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●『適塾』
さんは のんびり歩き コスパ無視 万年も生き 続けまんねん」、「諭吉さん 毀誉褒貶の 人気者 一万円の 価値ある顔に」、「勉強は 強いて勉むと 知るならば 嫌がる子らに 遊び学ばせ」、「ボタン押す クイズ頭脳の 人気者 情報通が 重宝されし」
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今日は12日に大阪福島の公園で461モンブランの野外演奏を見た後に訪れた「適塾」について気ままに書く。演奏前からぽつぽつと小雨が降り始め、演奏後はそれはややきつくなり、北浜に向かって歩いている途中、コンビニでビニール傘を1本買った。700円であったが、大きなサイズだ。それで家内と相合傘で中之島を東に向かうと、すぐに雨は上がった。中央公会堂前は大変な人だかりで、大音量のマイクを持った司会の女性が何やらしきりにしゃべっていた。それにかまわずに栴檀木橋を南にわたって「適塾」に向かった。そこに着いても公会堂前の司会の音はかなり大きく響き、異様な雰囲気であった。日曜日であったからよかったものの、平日であれば周辺の会社から騒音公害で訴えられたであろう。それはさておき、「適塾」の入場券はかなり以前に入手していた。阪大が発行したもので、「適塾」と阪大はつながりがある。大学がなかった江戸時代、大阪では「適塾」がそのひとつの代わりをした。今の大学はあらゆることを教えるが、「適塾」は蘭学を主に教え、それが日本の近代化に大いに役立って今がある。大学で何かを専門に学んでも、たぶん9割以上の人はそれを活かせずに生活して行くだろう。では大学は無駄かと言えば、そうではない。人生はどのような経験も無駄ではない。そう考えねば生きていけないからでもあるが、ネットで若者がよく使う言葉の経費や時間の効率を真剣に考える人は大学に行かないほうがよい。将来どのように役立つかわからないことに若い時代の数年と多額の授業料を費やすことはあまりにも馬鹿らしい。ネット時代になって、かさばる百科事典は飾るだけの無用の長物となり、学ぶ気があれば大学以上のことは何でもネットから吸収出来るだろう。しかし世間ではどの学校を卒業した、つまり最終学歴で当の人間を見定めることは歴然と行われていて、その人生競争の出発点に少しでも優位に立つために必死に勉強し、少しでも有名な大学に入ることがよしとされる。人生は結局人間性であると年長者が言っても、人生の本格的な出発時点で試験で振り落とされる現実を目の当たりにしていると、その恐怖心もあって自身を奮い立たせてテストの高得点を目指す生活に浸り続ける。不合格になればまた来年と夢を先送りするが、まあ夢を見続けられる間は幸福になれる。その夢が現実のものとなるとまた新たな夢が出現し、そうして人間は死ぬまで夢を求めてさまようが、夢がかなえられない人はどうするか。諦めるしかないし、またそのことで内心ほっとしもする。諦めると別の人生への見方が生まれても来る。
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 夢が大いにかなった人はそれで満足しているかと言えば、人間の満足度は夢の実現具合と比例しない。そのことは子どもでもよく知っているのに、大人になって馬鹿になって行く者が多いようで、コスパやタイパという言葉を得意気に語って少しの金も時間も無駄にしたくない人がいる。時と場合によってはそれはわからないでもない。筆者は行列に並ぶのが嫌で、いくら人気の店とはいえ、店の前に10人くらい並んでいるとほかの店に行く。それもコスパ、タイパの悪さを嫌う性格であるからだろう。となれば人によって尺度が大いに違い、それについて話すことがそもそもコスパの悪さとなる。で、コスタイパのよいことを書きたいが、筆者のブログは「ゆうゆうゆうぜん」で、コスタイパを意識せずに悠然たる気分で書きたいと思っている。しかしわざわざそう言うことは、本心は悠然とは真逆かと自問しないこともない。しかしやはりコスタイパは無視している。いくら大量の文章をブログに書いても、時間が大いに取られるだけで1円の利益にもならないからだ。