「
たまにはと 縄張り出でて 屋根の鷺 干上がる小川 魚おらずも」、「若冲の 墨絵になるか 屋根上の 休むゴイサギ 辺りを睨み」、「ペットには なりはせぬぞと 白鷺の 生きた魚を 見つけパクリと」、「鷺の舞う 桂川には 鵜が混じり 白黒碁盤 白が優勢」
今日の昼頃、家内が2階で洗濯物を干している最中、大きな鷺が屋根の上に止まっていると言う。今年は人生で初めて経験した猛暑日の連続で、筆者は2階に陣取ってパソコンの前に座っているが、家内が言う鷺を確認するために立ち上がり、窓の外を見ると、今日の写真のように屋根の先端にゴイサギがいた。烏のように群れず、堂々たる貫禄だ。同じ鷺はたまに裏庭の真上を飛ぶので、わが家の近辺は縄張りなのであろう。また「風風の湯」の際を流れる桂川支流の堰の端にたいてい陣取って魚を狙っているが、別の純白のコサギが反対側にいて、二羽が仲よく並んで魚を狙う様子は見たことがない。大雨の後、その堰がダムの放水のような轟音を立てての大量の水の流れになれば、鷺たちは普段魚を狙う場所に立てず、どこかに避難して姿を見せないが、餌にありつけないだろう。となれば豪雨が数日続けば鷺は空腹を抱え続けるが、そういう過酷な日が年にいくらかあるのが自然だ。毎日好きな食べ物にありつけると思っている経済にゆとりのある人間は不自然であって、ホームレスのほうが自然ということになりそうだ。何事も「ある時はある、ない時はない」で、「551の豚まん」のTVコマーシャルは自然の摂理を見通して含蓄がある。で、鷺に話を戻すと、屋根のてっぺんに立って周囲をゆっくり見回している様子は、眼下の小川のどこに魚がいるのかと思索しているのではない。今は小川は水がほとんど流れず、魚はおそらく泳いでいないからだ。空腹を抱える日のある鷺ならば、常に食べ物のことを考えて行動しているかとなれば、そうではないはずだ。満腹かそれに近い状態であれば、ひとまず魚以外のことを夢想する心の余裕がある。犬や猫もそうだ。その心の余裕を想像すると、人間と同じで、さまざまなほとんどどうでもいいことであって、人間で言えば芸術や哲学、あるいは他愛ない独り言に相当する。鷺は嘴が箸のように尖って魚をくわえることは出来ても、人間の手指に相当するものを持たないので、道具を作り、文字を書く必要もない。それが人間より進化が遅れているとは一概に言えず、人間が没滅へとまっしぐらに歩んでいることを鷺は知りながら素知らぬ顔をしているかもしれない。それはともかく、昨今流行りのタワーマンションに住めば、自宅から間近に鷺を見ることは絶対にない。筆者は子ども頃からマンションが嫌いで、地表近くで暮らしたい。タワーマンション住民はその考えを時代遅れと笑うだろうが、昔からアホと煙は高い所を好むと言うではないか。裏庭には烏や鳩はどうでもいいが、雀や鶯、ヒヨドリ以外に美しくさえずる野鳥が何種類も飛来する。
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