO法人を運営していて、高齢者が処分に困っているものを引き取っていたが、ネット・オークションに出品して利益を得るのであるから、NPOを名乗ることに首をかしげた。姉は古い軽四自動車に乗っていて、あまり裕福には見えなかったが、品物を実質集め回っている弟は別の車に乗り、また平日の昼間に何度か会ったので、働きに出ずにNPOの活動のみをしている様子であった。つまり断捨離したい人から不要物を受け取って換金していたが、そのどこまでが非営利であるのかと思ったものだ。
5日の演奏会では筆者と家内は最前列に座り、家内の隣りに品のよい70代後半の女性が座った。「原田しろあと館」(以下、本館)のすぐ近くに住む彼女は、以前は毎月東京のN響のコンサートに出かけていたと語ったので、文化に大いに関心があり、また裕福であることがわかったが、ご主人は本館での子どもを対象にした催しに携わっていて、おそらくご夫婦で本館のNPO法人の中心人物となっていると想像する。もちろんふたりだけでは法人資格は下りないので、他にもっといるはずの人々との間で役割を分担して本館での文化活動を主催している。城跡に建てられた本館であるので、遺跡発掘のために本館を取り壊す意見が出なかったのかと思うが、本館が地震で壊れたり、老朽具合が著しくなったりすると、保存とりは取り壊しがなされる話も出て来るはずで、本館下の発掘はその時まで待てばよいとの考えが役所にあるかもしれない。つまり使える建物があって、それを有効利用したいという人々がいる間はせいぜい活用すればよい。また恒久的な美術館として使えないかと筆者は思うが、作品の盗難の可能性は高く、防犯に費用をかけてまでは利用価値は少ないだろう。それに豊中の郷土の画家として名を挙げた人がいるのかどうかだ。では一般の美術愛好家や画家に展示場所として貸す方法があるが、それを本館のNPOがやっていると考えてよい。461モンブランの演奏会があった部屋は庭に面して日の光がよく入る「サン・ルーム」で、演奏を聴くのに500円支払ったが、それは今日の2枚目の上の写真が示す隣室の台所のような部屋でコーヒーなどの飲料代を含んでのことで、その支出を差し引いた金額の入場者数分が461モンブランのギャラとなったのだろう。つまり非営利を守っている。2枚目の下の写真は最大の広間で、写真に大きな龍の紙細工が陣取っていた。ある切り紙作家の作品展示で、小品として2枚目上の写真の部屋に筆者の左右対称の切り絵を思わせる小品の妖怪シリーズが飾ってあった。それらの写真を撮らなかったが、子どもが使う色紙をふたつ折りして小さな挟みで切り抜いたもので、完全に左右対称ではなく、ほとんど完成した時に紙を広げて部分を切り抜いてあった。その手法を筆者も左右対称の切り絵を始めた当初は使ったが、その例外的切り方を頻繁に用いるとせっかくの左右対称の面白み、あるいはそれがマンネリ化して面白くなる可能性は大いにあるが、厳格な左右対称ならではの個性を重視する立場からは、その規則を破ると途端に作品は曖昧化してしまう気がする。写真を撮らなかったのでこれ以上は説明しないが、筆者の左右対称の切り絵とは違った、枠に嵌らない面白さは妖怪の画題を伴って確かにあった。ただし、大型の龍の作品は労苦はわかるが、面白みは感じなかった。平面的な作品と違って立体となれば迫力は増すだろうが、紙で作る意図がわかりにくくなる。
2階は見学出来ないようで、2階から庭を見下ろしたかったのでそれは残念であったが、今日の3枚目以降の写真から1階の様子はわかるだろう。床の間には書や南画の掛軸が飾ってあって、羽室一家が遺したものだろう。さほど価値のないものであることはすぐにわかるが、こうした掛軸は必需品で、床の間のある家ならどこでも季節ごとに掛軸をかけ換えたもので、それらの美的価値がわからない今の若い世代の人たちはほとんどゴミとして実家に眠っているものを処分する。ここでまた脱線する。以前にも書いたことがある話だ。20数年前に高槻市の山手に住んでいたKさん夫婦の家に一度だけ訪れたことがある。Kさんは京都工芸繊維大を出た後、どこかに勤め、定年退職後に趣味で風景の写生や染色をしていた。筆者が訪れた時は夫婦ともに70代後半であったと思う。まずKさんは笑顔で10数本の掛軸の束を見せてくれた。「これ、お隣りさんが引っ越しして行く時にゴミに出されたもんやけど、なかなかええのが混じっていると思って拾って来ました。」広げて見せてくれたものは聖徳太子像や書で、どれも印刷に見えた。親から受け継いだが、飾る場所はなかったのだろう。