「
春雨の 物語書き 秋に成り 上にある田の 稲穂たわわに」、「ミドリンゴ ここに来いよと ビートルズ 今も昔も 子らは食欲」、「灰色の ビルの林に オブジェ置く 黄色の檸檬 子は意味知らず」、「本買わず スマホで済まし 澄まし顔 かさばる本に 圧死されずに」
1週間前の12日、家内と梅田に出てJR環状線の福島駅で降り、とある公園で野外演奏を見た。その後、雨宿りがてらもあって付近で昼を食べ、北浜の「適塾」に行った。その後中之島の中央公会堂前に戻ると、「適塾」付近のビルの谷間に大音量で響いていた催しの様子がわかった。若い女性が司会をして、バイクの曲芸のような見世物をやっていた。大きな丸太の上をバイクが走るなど、バイク好きにとっては格好いいのだろう。会場となった空間を観客が長楕円形に取り囲み、普段は車が通るはずの道路は閉鎖されていた。いつの間にかその道路は広場が拡張してその一部になったのかもしれない。その会場の真横の東洋陶磁美術館が改装中で、それに伴って中央公会堂前は車が走らないようにされたとも考えられる。あるいは日曜日であったので、臨時に道路は使えないだけか。それはともかく、観客を右手に、以前とは外観が新装になった東洋陶磁美術館を左に見ながら、難波橋に向かった。そのすぐ先に安藤忠雄が設計し、大阪市に寄贈した子どものための図書館がある。内部に入ったことがないので、ちょうどつごうがいいと思って石の階段を上がると、そこにもたくさんの人が入館待ちの列をなしていた。たぶん1時間以上は待たねばならず、内部に入ることを諦めた。緑色の背丈以上の巨大なリンゴのオブジェがあることは知っていたが、目の当りにするのは初めてだ。これと同じものが兵庫県立美術館にもあって数年前に写真を撮ったが、ブログには載せていないと思う。それはともかく、子どものための図書館は神戸市内にもあって、以前
KIITOを再訪した後、その真横を歩いたことを投稿した。今調べると中之島の館は3年前の夏に開館し、神戸は2年前の12月だ。KIITO再訪は去年5月であったので、開館から半年ほどであった。建物の玄関前に行かなかったのは、日没であったことと、子連れでない大人だけの入館は差し障りがあると思ったからだ。後者の理由でこの中之島の子ども図書館も前を通るだけで階段を上らなかった。今回は外観をまともに見ただけで、今後も内部には入らないだろう。孫がいれば話は別だが、子ども用の本にほとんど関心がない。元来そうではなく、好きな絵本作家の本はぜひともほしく、今でも見つければ買っている。その筆頭は片山健だが、たまに福音館から出る本を買うと、いかにも最盛期は過ぎた印象で、画風はマンネリ化し、しかも勢いがない。とっくに故人となった瀬川康男の画風も好きで、海外の作家では昔は
イエラ・マリを大いに好み、展覧会を見るために刈谷市まで訪れたことがある。
その後良質の絵本をたくさん日本が生んでいることは知っているが、気になる絵を描く作家を知らない。積極的に探す気が起こらないからだ。これは偏見、直観、無精ないし怠惰、それに優先順位が低いなど、理由はたくさんある。それでこの「子ども本の森」に数日じっくりと入らせてもらえれば新たに発見することが多いことを思うが、児童用の本をどの図書館でもそれなりに置いている。茨木の万博公園内にあった児童図書館は10年かもっと前に閉鎖になり、建物はそのままあるが、蔵書は荒本にある大阪府立図書館に移された。一般に公開されているはずだが、貴重書は館内で手続きを踏んで閲覧が許可されるだけであろう。児童用の本は大人のそれよりも扱いが雑になりやすくて破損しやすいからだ。図書館はそうした本を廃棄処分する可能性は大きいと思うが、蔵書が増える一方の図書館では随時人気のない本を放出するので、図書館に行けば昔読んだ本が必ずあるという時代ではとっくになくなっている。