これほどコスタイパを無視ている行為は珍しいだろう。そこで思うことは、人生の目的とはそもそも何かだ。誰もが気分よく、少しでも気持ちいいことが多いことを思って暮らしていることは間違いがない。それをするには金は欠かせないが、その額は人によって異なり、金がもらえないならば文章を書かない人もいれば、筆者のように無料でも大量に書く者もある。それは書くことが好きであるからで、誰かに読んでほしい、褒めてほしいという気持ちはほとんどない。そういう気持ちで書いた文章が面白いかそうでないかは誰も決められない。したがって自分が気分よいことをするのが第一で、筆者はそのように生きている。それは生活に困らない経済力が前提になるが、それは程度の問題だ。筆者は親の資産がなく、ほぼ無収入の年があるので、夫婦の最低限の年金だけの生活だ。それを何とも思っていないと言えば嘘になるが、正直に言えば、ほとんど何とも思っていない。どうにかなると思っていてもどうにもならないことがあり、その反対もよくあって、とにかく先のことをあまり心配して生活することは心身によくない。「ゆうゆうゆうぜん」はそのとおりで、些細なことに心を奪われたくないとの意味を込めているが、些事は人によって異なり、筆者は大いにこだわっているそれはある。コスパやタイパの重視は筆者には些事だが、たとえばある作品の細部の仕上げは大いに気になる。詩人が言葉を厳選するのと同じで、その意味では筆者は厳密主義者だが、そうなると、ある人を見て、何か気に入らないことがあれば関係を経つ性格と言えるかもしれないが、高齢になってそれもかなりどうでもよくなり、深い話をせねばせねばそれなりにつきあえる人柄になって来た。簡単に言えば、欠点と見えることに目をつむることが出来る。それも「ゆうゆうゆうぜん」だろう。
●『適塾』_b0419387_12281939.jpg さて、一昨日は京都の有斐斎弘道館で開催中の展覧会に出かけた。その感想は近日中に投稿するが、有斐斎こと皆川淇園は門弟三千人を抱えた儒学者で、応挙など当時の有名画家と交流があって、詩も絵もよくした。1735年生まれで1807年に死んだので、ほとんど若冲と同時代の人物だ。門弟三千人は、淇園が無料で儒学を教えるのではないから、知識を吸収しようと必死になったであろう。当時は珍しい書籍はそうした先生に学ばねば見ることは不可能であったから、学ぶ意欲のある者は有名な人物の門をくぐるしかなかった。彼らは将来何を専門に生きるかのあてがあったとは限らない。皆川淇園自身が儒者はもはや世の役に立たないと思っていて、中国の古い思想を学ぶことより、独自の学問を構築することを目標にしていた。もちろんそれは儒学者が読むべきとされていた中国の古典を読破し、その内容を知ったうえでの新たな思想で、基礎は中国にある。これは漢文を読み、自らも書くことの出来る才能があってのことだ。また中国の古典とはいえ、清時代の最先端の思想も当時はもたらされていて、それらを幕府は必要として、各藩は著名な儒学者を各地から招いて藩内で教えさせた。皆川は京都に留まって著名な武士と交友する一方、門弟は市井の無名の人々が中心であったはずで、彼らは漢学を学ぶことで世間では知識人と見られることを欲したのだろう。あるいはそういう世間の見方はひとまずはどうでもよく、とにかく昔から連綿と教えられて来た漢学に関心を抱き、それを学ぶことで自立した精神を養いたかった。コスパを考えればそうした学びは将来ほとんど役に立たずに大いなる無駄となりそうだが、実際淇園の門弟の9割以上は名を歴史に残さず、その後どういう生涯を送ったかは誰も知らない。しかしそれを言えば現在の大学生も同じで、世間で有名になる人物はごく稀だ。江戸時代であれば頭がよければ淇園などの先生に学び、やがて頭脳の明晰さが世間で評判になると、独立して先生のような塾を開くか、藩お抱えの儒者になる道もあって、現在の日本も経済的に貧しい者でも努力すれば勉学で秀でることは可能だが、大半の大卒は就職するし、そのために勉強すると言ってよく、そこからコスパ重視の考え、つまりいかに効率よく学んで入試でいい点を取るかに偏って来た。芸大を出てもどこに就職するかは本人次第で、そもそも芸大は会社に就職するために教えない。ではいずれ誰もが就職するのであるから、芸大は大いに無駄かとなれば、芸大でしか学べないことはあるし、出会えない先生はいる。そういうことを優先的に考えた場合、芸大はとてもコスパがよい。ある芸大の名のある先生と話したいと思っても、その芸大の学生でなければ機会はない。同じ理由で淇園の塾に多くの若者が集まった。しかし先生の名を汚す行為をすれば破門されたし、今の大学よりも師弟の関係は強かった。