それで引っ越しの際に処分したのだが、Kさんの手にわたったそれらはたぶんまた同じ運命をたどり、今度こそ完全なゴミとなって燃やされたはずだ。というのは、筆者が訪れてから10年経たない間にKさんは自作の写生画や染色作品をみな処分すると言ったからだ。買い物に不便なその家から千里に転居するとのことで、断捨離を行なったのだ。高齢になると誰もがその運命に晒される。そしてかつては部屋を飾っていた思い入れのある作品は、たいていは値打ちはなく、またあってもその真価をわかる人に巡り合えることは稀で、人知れずにゴミとなる。打ち捨てられた膨大な作品にはごく稀には重文級の作品が混じるが、それを見抜く人と作品との出会いがまたごく稀で、ましてや掛軸となるとほとんどの人は興味がない。それで市場に出ているたとえば若冲や蕭白の掛軸にしても、そのほとんどはただ同然で古美術業者の手にわたり、数十万円の最表具費用をかけ、その10倍以上の価格で売られる。そんなバカなと思う人はいるが、ではその人が大量のそうした処分された美術品から宝を見つけるためには人生のすべてを費やす必要があって、そう考えれば何百万円で買うほうが安いことになる。また美術品の価値は流動的で、今人気のある人の絵が将来ゴミになることは全く不思議でない。そう思うと本館にかけてある書や絵画の掛軸はそれなりに当時は家主が愛したもので、その思いを斟酌しながら見るとまた味わいが湧いて来る。Kさんもそう思って転居した隣家が置いていった掛軸を拾って来たはずで、作品には魂が込められている。しかしほしがる人がなければ自ら処分するしかない。
家内の妹の長女が豊中に住んでいて、以前豊中の住環境について訊ねたことがある。彼女は高級なところがあれば下町もあるという常識的なことを言ったが、妙に納得もした。筆者は豊中市内に阪急電車の駅がいくつあるのか知らず、どの辺りがいわゆる山手であるかは今もわからないが、本館のある付近は豊中でもかなり裕福な人たちが住む代表的な地域ではないかと思う。家内の友人は豊中市内の音大を卒業したので、家内は筆者よりは豊中については詳しいようだが、それは昔のことで、今はかなり様変わりしているはずだ。その音大の少し北部に数年前に大いに話題になった学校が今も新築のまま閉鎖状態になっているようで、そういう問題が起こるのはどの市でも同じとして、豊中が高級住宅地もあればディープな下町もあるという言葉に納得する。人は住み分け、百年くらいでは地域の雰囲気は変化しないはずで、それで本館は修復されて文化施設として使われ、地域のNPO法人が運営するからには、思いを同じくする人々が自治会とは別に集い、豊中の高級感を広める役割を果たす。それは古い街でなおかつ文化度の比較的高い人が多く住むからだ。同じ古さでも農民ばかりが代々住んで来た地域であれば誇る歴史はなく、また財を成して文化に理解がある人も出て来ないだろう。そんなことを思いながら館内の部屋を順に見て回っていると、やはり昭和の懐かしい雰囲気が持ち味とはいえ、住んでみたい気持ちにはならない。筆者が子どもの頃によく訪れた京都の親類の家はどれも今はなく、記憶の中にだけ留まっているが、本館の内部を思い出してこうして書きながら、時代特有の建物の匂いを感じ、全く大きさも普請の立派さも比較にならないがかつてのわが家や親類の家の空気を連想する。それはもう過ぎ去ったもので、むしろ全く新しい建物を体験したい思いのほうが勝る。しかし一方ではTVでよく紹介されるように、最新のデザインで建てられた個性的な家にも関心はなく、その内部に目を引く何があるのかが気になる。それは家具調度ということになり、また絵画などの骨董品で、それらは容器である建物以上に時代の空気を反映しながら、場合によっては長生きする。芸術とみなされるからで、その意味で言えば本館は芸術的な凝らし方はなく、普通の金持ちの住宅であったと言ってよい。とはいうものの、本館のような住宅がたくさん現存していても内部を体感出来る機会は少ない。豊中市内をほとんど知らない筆者にとって、山手の住宅地域をわずかでも歩いたことはよい経験になった。豊中市内の北部に西国街道はあって、いずれそこを歩くつもりでいるので、その時には豊中の別の面が見えるかもしれない。筆者は阪急の庄内駅前の下町の商店街を歩いた時が印象深く、また訪れたい。やはり育ちは隠せないということだが、山の手も下町も同じ人間が住み、中身は大差ないとこの年齢になってなおさら思う。
●スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示→→