それで気になる本は買って手元に置くべきだが、そういう本好きは図書館にはあまり行かないのではないか。税金で運営するからには税金を払っている市民の要望を優先し、ベストセラー小説をまとめて20や30冊購入する図書館があって、それでも予約から半年ほど待たねば読めないことを以前TVが紹介していた。数十年先にはほとんど誰も読まずに100円でも売れないそうした本を大量に買うことは税金の無駄だと筆者が思っても、大多数の声に否定される。1万人のうちひとりくらいしか読まない、また数年に一度あるかどうかの閲覧では、却ってそういう本に税金を使うなという声は大きいはずで、良質な本の意味が本を買う金をけちる大勢の市民によって左右される。話は変わるが、昔はよくドイツ文化センターに行き、そこで本やCDを借りた。ところが館長が変わってそれらの蔵書が処分されることになり、幸いその情報を得た筆者はほとんど無料で多くの本やポスターを手に入れた。その後ほとんどドイツ文化センターを訪れていないので、かつての本棚がどうなっているのか知らないが、ドイツとしては日本で買えるドイツ関連の本を置くより、限られた空間をドイツの作家や芸術家との直接の交流の場としたい考えはよく理解出来る。今でもドイツ文化センターから定期的に催しを告知するメールが届くが、そのほとんどはドイツ語が話せてドイツから来た知識人との直接の触れ合いを設ける機会と言ってよく、昔のように気軽に珍しい映画が見られることはなくなった。館長が変われば方針が変わることはいいことだ。そのように方針ががらりと変わると訪れる人も変わり、それでこそ新たな意見が積極的に交換され、最新のドイツ文化が日本の紹介される。ただし前述のような日本のベストセラー軽文学に相当する作家は除外されているはずで、そのことを日本の本好きは考えてみるべきだろう。
そういう大人になっての読みたい本への入り口として子ども用の図書館が果たす役割は、置くべき本の選定を大人がするからには大人の思いに左右される。そこで絵本にもベストセラーがあるから、そうした本が優先されるはずだが、絵本は長年愛読される有名なものがあって、そうした本は初版からベストセラーであった場合が多いのではないかと想像する。そこに出版社やメディアの宣伝効果を差し引いてみることが可能かどうか、大人向きの小説とは違った世界が子ども向きの本の出版、販売にはある気がする。そういう事情を鋭く察してベストセラー絵本を面白くないと感じる子どもは別の本を手に取るし、そういう選択肢の多さを持つ大きな図書館が出来たことは意義深い。しかし大阪市内に住む子どものうちのどれほどがこの中之島に訪れるだろう。親に連れられてにしても、その親が本に関心のない場合は多く、あっても仕事で忙しく、気にかけつつも子どもが絵本を卒業する年齢に達してしまう。それでこの図書館に比較的近く住む子には恩恵が大きいが、そうでない子は地元の小さな図書館で借りるしかない。とはいえ、この中之島の図書館は貸出は行なわずに館内で読むだけで、子ども本専門の大きな書店を思えばよい。筆者の子ども時代、本は月刊の漫画雑誌で、それが小学生高学年になると週刊誌に代わっただけで、本はすなわち漫画であった。それは絵本が少なかったからだと思う。『ヒカリノトモ』か『コドモノトモ』か、見慣れない雑誌が近所の子の家にあり、切り絵作家の挿絵が掲載されていたことを記憶するが、その珍しい、そして美を意識した本を手に取りながら、「こういう本が買える家は金持ちか」と思ったものだ。一方、学校の図書室には図鑑その他の子ども向きの本がたくさんあったのに、もっぱら本屋で買う漫画ばかり読んでいた。しかし以前に書いたことがあるが、家から100メートルほど離れたところにお爺さんが経営する古書店があって、店内の両方の壁面の棚に隙間なしに並ぶ古めかしい本の背表紙に圧倒されていた。