●『適塾』_b0419387_12283667.jpg 江戸時代は個人で本を買うにも経済的な限界はあったろうし、ならば先生の塾に行けばめったに見られない本は山積みされていて、それらを直に先生から学べる。コスパを考えれば塾に入るのが最適であった。しかし塾で学んだことをその後どう生かすかは本人次第で、そこまで先生は教えてくれない。ところが塾生の間で交友は生まれるし、助け合うこともあったろう。その点でも塾での学びはコスパがよかった。しかし塾生が助け合ってもそこから漏れる人物はいるし、彼らはその後どういう思いで人生を過ごしたかは千差万別で、それゆえ想像しても仕方がないが、若い頃に必死に学んだ記憶は誇りとなって死ぬまで残るだろう。それに相変わらず自分の欲求にしたがって新しいことを学ぶ意欲は持ち続けるはずで、その点は現在の大多数の大学生とは大いに違ったはずだ。それは今はコスパの意味を単にいかに要領よく金を稼ぐ近道であるかと考えるからだが、大学で学んだことが直接に活用されないのであれば意味がないという考え方はまだましで、一流大学さえ出ておけばそれが肩書になって一生通用するとおめでたく考える俗物的思考も大量に生むことになった。いかにも金がかかっているような豪奢な暮らしをしていると、誰もが羨むに違いないと俗物は考えるが、それが通用しない世界は今もある。金持ちの俗物は同類と親しくし、お互い金持ち自慢をして火花を散らすが、そういう人種は江戸時代にどれほどいたであろう。日本を滅ぼすとすればそういう人種が幅を利かせ過ぎた時だと思うが、今はコスパの言葉はいかに要領よく金を稼ぐかという狭い意味となって、たとえばこの無駄に長い文を書いたり読んだりする人はコスパを理解しない「ぼんくら」と評される。ここで少し脱線する。以前に書いたことがあるが、還暦直前に死んだ友人Nは3、4歳年長の兄Mがいた。筆者はNの父親が亡くなった時にだけ、Mの顔をわずかに見たことがある。大阪住吉の実家に弔問に訪れた時だ。喪主はMであった。Mは京大の大学院を出ながら就職しなかった。そして結婚もせず、今も生きていると思う。NはMを大いに嫌っていて、実家に寄り付かず、10代後半で早々と自立して同棲もした。なぜ兄を嫌ったかと言えば、生活能力がなかったからだ。Mは子どもの頃から頭がよく、父親はとてもかわいがり、将来に期待した。Mはわがままに育ち、気に入らないことがあれば、冷蔵庫の卵を放り投げてバットで次々に割ったこともあったそうだ。大学では教授が注目するほどにMの成績は優秀であったが、大学に残って研究出来るほどでもない。それで家で近所の子どもを教えるようになった。Mの趣味は難解な数学の問題を解くこととNから聞いたが、それくらいは数学好きなら誰でもやる。求められるは創お造力だが、Mにはそれがなかった。しかし近所の母親からは信頼され、わずかな謝礼で子どもたちを教えていたらしい。
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 Mのその後や現在は知らない。実家住まいでは家賃に困らないが、子どもをわずかに教えるだけで生活が出来るだろうか。また塾となれば有名なところがいくらでもあって、個人が教えるでは小学生しかやって来ないのではないか。MはNにどこか似ながら、温和な印象を与えた。Mと世間話がしたいとNに言うと、Nは嫌な顔をした。生きて行くには収入は必要で、それはたいていは他者のために働くことだ。その方法がMには教えることしかなかった。今の若者のコスパ思想を持っていると、さっさとどこかの会社に就職していたが、そうしなかったのは人間嫌いであったためか。京大工学部の大学院卒であれば、何なりと仕事はあったはずだ。もったいないとMに言えばきっと怒るだろう。その言葉はコスパに直結しているからだ。人並以上の頭脳がありながら、生活の知恵が人並に及ばない者はいる。筆者が幼少の頃でも近所の大人はそういう大卒がいることをよく話していた。ごく普通のそうした人々からすれば、そういう大卒で生活能力のない者こそが「アホ」であった。しかし知能指数の少ない人は永遠に生まれ続けるし、知能の多寡はIQだけで決められない。誰が絶対にアホで偉いかは視点を変えれば違って来る。Mは勉強好きなだけで、そのほかは何の魅力もないのかどうか。それは人は変わらないものと考える人にとってはそうかもしれないが、Mも出会う人によっては生活を変えるかもしれない。あるいは変えなくてもMがそれで満足しているのであれば何の問題もない。話を戻すと、皆川淇園に学んだ者のうち、名を挙げなかった人たちはその後どういう人生を歩んだかの一例が、Mにあると言うのは間違いだろうか。現在でも大学を出た後、結婚せず、また低収入に甘んじる人は大勢いる。では彼らが人生の敗残者であるかとなれば、それを認めて自己を卑下し、時に自殺する人はそうだろうが、それなりに気楽に気分よく達観して生きている人はむしろ勝者ではないか。それは大いに読書し、思索を欠かさず、世間を広く眺めて何が自分にとって重要かをよく知っている人ではなおさらで、そういう無欲な人を昔から賢者と呼んで来た。皆川のもとに集まった人々はそういう考えで一致していたのではないか。どのような思考も金儲けにつなげるのであれば商人になればよい。しかし皆川時代の商人も、商売のはるか上に位置する学問を学ぶことの大切さ、楽しさを知っていた人は多くいたはずだ。商売上の成功は努力以外の時の運が作用するが、金品が介在しない学問は導いてくれる師と自らの努力のみで果てしなく伸びるもので、そういう境遇に一時でも身を置くことは世間の広さを学ぶ効果があった。世間の広さを学んで狡猾になる者はいるが、それは学問の悪用ゆえであって、普通は他者、特に社会的な弱者を優しく見るようになるのではないか。そうでなければ学問をする意味がない。
●『適塾』_b0419387_12290417.jpg 「適塾」は福沢諭吉で有名だが、先日何度か触れた佐賀藩の佐野常民は一時学んだことがある。そこで福沢と出会ったのかと調べると、佐野は1822年生まれで1902年に死に、福沢は1835年に大阪で生まれ、1901年に死んでいるから、佐野が一回りほど年長で、同時代に生きた。1810年生まれの緒方洪庵が興した「適塾」は1838年から68年まで機能し、佐野が学んだのは48年から1年ほどで、当時福沢はまだ13歳であったので、ふたりの当時の出会いはなかった。「適塾」は蘭学を学ぶ私塾で、皆川淇園が死んで3年後に生まれた福沢の時代になって、「脱亜入欧」が唱えられるようになって行く。では皆川の教えた漢学は意味をなさなかったかと言えば、それは全く違う。福沢は漢学の基礎の上に蘭学を学び、西洋の言葉を日本語に置き換える場合に漢学は大いに役立った。それがよかったのかそうでなかったかの論があるが、日本が言葉の上でも「脱亜入欧」を標榜して、明治時代に潔く日本語を捨てて英語かフランス語を国の言葉として定めていれば今頃はどうなっていたかとなれば、宗教の問題があってそれはとても現実的ではなかった。それほど仏教の力は大きく、真宗がキリスト教を排除する代わりに戦費を調達することを政府と約束させたのであって、言葉だけ国民全員が英語を話すようになり、宗教が仏教のままということは不可能な状態であった。それで漢学はほとんど忘れ去られて蘭学によって工業化を果たし、昭和の高度成長を遂げたが、仏教は昔ほど重要視されず、さりとてキリスト教徒が急増することはなく、相変わらず「脱亜入欧」の意識で国も国民も動いているように見える。「脱亜入欧」の考えは日本とまるで違う欧米を実際に自分の目で見れば無理もない。清がイギリスに蹂躙され、中国人が人間のように扱われなかった様子を目の当たりにすれば、日本人は誰でも危機感を持ったはずだ。そして中国や朝鮮が日本よりも文明開化が遅れていると考え、そこから蔑視につながる思いが生まれて来たとしても、それも当時は止むを得なかった。福沢は貧しい幼年時代を送ったので、朝鮮の両班思想を唾棄すべきものと思っても当然のところがある。両班の世襲政治が続いて朝鮮は貧しい、遅れた国になって行ったが、そのことを平民が気づいてもどうにも出来ないほどの強固な体制が何百年も続いていた。そういう現状を見て福沢が幕府を嫌い、民主主義の国を造る、そのためには教育すなわち学問が最も大事と考えたことは誰にでも容易に理解出来る。ところが国の根幹はそう簡単に変わらない。今はまた江戸時代並みの世襲政治で、それを改めるすべを国民は知らない。戦争で国土がアメリカによって破壊されたのに、戦後はアメリカを崇拝する国としては世界一となった。それを仕方ないと見る向きは、とりあえず戦争に巻き込まれずに平和を保っているからだ。