そして今頃になってその古本屋に並んでいたであろう戦前の小説本をわざわざ買って読んでいるが、つまりは古書の雰囲気を知るだけでもそのことが大人になっても忘れ難い記憶になることを思う。それゆえ中之島のこの子ども向きの図書館が利用者の子ども与える影響は想像を絶していて、半世紀後にはとんでもない本好きの才能が出現するだろう。安藤忠雄が思うのはそのことだ。今の子どもが大人になった時の成長ぶりは子ども時代の貴重な体験にこそある。同じ本は学校や地域の図書館、あるいは母親が買ってくれるかもしれないが、そういうわずかな本が膨大な量の本の中に紛れてこの図書館にある現実を知ると、世界の広さを実感するだろう。それは知の追求は無限であるとの認識につながり、時間さえあれば本を読むという習慣ないし強迫観念を植えつけることに役立つ。
視力を悪化させる心配はあっても、本は読み過ぎてよくないことはない。ただし濫読しながら気に止まった事柄を考えることが大切だ。読後かなり時間、年月が経って印象が固まるところがままあって、そのことを忘れずにいることは読書の効用だ。そこに偏見が混じる場合があるが、正しい直観である場合は多い。また気になることを忘れずにいると、何年も何十年も心の片隅に残り、いつかそのわだかまりを自ら解消する気になる。筆者は漫画本位で子ども時代を過ごしながら、小中学校の図書館に新しく入った宇宙冒険小説のシリーズものなどの、特にその文章よりも造本や挿絵に関心が強く、またインクや紙の匂いに新しい本を開く感慨に囚われたが、その経験が大人になって書店に足を運び、思い切って高価な本を買う行為につながった。本は捨てない限り、身のそばにあり続け、開けば書かれる内容が頭に流れ始める。この子ども図書館を卒業した人はすぐ西にある府立図書館にやがて通い始めるだろう。そこには江戸時代の版本もあって、知識の追求は果てがないことを知る。そうした図書館が無料で利用出来ることは府市民からの税金があるからで、財政が乏しければ図書館どころではなく、読みたい1冊の本のために他府県に足を運ぶか、あるいは自分で買うしかない。後者はネット時代になってとても便利になったので、筆者はもっぱらネットの「日本の古本屋」に注文するが、児童書を扱っている書店は少ないだろう。漫画本と同じく消耗品と考えられる向きがあるためで、そのためにも万博公園にあった児童図書館は貴重書を多く抱えていたが、研究者が大切にする児童図書があることを子どもが知ると、本を読むことを内心誇らしく思うのではないか。今日の3枚目の写真は館内を外から覗いて撮ったが、天井に届く本棚が見える。それらの本はどのようにして手に取るのだろう。昔司馬遼太郎記念館を訪れた時、同様の巨大な本棚があって、数万から10万冊くらいの蔵書があると聞いた。天井高く見上げる本棚はまるでバベルの塔だ。実際毎月児童書は発売されるから、この図書館の蔵書は常に蔵書は変化する。その途方もない量の本からひとりの子どもが手に取る本はごくわずかだが、筆者の子どもの頃と比べて知らない本の表紙や背表紙が大量に並ぶさまは本好きをさらにそうさせるはずで、よい施設が出来た。子どもたちはいずれ安藤忠雄がどういう思いでこの図書館を寄贈したかを知るだろう。その時、郷土愛や、経済的な勝者はいかに市民のために金を使うことが格好いいかを学ぶだろう。巨大な青いリンゴに安藤がどういう思いを込めたのか知らないが、筆者世代はビートルズを連想する。難波橋の上から西を見ると、ビルの林か森の中にこのリンゴはよく目立つ。安藤はその効果を狙って設計した。中之島では最適な場所にあって、よくぞ空き地が残っていた。神戸にも建てたことは安藤の底知れぬ経済力を思う。
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