●『適塾』_b0419387_12291816.jpg それを言えば筆者のこうした呑気がブログも平和あってこそで、戦後どうにか平和であるのは世襲議員が多いにせよ、自民党のおかげで、彼らのずるいこともまあ大目に見ようというのが一般的な考えだろう。さて、「適塾」ではたくさんの写真を撮ったので、それらを全部載せるには文章を多く書く必要がある。それを念頭にどうでもいいことを書き連ねているが、「適塾」は耐震のための工事はなされたものの、ほとんど福沢が塾長であった時代の姿を留めているだろう。2階に模型があって、それと見比べるとどこがどう違うのかがわかるが、まあほとんどそのままだろう。ただし、周辺はビルだらけで、福沢時代の街並みを想像することは難しい。それでも想像力を逞しくすればどうにか補える。「適塾」では2階の大広間が塾生たちが集まって学んだ場所とされる。福沢によれば塾の内部はかなり汚かったという。それは若い男がたくさん集まれば充分想像出来ることで、福沢も素っ裸でいたことがある。そして1冊しかなかったオランダ語の辞書を塾生が日夜引っ張りだこで研究し、どういう日本語で訳せばいいかを競い合った。今なら簡単にわかることでも当時は一語の解読に何日も要し、またそれが正確ではなかったことはたくさんあったろう。オランダ語を学ぶ一方、一番重視されたのが医学だが、漢方の薬をどう処方するのかとなれば漢学の知識の動員で、蘭医学では主に解剖から体内の仕組みを知り、手術するというように研究は進んだであろう。つまりヨーロッパでは何もかも長い歴史を持つ中国とは違い、産業革命の威力を実見して一時も早く「脱亜入欧」を遂げようと福沢は考えた。そうした思想を持てば、たとえば「適塾」の建物を見てあまりに古く、回顧に浸っている余裕はないと思ったろうか。「適塾」は日本の木造建築の内部を知る者からすれば、懐かしい感じがして、筆者は昭和時代と直結している気がした。それは一度内部を見れば充分と言えばいいか、あるいはそこで生活することも面白いと思う両方の感覚の同居だ。たとえば中学生の時、近隣の借家をたくさん持っていた武藤君の家に一度だけ上がった時、その部屋の数と大きさに驚き、また槍がさりげなく鴨居の下にあるなど、自分の家とは別世界と感じた記憶と重なって、武藤君とは中学卒業以降一度も会っていないが、彼の親しみが福沢のそれにだぶり、福沢を縁遠い見知らぬ人に感じない一方、やはり自分とはわずかに擦れ違っただけの人という気もして、そのどちらにもいつでも揺れる存在であると思うことに似ている。また福沢は東京に住むようになって「適塾」の生活を思い出したであろうか。思い出したとして、それは「適塾」の内部に入って誰もが感じることとほとんど差はないだろう。「適塾」では時は停止したままで、その建物の内部を見学することは福沢の生々しい塾生生活を想像することに大いに助けになる。
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 そしてさらに思うことは、学ぶ場所がどこであれ、学問の大切さだ。そこで福沢の考えた学問とは何かという話になるが、「適塾」で学んだ者は皆川淇園の場合と同じく、将来何かの分野で大きく出世することを目指したのではないことだ。学問は学問のためにすることが基本で、それを応用して何かをすることは別の話だ。皆川や緒方洪庵に学んだ大勢の人が無名のままに死んだとして、彼らの人生が無駄であったとなればそれはない。彼ら無名の学問を愛した人々が社会を支えたのであって、彼らの裾野が広大であったので佐野や福沢のような人が出て来た。そのことを無名で死んだ人たちは悔しがったか。そういう人もあったかもしれないが、名を成す人と一緒に学んだ記憶を誇りに思ったのではないか。その思いは当時の塾生だけではなく、塾に入りたくてもそれがかなわなかった勉強好きの子どもにも影響を及ぼしたはずで、そういう仕組みが世の中にあったために日本は「脱亜入欧」を早々と試して成し遂げもした。福沢は荻生徂徠を尊敬したらしいが、漢学者では限界があるとみなしたのは時代の激変を思えば当然であろう。しかし、徂徠にしろ、また淇園にしろ、江戸期の儒学者たちは明治以降は完全に時代遅れになって無益になったのかどうか、まだそれは判断が出来ないのではないか。時代はどのように変わるか誰にも予測がつかない。「脱亜入欧」とはいえ、日本に最も近い国は韓国であり、中国で、完全な「脱亜」は不可能であるし、また「入欧」も無理だ。そこで「和魂洋才」という便利な言葉もあって、その「和魂」はアジアにあって育まれたもので、たとえば仏教を捨て去ることも不可能に違いない。として、大学生ではない一般人が携わることの出来る学問とは何かの問題が浮上する。筆者は学者ではなく、興味の赴くまま自分で調べては納得する暮らしを続けているだけのことで、学問からはほど遠い。そのことを恥じながら、わずかでも視野を広く持とうと偏見をなくしたいとは思っている。先の話で言えば、「適塾」に学んだ無名の人の知り合いの知り合いといった立場で、昼夜を問わずに未知のことをどうにか知ろうと格闘を続けた人たちに憧れがある。そういう人物を成金が「アホ」と呼んで蔑むことをよく知っている。まあ社会を経済の面のみで見るならばそうした人の考えは正しいのだろう。しかし経済だけで世界が回っているのではない。つまりコスパやタイパ重視でいると、見逃すことが必ずあると筆者は思っている。人間は何が無駄かは自分で決めるが、それが正しいとは限らないことを自覚する心の余裕は欠かせない。心の余裕は学問をすることで最も確信的に得られる。もちろんそれは入試のための勉強ではない。社会に出て大人になってから自発的に学ぶことだ。そういう同好の士が周囲にいなくても孤独にはならない。学びたい欲求とその対象があれば、他のことを考えている暇がないほどだ。
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 福沢諭吉は聖徳太子に代わって1万円札の肖像に登場したが、来年の新一万円札は実業家が選ばれている。これは学問より実業の重視へ日本が方向転換したことになりそうだが、昔の千円札の伊藤博文と同様、福沢は韓国や中国との国交の摩擦のタネにもなっていて、それを回避したい思惑も影響しているのだろう。福沢のアジアでの評価は「脱亜入欧」の裏の面としてのアジア蔑視に着目することで大いに揺れ動く。それは福沢学とでもいうものが韓国や中国で徹底されない事情を反映している。福沢の著作の韓国語や中国語への完訳があるのかどうか、まずは福沢が書いたものを熟読し、それを時代に照らしてどこまで正統に評価するか、あるいは批判するかをしなければならないのに、食わず嫌いで福沢研究は外国には浸透していないと想像する。韓国でそれをやれば親日として非難されるであろうし、中国でも政治体制からして無理だろう。学問はいくらでも入口があって、奥がどこまでも続く。知識や情報は無限にあるとして、有限の人生ではそのごく一部に触れるに過ぎないが、誰も考えなかった、あるいは考えたがそれとは別の見方が出来ることを新たに意見出来る。そうして一見確定しているような知識や情報は常に改変の機会に晒されていることを知るが、学問はそういうものの見方を身につけることだ。あたりまえがそうではなく、あり得ないと思われていることがあり得ることを示すことでもあって、それを多くの知識を身につけ、深く考える癖を持って実行することだ。それは論破して悦に入るためではなく、相手を感じ入らせて学問を強いることが学問の効果だ。とはいえ、「学成り難し」で、一瞬で老年期を迎える。そうしてゆったりとした時間が持てるなら、その時こそ子どもの頃から気になっていることを調べたり、読書したりして優雅に思考すべきだ。浅学非才を恥じながら、あれこれ思いを馳せることはやはり楽しい。「適塾」の空気は印象深く、筆者は多くの塾生が熱心に勉学している様子を目の当たりにする錯覚に襲われた。それは建物があってこそ、また内部が見られるからであって、大阪が誇るべき施設だ。昔家内の仕事場の広島出身の女性の先輩が、大の大阪嫌いで、福沢諭吉が大阪に生まれたことを家内が言っても信じなかった。「あんな汚い街の大阪にそんな偉い人が生まれたはずはない!」と断固耳を貸さなかったらしいが、そういう人こそ「適塾」を見学し、福沢がそこでどのように勉強し、やがて海外に出て行ったかを想像すべきだ。しかし高齢の女性ではもう無理か。学問は誰にも開かれているが、今なおたいていの女性には無理とおいう偏見はある。そう言えば慶応義塾卒自慢の中年女性が「風風の湯」の常連にいて、いつもどこで高価なワインを飲んだとか、どこに旅行したといった話ばかりで、家内はその話の場をそっと離れるらしい。それが現在日本の金持ち像の典型か。
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 大学で尊敬出来る先生に出会えるのであればそれだけでも大学に入った価値はあるが、その尊敬は人間性と何をどう研究しているかを著作で知ることから生まれる。一方、著作は人間性を表わすとは思うが、それは著作から限定的に見えることだけで、全人格的なことはよほどその著者と個人的に親しくしなければわからない。緒方洪庵は福沢が病気になった時にわが子のように懸命に看病し、そのことが他の塾生に知られ、彼らはなおのこと洪庵を尊敬したろう。それは木造の2階建ての塾内で限られた人数の塾生であったからこその人間関係で、現在の大学のように限られた授業時間に先生が限られたことを教えるだけではかなり無理がある。それにお互いの人間性にまで踏み込んでの師弟愛を今の若者は求めていないだろう。となれば著作でつながるしかない。ブーレーズがストラヴィンスキーの楽譜を調べ、どうにもおかしい箇所を見つけて本人に会ってそれを確認したエピソードは、両者に親しい交際があったかどうか以上に感動的で、目指す芸術の違いはあっても、そこに師弟関係と言ってよいものがあった。そこで思い出すのは上田秋成だ。秋成は1734年生まれなので、皆川淇園とり1歳年長で、2年長生きした。秋成は大阪から京都に住んで淇園のことは当然知り、交友はあったが、上田の国学への興味を淇園はさほど持っていなかったはずで、秋成は論争相手として4歳年長の松阪の本居宣長と手紙を交わす。宣長も全国に弟子を三千人ほど抱え、その収入で生計を立てられた。そのことを秋成がひがんだのではないが、古事記研究で乞食のように金を得る宣長を諷刺し、宣長に国学を学ばなくても、独学で7,8割のことはわかると言った。筆者のその独学でだいたいはわかるという考えに賛成だ。独学はもちろん他人の著作を片っ端から読んでのことで、それでもどうしてもわからないことは著者に訊ねるが、それを秋成は宣長に対して行なったところ、全く相手にされなかった。逆鱗に触れたからだ。福沢が宣長の国学をどのように思っていたのか知らないが、「適塾」で蘭学を学んだことからして目は海外に向いていて、その点では秋成に通じている。これは大阪は開明的気質で、新しもの好きということで、それは現在の大阪を見てもわかる。大阪発祥の独特の文化は多いからだ。それが独学による賜物と言えば即断過ぎるが、敬愛する師に学んだ後は大いに独学で好きなことを研究する態度こそが、先生と言われる人が師弟に教えることではないか。先生の真似をしているだけではどんどん小粒の才能しか出て来ない。ネット時代になって古書は買いやすくなり、独学につごうのよい時代になった。最後に写真の説明をしておくと、最後から3枚目は「適塾」の玄関、続く写真は「適塾」の隣りの空き地にある洪庵の銅像、最後の写真は「適塾」近くの「銅座の跡」で、建物には市内最古の幼稚園が入っている。
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by uuuzen | 2023-11-18 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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